第30話「推しに好かれるのがいちばん困る件」
「今日はなんか、空気が違う」
いつもの通勤路。駅前のベンチでコーヒーを飲んでいた桐谷沙織は、ふと背筋に走った予感に身を固くする。
——来てる。
心のどこかが確信していた。視界の隅に映るのは、キャップを目深にかぶり、マスクをつけ、フードまでかぶった男。一般人ならスルーするその姿に、沙織の全神経がロックオン。
「なんでわかるの、って?バカね。わかるに決まってるでしょうが…!」
春日駿。彼女が長年推してきたアイドル。神。尊い存在。生まれた瞬間から細胞に組み込まれていたレベルで、識別できてしまう。
《現在の数値:53/100》
思ったより下がっていない。それどころか、驚くほど安定している。
「おかしい…推しに出会ってしまったら、嬉しさで即アウトじゃないの?」
動悸はしている。でも、呼吸は整ってる。足も震えていない。それどころか、頭がやたら冷静だった。
——逃げなきゃ。
駿がこちらに向かって歩いてくる。笑っている。優しくて、あったかくて、たぶんファン対応のモードではない笑顔。
「やっ…待って…なんでこっち来るの!?」
沙織は反射的に立ち上がり、そのまま反対方向に走り出す。鞄を肩に引っかけたまま、駅の階段を一段飛ばしで駆け上がる。
後ろは振り返らない。振り返ったら、推しの破壊力に自我を粉砕されると分かっていた。
「私はっ、推しに見られるような人間じゃないんだってば!」
心の中で叫びながら、改札を通り過ぎ、電車に飛び乗る。
息を整えながら、スマホを取り出しパラメーターを確認。
《現在の数値:51/100》
「……うそ。たった2しか下がってない?」
あんなに幸せだったのに。あんなに心拍数が上がってたのに。なのに数値は意外なほど安定している。
混乱しつつ、電車のドア越しに外を見ると、ホームの端にぽつんと駿の姿があった。人混みに紛れるように、でも確実に沙織を見送っていた。
——追ってこない。
アイドルだから?違う。きっと、そういう人なんだ。
「きっとまた会えるから」
かつて、ライブのMCで駿がそう言っていたのを思い出す。
“ファンと自分の距離は、どちらかが走らなきゃ縮まらない。でも、無理に追いかけなくても、きっとまた会えるから大丈夫。”
そのときの言葉が、今、静かに意味を持って胸に刺さった。
電車の中で沙織はそっと目を閉じる。
「本当に……何が起きてるの?」
パラメーターは、《51/100》。
減ってはいる。でも、以前のような急降下じゃない。
幸せなのに。胸がいっぱいなのに。なのに「壊れそう」ではない。
それが、ただ不思議で。 でも、ほんの少しだけ嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます