2.Early summer





【来宮eyes】





 季節はひとつ進んで世の中はすっかり夏。

 それでも俺の日常は代わり映えしない。

 大学が夏期休校中ですので稼ぎ時だとばかりにバイトのシフトを増やしてはいるものの、それ以外に課題やら何やらとやることもありますしその他といったら新学期の準備程度。

 代わり映えを求めるなんて高望みってやつですよ。


 高遠以外でつるんでる連中はカノジョと旅行だのカノジョを作るだのと鼻息荒く意気込んでおりましたが、こちらにはその予定も無いものですからそりゃまぁ気楽なもんですよ。

 カノジョねぇ。

 大学に入るまでには俺にもそういう相手が居たこともありましたが、バイト三昧ざんまいで構えないとなったらあっさりとフラれてはい次のかた!はい次のかた!みたいな感じでしたね。告白された時に毎回注意喚起をしていて、それでも良いということでお付き合いを始めているにもかかわらず何故か毎回毎回そういう結果に行き着いてしまう。

 学費を払うのは最初から分かっていたのでそれなりに貯えていたわけで。それを知っていて尚、何とかが食べたいとか買い物へ行きたいとか自分のことを優先するのが当たり前といった態度ばかりをとられれば面倒にもなりますよ。

 私のことが大事じゃないんでしょ!と言われる度に苦笑いを浮かべて謝りながらも内心『そっちこそ俺のどこが好きなんですか?』って思っていて、大学に入ってからはそういうのがすっかり面倒になってしまった。

 それにひきかえ椎名准教授はそこは流石さすがに大人ですからね。

 幼い仕草や言動とは裏腹にそういう面倒臭いやりとりは一切しません。

 本人は仲良くなったと思っていらっしゃるみたいですが、それでもこちらのプライベートにずかずかと踏み込んで来るようなことも致しません。

 知り合ってからまだそんなに時間は経っていませんが見た目だけではなく中身の方も好ましいかたなんだと思います。

 なにより、優しいんですよねぇ。

 俺が直ぐに思い出せる椎名准教授の姿はふんわりとした雰囲気と穏やかな空気を纏っていつだってにこにこと笑っている。




 昨夜は暑くて眠りが浅かったな……。

 お陰で変な夢を見たような気がする。

 起きて一番の感想がそれ。エアコンを付けるにはまだ早いかと思ってそのまま寝ているけれどそろそろ限界を迎えているのかも。

 じんわり滲んだ汗が不快でら寝たはずなのに逆に疲れが溜まった気すらします。

 だる〜い体に鞭打って、ずるずると寝床を這い出した。


「だっりぃ〜……」


 あくびをしながら伸びをして。

 ついでに少し痒いなって腹を掻いたら指が湿ったスウェットのゴムに触れて不快感から眉間に皺が寄る。

 普段は面倒だからわざわざシャワーなんか浴びませんが、椎名准教授や高遠と近距離で対面するわけですから身綺麗にするに越したことはありません。

 軽くシャワーを浴びて、適当な清潔感の服に着替えてお隣へ。

 大学の教員達は生徒が休みだろうが、いや、だからこそ邪魔が入らないことをこれ幸いと大多数が研究室に詰めている。

 河野さんもその一人。

 俺のお目当ての椎名准教授もご多分に漏れずに連日研究室にいらっしゃる。


「河野さん行くよ〜」

「あいよ〜……」


 いつも通りに河野さんを自転車の後ろに乗せてグッとペダルを踏み込んだ。

 折角シャワーを浴びたのに汗だくになるのは極力避けたくて、力を加減した自転車はタラタラと街路樹の下を進んでいく。

 それでも朝だっていうのに元気いっぱいの真夏の太陽はジリジリと俺の黒髪や夜勤ばかりで白い二の腕を容赦なくあぶっていくわけですが。


 暑さを感じているのかいないのか、俺の背中に自分の背中をぺったり付けた河野さんが天を仰いでふぁあ〜って気の抜けたあくびをする。

 河野さんの体温はかなり低めなので背中が汗を搔くほどでもなく、これだけ気怠げに体を揺らしているのに運転していても自転車が振られることもありません。

 街路樹の影から抜けた時に自身の影を見ると、河野さんは地面に足が付かないように器用に荷台に足を置いたり宙に浮かせてぷらぷらと揺らしてみたりと気の向くままにストレッチでもしているようでした。

 何となく違和感があったので確認してみましたが、その行動で自転車が揺れることもやっぱりないのでそのあたりはこちらに配慮をしているということで何も反応しません。

 器用だな、とは思いますが。


「最近どうだ」

「どう、とは?」

「心理学科のやつらがさぁキノがこっちに専攻変える気なのかって椎名ちゃんに聞いてたかんよ」

「初耳」


 椎名准教授の丁寧な個人レッスンのおかげで約一年分の遅れを取り戻した俺は、他の受講生と同じタイミングで講義の内容を理解できるようになってしまいました。

 当初の皆に追いつくという目的を達成するどころか余裕で追い抜いて、レポート提出は勿論調子に乗って試験まで受けてしまいました。

 どうやら椎名准教授は当初にした約束をたがえるつもりはなく、本気でレポートやら試験やらを免除してくれる気でいたみたいで試験会場に座る俺を見て目をまんまるくしておりました。

 提出したレポートも驚くほどきっちりと目を通していただいたらしく、最早もはや補習とは言えなくなった個人授業で直々じきじきにお褒めの言葉も頂戴致しました。

 なんと言ったらいいんですかねぇ。あぁ、そう。補習の成果を見せたくなったんですよ。

 そうでもしないと扱いが、なんだか可愛い生徒Kになってしまいそうですし?アナタのおかげで俺はここまで出来る様になったんですよって、しっかり認識していただきたくなったので。


「椎名ちゃんすっげぇ驚いてたぞ」

「そりゃあ良かったです」


 こちらはそれが目的なんですから。

 夏期休校が明けたら彼は更に忙しくなる。

 ゼミにも力入れなきゃってぼやいてましたし、他の准教授との兼ね合いや自身の仕事も色々と秋頃から詰まってくるそうで。

 初夏にかけてだってまぁまぁ忙しくて、特に最近は俺が意識して研究室に押しかけなければ普会えなくなっていて。

 前に言ってたバイト先のバーに来るって話も(本人は物凄く不服そうではありますが)流れに流れまくってますし。社交辞令で言った訳では無いらしく、高遠がらしくもないフォローを入れてくる位の忙しさだそうで。


「あー……なんかすげぇ嬉しかったみてぇだよ、椎名ちゃん。キノの事大好きみてぇだからなぁ」

「生徒として。でしょう?」

「そりゃまぁ満点とりゃ可愛くもなるべ」


 そこは否定して下さいよ……。

 と思った所で河野さんから見た俺と椎名准教授の関係は実際に生徒と教員なわけですから、前提として無理からぬ要望ですね。


 河野さんの背中に立つよってトンッと合図を送ってから立ち漕ぎで坂を登っていく。

 汗がふつふつと肌に浮かんでくるけれど、夏だから仕方がない。



 真夏の大学構内は人っ子一人見あたらない。

 青々と繁った緑に燦々と降り注ぐ真夏の日差し。近所の住人に散歩コースと称して一部解放しているものの、このクソ暑い真夏に散歩するような物好きはまずいないということですね。

 俺だってそれはそれは暑い夏に、汗を掻きながら自転車を漕いで、夏休みで学生の居ないガラガラの電車に乗って、朝からジリジリ照りつける日射しの中を好き好んで大学まで来たいわけがない。

 なんだったら家でゴロゴロ寝ていたい。

 空調の効いた部屋でのゴロ寝。

 最高ですよね。


「じゃあな」

「はい」


 ヒラヒラと手を振った河野さんは相変わらず気怠そうな足取りで職員通用口へ向かってしまいました。


 さて、俺も行くとしますか。

 目的地の椎名准教授の研究室は三号館二階の一番奥。

 今は窓が開け放たれて、外へ向かってカーテンがヒラヒラと揺れ……


「はい?」


 真っ青な空の下、該当の窓から大量の紙がぶゎっと散りました。

 ふいごで炎をあおったように、そりゃあ見事に舞い上がった紙はひらひらと一階の植え込みに落ちてきます。

 どうしてこんなことになったのかは存じ上げませんが、仕方がないので飛んできた紙を集めて回ることにしました。どうせやらかしたのは椎名准教授で、ちらりと確認した紙は何かの論文かその資料といったところでしょうか。

 木に引っ掛かった紙を汚さずに回収するのはそれなりに苦戦しましたが、多分これで全部かと。運が良いのか悪いのか。落ちただけで汚れてしまうような場所に着地していなかった紙束の砂汚れを軽く確認して、問題無しとして四方を合わせて立ち上がる。


「きの!」

「おはようございます」

「おはよう!……じゃなくて、それ!」


 俺が手にした紙束を指差してくりんっと目をまんまるくして驚いてるのがなんか愛らしくて、つい吹き出して笑ってしまいました。

 歳上のしかも准教授をつかまえて急に笑い出した俺に怒りもせず、彼はふにゃんっと表情を笑みに変えた。

 本当にこのヒト顔だけは良いな。

 顔以外も、まぁ、良いですけど。


「ちょうど今来たんですよ。そうしたら窓からこれが」

「今日もっちいからさぁ。エアコン付ける前に部屋のサウナみたいな空気を外に出そうと思って窓開けてたらしんが来て、廊下側のドアが開いてすげぇ勢いで風が通っちゃったんだよ」

「なるほど。それは災難でしたね(高遠が)」

「しんは上のやつ拾ってる」


 高遠のやつはやたら勢いよくドアを開けるから、急に風の通りが良くなって重石おもしを乗せていなかった紙の束が外へ向かって吹き飛ばされたわけですか。

 高遠ほどの勢いはありませんがタイミング的に俺がやらかしてもおかしくなかった感じですね。あ〜……俺がやらなくて良かった。

 生け贄高遠に感謝ですね。


「これ学会用の資料だったからなくしたら大変だったんだよ」

「え?まずくないですか?それ」

「うん。マズイ。これから集計するとこだったから。だからちょーっと確認するね」


 差し出された手に持っていた紙束を渡したら、その場で一生懸命並べ替え。

 でもこれ何枚か高遠が持ってるんじゃありません?上で拾ってるとか仰いましたよね?


「椎名!こっち全部回収したけどー?確認してー!」

「あぃっ!きの、行こ!」

「はいはい」


 二階の窓から身を乗り出した高遠が俺に気が付いてニィッと笑いました。えぇ、まぁ、人の悪い顔で。

 呼ばれた椎名准教授はぐぃっと俺の手を引っ張って、こちらの気持ちとか周りの目とかをなんにも気にもせずに研究室に向かいます。


 せめて手首を掴んでくれませんか?

 手を繋ぐとか、子供じゃないんだから。

 だから、なんていいますか、恥ずかしいっていうのか……。

 なんて表現したらいい?

 カノジョと手を繋いで歩いた経験くらいありますよ?

 なんかこう、デートですね、これ。みたいなやつで。雰囲気的なやつで。

 でも、こんな気恥しさは感じなかったな……。

 なんでこのヒト、楽しそうなんだろう?

 なんで俺、しょうがねぇなあって笑って許しちゃってんだろう?









【椎名eyes】





 窓際に重要書類を乱雑に積んでた俺が全面的に悪いよね。

 わかる。

 夜の間にこもった熱気が研究室に入った途端にむゎっと襲いかかってきて、エアコンを付ける前に窓開けて空気の入れ替えをしなくちゃって、そればっかりで頭がいっぱいになった。そんでもって、全部窓を開け終わったら……。


「おはよ〜。椎名ぁ」


 ってよく通るしんの声と一緒にドアがばぁんって開いた。で、それと一緒に風もぶゎっと通り抜けていったってわけ。

 風に舞う書類を見ながらあわゎゎゎゎ!って変な声しか出なくって、慌てたしんがドアを閉めた時にはかなりの枚数が真夏の空へ吸い込まれていった。



「あのさぁ、この惨状は何?確か昨日俺が帰る前まではこうじゃなかったよな?一晩でなんでこんなんなってんだよ。空き巣にでも入られたわけ?」


 部屋に戻ったらしんが呆れた顔して立ってた。

 だってさぁ、夏休みだよ?だぁれも来ないって思ったら油断するじゃん。散らかるじゃん。それに来る人は先に必ずアポとってくれるし。そういうのお構い無しに来るのしんだけだもん。


「きのが来る前に片そうと思ってたの!」

「はぁ?何その言い訳。全ッ然片付いてねぇじゃん」

「片そうと思ってたんですぅ〜!しんが資料吹っ飛ばしたから片付けする前にきのが来る羽目になっちゃったんですぅ~!」

「大体なんなんだよこの紙の山は!こんなんデータで集計すりゃ十分だろ」

「はぁぁぁぁあああ?紙で目を通した方が頭に入るんですぅ。そんなの俺の自由だろぉ」

「紙の山どころか部屋全体だってごちゃごちゃしてんじゃねーか」

「あーもーしんうるさい!この部屋使ってんの俺なんだから俺が良ければいいんだよ!」


 俺としんがキャンキャン言い合ってるのを暫くの間にまにまと笑顔を浮かべて興味深そうに眺めていたきのが軽いカラカラとした音を立てながら窓を閉めた。

 いつの間にかエアコンのスイッチを入れていてくれたみたい。

 古い業務用のエアコンがブー……って低いモーターを響かせて稼働すると、頭の上から涼しい風が吹いてきて二人とも何となく黙っちゃった。

 正しい意味でのクールダウン。


「資料が揃っているかのチェックをしましょうかね」

「……ごめんね」

「おや?俺は何を謝られているんでしょう」


 きのって優しい。

 いい年をして醜態しゅうたいを晒してたまれなくなって謝った俺に何でもないような顔をしてそううそぶいた。

 口元に薄く笑みを敷きながら散らかっちゃった資料を集めてページ順に分けていってくれたし、その間も俺を責めたりしなかった。

 なんなら楽しそうですらあったと思う。

 そういう相手に気を使わせないとこ、きのの優しくてあったかいとこだと思う。

 しんもめんどくせ〜っとかブチブチ文句は言ったけど、散らかってた部屋を他人を招いても恥ずかしくない程度の状態にしてくれた。

 何度も言うけど文句を言いながら!ね。


「そういえば椎名准教授って准教授って感じのしないかたですよね」

「お?来宮もとうとう呆れた?」

「違いますよ。なんです?その呆れるっていうのは」


 粗方片付いたからテーブルに教材を並べだしたきのが、俺を揶揄からかおうとしたしんの暴言を肩をすくめてケンカにならないように笑顔で一蹴いっしゅうしてくれた。

 きのは常に笑ったような穏やかな顔をしているから安心して話しかけられる柔らかな雰囲気があるけど、本当に笑った時は目が少し細くなって口元はいつもよりも少しだけ横に広くなる。なによりも目が優しくなる。とっても優しい目をして笑う。

 だからきのが笑ってくれると胸がほっこりする。


「良い意味で距離の近い人ですね。って言ったんですよ」


 どういう意味なんだろう?

 きのが言う距離って言葉の使い方が良く分からない。でもきのの笑顔はいつもと同じように優しいから、悪い意味ではないと思う。

 こういう時に学問てあんまり役に立たないなって思うんだよね。モデルケースに当てめたり、こういう時はこうっていう大体の目測はつくはずなのに、自分の事になったら全く役に立たない。

 もしもきのの心の機微が学問としてではなく実体験で分かるようになったら、きのが言ってる距離っていうのも分かるようになるのかな……?


「距離が近いってまた椎名が理解に困りそうな言い方をしたな」

「おや?困らせてしまいますか?」

「コイツは心理学やってるとは思えないくらいに比喩ひゆとか言葉の言い回しとかに弱いよ」

「おやまぁ。それはそれは」


 あー!今バカにされた!

 しんのやつ絶対にバカにした!俺そんなにバカじゃねぇぞ。きのが言ってる事くらい分かってるっての!

 たぶん。あれでしょ?

 その、他の教員よりも話しやすいとか、えっと、会いに来やすいとか、そういうやつ!


「まぁ椎名の事だからどうせ勝手に前向きにとらえてるよ。な?」

「オマエ!」


 いくら俺でもそろそろ怒るぞ!

 頭に来て立ち上がった俺の行動を長年の勘で当てたしんがひらりと立ち上がって身をかわそうとしたけど、こっちだって何年来の付き合いだっての!とっ捕まえて勢いのままヘッドロックを掛ける俺を見てきのがげらげら笑う。

 俺、二人よりずいぶん年上なのになぁ……

 准教授云々以前にまず年上扱いされてなくない?


「も〜っ!二人とも課題見てやんないっ」

「えっ?」

「おやまぁ、それは困りますね」


 何の為にわざわざ休みに学校来てんの!課題が難しいから助けてって泣き付いたのは誰と誰だっけ?

 子供っぽい事は重々承知してるけどつい唇がとんがっちゃう。


「わかったらちゃっちゃとやる!」

「はいはい」

「本来の要件はそちらですからねぇ」


 本当は専門外の課題だってあんだよ?昔ちょ〜っとかじったからなんとか教えられるかなぁ?っていう内容とかさぁ。嘘を教えるわけにもいかないから分からなかったら一緒に調べたりしてるし、そういうのわかってんのかな。


 おとなしく課題に取り組み出した二人を見てやっと心が落ち着いてきた。


わからないとこあったら聞いて」


 暫く二人が課題と格闘してるのを眺めてから自分の論文作成に向き直った。

 俺だって夏休みいっぱい欲しい。なんでやる事がこんなにあるんだろ……。

 手を付けなきゃならない資料だとか、アンケート結果の分析とか、学生から提出されたレポートとかのデータの山を見ながら心からげんなりした。



 そろそろ二人の様子を見るかって、きのの隣に座って課題の進行を確認する。

 滑るようにカタカタとタイピングをする指を思わず見つめて触ってみたいとか思った。

 別に女の子みたいに白くて柔らかなスラッとした指とか、それこそ手タレさんみたいに綺麗に整った指ってわけじゃないんだけど。なんだか爪の形が綺麗だなって。桜貝だっけ?肌色がかった薄いピンク色の貝。あれみたい。別に磨いたり何か塗ったりしてるわけじゃないみたいだけど、つやつやして綺麗。

 そういえば顔も綺麗なんだよね。

 近くで見ると肌とか男の子なのにするんってして本当に綺麗だと思うし、影を落としそうな長い睫毛まつげとか笑い皺のうっすらついたまなじりとか……。


「椎名准教授」

「へ?」


 至近距離でふって笑われちゃって、不意打ちの笑顔に驚いた心臓がばくばくと急激に全身に血を送りはじめて軽く目眩がした。

 きのの笑顔って犬がにまって笑ったみたいでなんか可愛い……。


「先程から何やら視線を感じるんですが……」

「あれ?」


 俺そんなに露骨だった?

 しんがまたにったら笑いを浮かべてテーブルの下でツンツンって足をつっついてきた。

 無視!ムシ!むし!絶対に乗ってやんない!


「え〜っと。前にバイトの話してくれた事あったでしょ?覚えてる?」

「はい。そんなこともありましたねぇ」

「俺の方がバタバタしてたせいでずっと流れちゃってたじゃん?そろそろ行きたいなぁって」

「なるほど。それを言うタイミングを計っていらしたんですね」

「そう!」


 巧く誤魔化せた!

 まさかきのに見蕩みとれてましたなんて言えないもんね。

 人の悪い笑みを深めたしんにはバレたけど。


「椎名准教授の都合が宜しい時にどうぞ。今なら大体居ますから」

「え?そうなの?」

「店は日曜日が定休日です。あとは月曜日と火曜日は俺は基本シフト入れていないですが、先に言っていただければ都合つけますよ」

「きの……もしかして、結構お金に困ってるの?」

「はいぃ?」


 きのが変な声を出して俺を見つめて固まった。

 なんか変な物食べちゃったみたいな、そんな顔。口元がちょっと引きつってる?

 しんが堪え切れませんでしたって風にげらげら笑う。


「あ、いや……えっとですね、お金は大丈夫です。今のところ特に困ってません。連日入ってるのはカクテル作るのにある程度経験積まなくちゃならないものですから。色々なカクテルを作れるようになると時給が上がるんですよ。今のバイトは暫くは続けるつもりですし帰りのタクシー代も出るんで今は多めにシフト入れていて」

「でもさぁ。毎日夜遅いと体にわりぃよ?」


 机に突っ伏して笑うしんが手をバタバタ派手に左右に振る。

 何が違うんだよ〜?

 しかもそんなに笑う必要無くない?

 何が真のツボに入ったのか全くわかんない。お金に困ってないのにそんなに働く理由って何?


「昼に寝ていられる夏期休校の間だけですよ。体を壊したら元も子もないですし、一応は計画的に働いておりますので」

「あ……」

「心配してくれてありがとうございます」


 ってきのが優しく笑った。



 きのが帰ったあと、部屋でしんにはちょと残ってもらった。

 表向きはきののバイト先へいつ行くかとかを話したいからって事にして。


「で?」


 腕を組んでテーブルにもたれたしんがニヤニヤと笑いながらこっちを見てくる。

 長い間一緒に居るだけあってしんが考えてる事は取り敢えず一通り解ってたつもりなんだけど。

 久しぶりにしんの意図が見えない俺は考えたところでグルグルと思考が同じところを回っちゃうのが分かってるから本人に聞いちゃう事にした。

 今回のは本当にわからないから。


「なんで俺ときのをくっつけたいの?」


 そうとしか思えない。

 最初はなんかそんなん言ってたっけ?位だったけど最近はどうしてそう思ったのか理解出来ないけど俺がきのに構うのを楽しんでいるような気がする。しかも、それは悪意からじゃなくて。多分、完全に善意なんだと思う。


 しんが少しだけ目を細めて、首をほんの少し横に倒した。

 言葉を探している時のしんの癖。

 俺に思ってる事を正しく伝えようとしている時、しんはこういう風に頭の中で言葉を取捨選択する。

 それを知っている俺はしんが言葉を紡ぐまで黙って待つしかない。変に邪魔をするとへそを曲げて欲しい答えが返って来なくなっちゃう。


「最初は別にそこまでじゃなかったけど。お前の世界に来宮が入ったから」

「俺の世界?」


 節のある長い人差し指が俺としんの顔の前をスゥ……っと横切る。

 つい、目で追った。


「お前さ、他人と自分との間に線引くだろ。しっかり線引いてるくせにそれとわからせないような曖昧あいまいやつを。何かあった時に言い訳できるように、わざと薄らぼんやりしたやつを明確に引いてるように見えてんだよ」

「どういう意味?」

「だからさ、言い訳できるように線引いてんだよ。無意識に。俺みたいな親しい相手ってって言えば理解できる?自分の事を裏切らない、そいつには裏切られたくないってお前が認定した人間しかお前はお前の世界に入れねぇじゃん。こいつは大丈夫だってお前が認めて初めて線が消えて、お前の視界せかいに入れる」

「そんな事ないと思うけど?」


 そもそもそんな難しい考えてもみなかった。

 ため息をいたしんがめつけるように俺に視線を寄越す。


「だからいつまで経ってもお前の恋は報われねぇんじゃん。始まりさえしねぇんだもん」

「だからって……」

「言ったろ?気に入りそうだって。パーソナルスペースへ入れたのはお前。俺は軽く背中を押しただけ」

「きのは男の子だよ。しかも、年の離れた」


 他にだって懸念事項は掃いて捨てるほどあるでしょ?ちょっと考えただけでもいくつも思い浮かぶ。

 しんは目をすがめた。


 確かに俺の恋は昔から成就しない。

 した事が無かった。

 それについては全面的に認めるし身内にダダ漏れに漏れていた事が少し恥ずかしい。

 でも、それはきのを勧める理由にならない。

 俺が恋愛不適合者だとしても、きのは違うと思う。


「別に」


 ふぃっとしんが顔を背けた。

 ドラマのワンシーンみてぇに綺麗に身をひるがえす。


「落っこちたらなんでもよくね?」


 そのまま部屋を出ていこうとするから慌てて腕を掴んで引き留める。

 このまま別れたら最高に気まずい。

 それにしんがこういう態度をとる時は自分に絶対の自信がある時だもん。

 こっちが折れないと変にこじれかねない。


「何?」

「それについてはよく考える。だからきののバイト先に連れてって」


 ちろりと俺の目をまた睨めつけてから、厚い唇の端をクイッと吊り上げた。

 しんの思惑通りに動いちゃったみたいであんまりいい気はしないけど今は仕方ないから無視しておく。


「いーよ」



 しんが出て行ったドアをじっと見つめた。

 なんでか体に力が入らなくてボーッと突っ立ったまま頭の中はさっきのやりとりを冷静に分析し始める。

 俺の良くない癖。

 考えるとは言ったけど、答えは多分もう出てる。

 それを肯定したくないだけ。

 肯定したら、哀しい未来が目の前にどーんって壁みたいに立ち塞がるから。


「だってさ、断られるの……嫌じゃん」


 きのは、さ?俺にそーいう風に想われてるって知ったらきっと困るでしょ。

 嫌だなとか気持ち悪いなって思ってもきのは言わないと思うし、そういう感情を上手に隠しちゃうと思う。

 どんなに考えたってきのの立場を自分に置き換えてみれば未来さきが無い事なんて判りきってる。


 若い頃は人並みに恋愛感情を抱いた事もあったけど、しんが言った通り俺の恋はいつだって実らない。成就しない。理由は自分が一番よく分かってる。

 臆病なんだと思うし、要らない事まで考えるから上手くいかなかった時の事ばっかり考えてふと気がついた時には手遅れになってる。

 相手が居る事だしこっちの勘違いだったら迷惑かけちゃうし、付き合ってからも先はあるし、今必要じゃない色んな事が頭を回って気が付いたら恋愛がはじまる前に終わっちゃってる。


「はぁぁ……」


 ため息をついたら体から変な力が抜けて、椅子にがっくり項垂れて座った。


 もう少ししたら午後の打ち合わせがあるから早く仕事モードに戻さないと。









【来宮eyes】





 とても不本意なことがあって。

 今までと勝手が違い過ぎて。


 出会ってからそんなに経っておらずどんな人間であるのかをよく知っている訳でもない。

 勝手にするりと俺の心の中に入り込んできておきながら存在を主張することもなく邪魔にならないように、それどころかすみっこでそっとこちらに向かって微笑んでいるような。

 高遠の従兄だからとガードが緩んだのか?

 いや、ない。

 自分自身がよく知ってる。

 俺はそんな人間じゃあない。如何にその相手を信用していたとしてもそれを担保にその相手以外を信用するなんてことはありません。

 では、この不安定な感情はなんだ?


 見て見ぬふりをした方が良い感情。

 置き場のよく分からない感情を俺は珍しく持て余してしまっておりまして。



 そんな風に日々を過ごしていたら椎名准教授と高遠が俺のバイト先のバーに来る日になってしまった。

 ちなみにこの感情に名前はつけていないままです。


 薄暗い店内はあくまで客がメイン。

 店員の存在は極力目立たせない方向で照明を絞り、雰囲気重視でかけられているBGMが客同士の会話が関係ない相手の耳に届かない程度の音量でゆるゆると流れる。

 そろそろ現れるであろう二人の姿が払っても払っても頭の隅をチラチラとぎってしまって、変に緊張しながらカウンターの内側で入口の方をうかがう。


「何か気になる事があんのか?」


 たまたま来店して目の前の席に座った河野さんがクイッとグラスを傾けながら少し眠そうなとろんとした目で俺を見上げてきました。初めは河野さんに連れられてご来店いただき今ではすっかりこの店の常連に仲間入りした初町はつまちさんも不思議そうな視線をよこす。

 そんなに露骨に態度に出てしまっていたのでしょうかねぇ……。


「想い人の来店予定でも?」


 完全なる不意打ちを食らって手にしたシェイカーを取り落としそうになった。

 取り落としこそしなかったものの、わたわたと手の中で金属の感触が左右へ行ったり来たり。

 俺としたことがなんて無様を……。

 悪気なく言ったであろう初町さんもこれには苦笑い。


「いえ。椎名准教授と高遠ですよ」

「椎名ちゃんか。そういやなんかキノのバイトがどうとか言ってた気もすんなぁ」


 河野さんはそれきり話を打ち切るようにツマミのナッツをポイッと口に放り込んだ。

 俺の動揺を察してくださったのでしょう。


 初町さんは俺に対しての理解は河野さんほどには無いのですが、付き合いの長い河野さんのことは手に取るようにわかるようで。二人の来店についてから、話題をするりと変えて下さった。

 但し、あくまでも俺に対しての興味は初町さんにはあまり無いので、変わった先の話題が宜しくないことも多々ございますが。


「来宮は椎名ちゃんの講義に受かったんだよね」

「えぇ。温情で」

「彼、面白いでしょう?」


 パチッとウインクした初町さんがイタズラっぽく人差し指で俺の胸をバンッ!と撃ち抜くジェスチャーをして爽やかにニコりと笑う。

 確かに椎名准教授が面白いかただということは認めますけどね。

 その含みのありそうな言葉はなんなんですかね?


「そうですね。魅力的な方ではありますよね」

「あぁ……だからか。今年は夏休みだっつーのにまめに大学通ってんなぁって思ってたけど、椎名ちゃんに会いに来てたのか」

「ちょっと!河野さん」


 確かにそれはその通りなんですがっ!

 アナタさっき気を使ってくれたじゃないですか!なんでここでそういうことを……。あー、ほら。事情を悟った初町さんが微笑ましいなぁって顔で笑っちゃったじゃねーか!

 大学生にもなって先生に恋しましたなんて恥ずかしくて言えねぇよっ!

 じゃない!

 まだこれは恋じゃない!

 変な感じがするだけで、断じて違う!

 違っててくれないとどんな顔してあのヒトの前に立てば良いのか分からなくなってしまう。


「椎名ちゃん狙いの学生多いからなぁ。まぁ頑張れ」

「は?なんですか?」


 聞き捨てならない。

 つい、聞き返してしまった……恋じゃないなら関係ないはずなのに。


 河野さんは別に答えるつもりも特別な意図もなかったみたいでぺろりと舌先で自身の唇を舐めた。

 そんな通常運転の河野さんの代わりにまた初町さんが困ったなぁ、と眉を垂らして返答を請け負ってくれました。


「高遠が不釣り合いだって追い払ったり椎名ちゃん自身のド天然っぷりで未だ未陥落みかんらくだけどね。想いを寄せる学生達の間では結構有名な話だよ。難攻不落なんこうふらくの椎名准教授は」


 思わず頭を抱えそうになりました。

 初町さんがそれはそれは申し訳なさそうに言うものですから……。

 恐らく俺はひどい顔を晒したんでしょう。

 難攻不落だなんて、あのヒト本当にどれだけ……。

 やはり、あれですかねぇ。もはや取り繕えないくらいに俺の琴線をめちゃくちゃに掻き乱してくれてるんですかね、あのヒト。


「そんなに……ですか?」

「まぁね。椎名ちゃん自身がほら。色恋沙汰から完璧に掛け離れたような雰囲気を纏った……浮世離れした存在でしょう?本人もそういう好意に全然気が付かないというか、認識しないというか。生徒は生徒でしかないからって割り切ってて特別視しないっていうか」

「お前ちょお~っと手厳しいな。ま、キノは生徒なのに珍しく椎名ちゃんに認識された特殊な例だかんよ。希望がねぇわけじゃねぇって俺は思うけどな」

「そうだね。視界に入り続けるとかそれこそ毎日でも話しかけるとか!とにかく意識してもらえるようにしておいたらどうかな?」

「もうお前は黙ってろ」

「でもそうでもしないと意識してもらえない相手っているでしょう?」

「黙れ!」


 河野さんはお酒を飲むと初町さんへの当たりが三割増しで強くなる。

 それはそれとして。

 初町さんがアドバイスしてくださろうとする気持ち自体はとても有難いのですが、それはただのストーカーだと思いますよ?


 別に今すぐ椎名准教授とどうこうなりたいわけじゃないんですよ。

 大体がこう、好意があるんだろうなって認めること自体に時間がかかったくらいですしね。

 今だってこれが恋と呼んで良いものなのかどうか戸惑って持て余しているわけなので。

 ただ、いつもの自分にあるまじき醜態を晒していて完全にコントロール出来ていた感情がどうも思い通りにならない。

 これはもう認めざるを得ないところまで来ているのかもしれない。


 理性あたまでは全力で恋じゃないと考えているのに、それでも時に俺も男だったんだな……って思うような気持ちがぎることがある。

 そりゃあやっぱりあるでしょ?

 あわよくば……みたいな感じのやつが。

 言わせんなよ恥ずかしい。くらいの感情が。


 俺はお付き合いというもので長続きした記憶がとんとない。

 もちろん相手は全て女の子でしたが。

 しかも長続きしない理由なんて分かりきってて。

 恋愛関係を維持する為にはお互いにそれなりの努力をしなくてはならない。それに気がついていながら俺は意図的に気が付かないフリをしたまま付き合っておりました。

 努力そうしてまで一緒に居たいと願うような人は、一人として居なかったので。


 お年頃ってやつになって、周りが付き合いだして、告白されて、なんとなくOKしてみて、多分これが所謂いわゆる『お付き合い』というものなんだなって漠然と思って。

 そんな感じで付き合っていたのだから上手くいかないのは当たり前だし長続きなんてしようはずもない。

 好きになれたらそれはそれで良いし、興味を持てなかったとしても付き合ったという経験になるなら良いくらいの心持ちで。


 あ、自覚しておりますが俺は人非人ひとでなしなんですよ。

 昔から人間ひとの気持ちがどうにもよく分からなくて。

 何をしたらどんな反応が返ってくるのか、経験や知識に裏打ちされた最適解をそのシーンごとに提供出来るのでソツなくこなすことが可能なんですよね。

 でも最適解それを自分が相手の為にそうしたいからと行うことはまれですね。

 こんな有様なので俺のこの歪みは滅多のことでは他人に気が付かれることもないのですが。

 河野さんや高遠は流石さすがに分かっていらっしゃるし、だからこそ河野さんは俺に構って下さっているのかもしれませんね。

 高遠からは昔ハッキリと『お前サイコパスか?』って問われたことがありますが、それに対しての返答が『どうぞお好きなようにそちらで判断して下い』でしたのでどうなんでしょうねぇ。物事の善悪は理解わかっておりますし、犯罪を犯すつもりも全くありませんので厳密には違うんじゃないですかね。

 ただ、俺の個は徹底的に物事を俯瞰ふかんして捉えるように出来ているようで、個人じぶんの感情と目の前の事象シーンが頭の中で徹底的に切り離されているのだということを椎名准教授の教えから導き出してしまった。


 例えば隣に座って空間を共有している人間ひとが映画やスポーツなどで感動したり、心を震わせていても俺にそれは起こらない。わからない。共鳴しない。

 だというのに相手の望んでいるように振舞ってしまう。あたかもその感覚を共有しているかのように、シレッと望まれたことを望まれた様に差し出してしまう。

 そんな俺が誰かと付き合ってその相手の時間を拘束してしまったこと自体、失礼なことをしていたのだと今なら理解出来ます。

 理解出来わかってしまったんです。


 椎名准教授あのヒトは今まで出会ってきたどの存在とも違っていたので、嫌でも理解してしまった。

 そこに居るだけで視線が自然に追いかけていく。

 隣に立っていたいと、触れてみたいと、勝手に手が、足が、体が、思考すべてを無視して動こうとしてしまう。

 今まで感じたことの無かった感覚。

 自分から無意識に、相手の為だけに良かれと思って動いてしまう。


 相手は准教授。

 歳上。

 男性。

 デメリットだらけでこちらのメリットなんて何も無く、なんなら失恋したら俺の大学生活は軽く詰む。

 そうわかっていてそれでもこんなに胸が騒ついてしまっては認めざるを得ないじゃないですか。

 本当に初めてなんですよ。

 誰に望まれた訳でもないのに、自発的に、こんなに滅茶苦茶なまでの制御不能状態になってしまったのは。

 高遠のヤツ、興味本位なんとなくでなんてことをしてくれちゃったんだ。



――カロンッ。

 涼しげな音がしてドアが開いた。

 案内役がサッと動いて、来店客をスマートこちらに案内してきます。

 薄暗い店内を歩く足元が徐々に照らされて、心臓がじわじわと音を立てる。

 ダメだ。

 足音や気配でもう判ってしまう。

 脳が勝手に姿を思い描いてしまう。

 ……口元が頭を無視して弧を描く。


「連れて来たぞ」

「連れて来てもらったよ」


 本来居るはずのない場所に椎名准教授が居ることに心臓がドッ!と一際大きく脈打った。


 気を取り直して服装を眺めて心を落ちつける。

 高遠は普段からジャケットを携帯しているようなタイプなので何も心配はなかったのですが、椎名准教授は失礼ながら服装に頓着するタイプでは無いので若干不安がありました。

 ですが、あれこれと注文を付けて悪印象を持たれるのが怖くて結局黙ってしまった。

 そこは従兄がバカにされることを嫌う高遠のことですから黙ってお任せした方が無難だろうと。

 結果、店に現れた椎名准教授は夏だというのにすっきりとしたスーツ姿でした。

 童顔のせいかやたら若く見えますが、夜のバーで浮くようなことはなくむしろスラッとしたこなれた印象が場の空気に溶け込んですらいる。


「ようこそ。いらっしゃいませ」


 席に着いた二人に向かって、自分に出来る最大の営業スマイルを。




 流れに流れたせいで椎名准教授の中で上がりまくっているであろうハードルに気が付きつつも、それなりに格好をつけたい俺に高遠が出したオーダーは気を利かせてくれたのか『適当に出してよ』というものでした。

 俺が作れるカクテルの種類がそんなに多くないことをしっかり覚えているような男なんですよね、コイツ。

 恥をかかせないようにさり気なく気を使って下さるところがまた。


 オーダーを受けてツマミのナッツを出してから、高遠に必ず一杯目で出すカクテルを作る。

 目の前でカクテルが作られていくところなんてバーくらいでしか見られないでしょうし、俺を見る椎名准教授の瞳はまたキラッキラと眩しいくらい。


「これいつも出してくれっけどなんて名前?」

「おや?ご存知なかったので?」

「居酒屋とかカラオケじゃビール一択だからね。ここだと来宮が出すから気にしないで飲んでたけどそろそろ他で頼む機会も増えてくるだろうから名前とレシピ教えて」

「セブンス・ヘヴンですよ。ジンを使ってますけど、詳細まで伝えなくても名前を言えばオーダーが通ります」


 なにせ俺が作れる位なので。

 高遠が冷えたカクテルグラスを目の高さに上げて、小さくふーん……と呟いてゆらゆらとグラスを揺らして中のチェリーを転がす。こういうキザな仕草がくっそ似合うな、コイツ。

 レシピの中にあった名前を見て高遠に似合いそうだと思って練習したカクテルだから気に入ってくれていたのならばまぁ悪い気はしないですけど。

 椎名准教授は俺の差し出した真っ白い液体を珍しそうにしげしげと眺めています。

 こちらは小動物が興味津々で何かを観察しているようで微笑ましい。


「俺のは?」

「スノーホワイトというカクテルです」

「白雪姫?」

「メインはアップルワインとウォッカですが、弱めに作ってありますので飲みやすいかと」


 椎名准教授がどのくらいアルコールに耐性があるのかわからなかったので本来の処方よりも飲みやすいように少し処方を変えました。

 潰してしまったら大変ですし、ここに来たことそのものの記憶を吹っ飛ばされるのも癪なので。

 カットしたリンゴを差したグラスを見つめてから恐る恐るといった風に口を付けて、ピンッ!と背筋を伸ばしてからキラキラと見開いた瞳で俺を見つめて頷く様は作り手としてもとても嬉しい。


 少し離れた席に居た河野さん達もそれを微笑ましそうに見つめて笑っています。


「あれ?恭くんとこうちゃん?」


 目の端で二人の反応を確認してしまった俺の視線を辿ったらしく、椎名准教授が二人に気が付いてぐっと身を乗り出す。

 店内は薄暗いのでよほど親しい知り合いでもなければ気が付かないでしょうけど、流石に同僚ならば気が付かれますか。

 顔を見合わせた河野さん達は苦笑いをふわっと笑みに作り替えて、自分達のグラスを手に椎名准教授達の方に席を移動する。

 さとい二人のこと、俺に気をつかって気配を消していて下さったのでしょう。

 声を掛けられて初めて存在に気がついた。という風を装って下さりました。

 移動した初町さんが河野さん越しにいつもの穏やかな笑顔を浮かべて流れるように椎名准教授へと話しかけます。

 当たり前に河野さんと椎名准教授を顔見知りで挟むように座るあたり、本当に抜け目ないかたですね。


「椎名ちゃんとこういうお店で会うの珍しいね」

「うん。バーなんてずっと若い頃に来たことあるかな?くらい来ないなぁ」

「それに椎名ちゃんってあんまりお酒飲まないイメージあるし」

「それ車通勤だからだよ」


 たったそれだけのやりとりから二人は普段から仲がとても良いのだと伝わってきて、胃のあたりが軽くムカムカする気がしました。

 だいたいね、初町さんは河野さんとだけ特別に仲が良いのだと思っていましたので。四方八方に良い顔するタイプはあまり得意では無い……って、いけませんね。相手が知り合いだからとはいえ、客の話を盗み聞きして、しかも個人的な感情を持つのは我ながら如何いかがなものかとは思うんですが。

(大体、ムカムカってなんだよ。こんなの知らねえよ)

 河野さんは我関せずでカクテルを舐めていますし、高遠もまったりとグラスを揺らしています。


「ま、考えても仕方ないか」


 小さく独りごちて自分の感情に折り合いを付ける。


 軽く手を挙げて俺を呼んだ客のオーダーに応えてカクテルを作る。

 お仕事ですから。

 ここは居酒屋ではありませんので大きな声を出すことも無く、そっとそちらへ向かって慇懃いんぎんに頭を下げた。

 あまり気にし過ぎても良いことはない、と仕事に集中することにした。




 バックヤードで酒の補充をしていた俺に向かって先輩からお前の客の様子を確認しろってお声が掛かって首を傾げながら店内へ戻る。


「あの……これは一体?」


 俺の記憶が確かなら、傍を離れた時間はそんなに長くはなかったかと。

 それなのに椎名准教授と河野さんはカウンターに突っ伏してご就寝中。いや、こんなに店で寝ることってある?ってほど見事に潰れてますね。

 犯人はコイツだろうと視線を向ければ、肩を竦めた高遠。なんでこんなことになってるんですかねぇってちらりと視線を送れば、辛そうに眉間に皺を寄せながら初町さんが申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。


「飲ませ過ぎちった」

「……このおばか」


 あっけらかんと陽気に笑う高遠の悪い癖。

 人に酒を飲ませて潰すのが大好き。しかもちゃんと介抱するからクレームが出たことがない。いや、どっちかというと潰れた人間の介抱をするのが好きなのかもしれない。

 いくら潰された側からのクレームが出ないからって毎度毎度……。

 今日は二人も潰して下さってまぁ。

 椎名准教授は存じ上げないのでともかくとして、河野さんはお酒は弱くないんですけどね。


「これ、どうなさるおつもりですかねぇ」

「初町君は自分でなんとかなりそう?」

「まぁね。河野君を連れて帰らなきゃいけないからセーブしてたはずなのにこのざまで恥ずかしい限りだけど」

「じゃあ俺が手を貸すから二人で河野君連れて帰ろう。タクシーで二人の家の前に落とす?それともそれだけ潰れてたらどっかのホテルとかに落とす?あ、来宮は椎名連れて帰ってよ」

「はぁぁあ?」

「俺も酔ってっし、椎名デカいから運ぶの無理だわ」


 普通逆でしょうが!河野さんの家は俺の隣ですよ?俺が河野さん預かって帰るのが一番スマートな流れでしょうが。


 呆気にとられてる内にサッと身支度を整えた高遠は椎名准教授のジャケットを漁る。

 体を触られてるのに無防備に眠ったままの椎名准教授に不安を感じる。なんでこのヒトはこんなに危なっかしいんだ。酒に弱過ぎるでしょうが。

 飲み会とかその歳ならそれなりに経験あるんじゃないんですか?


「お前のバイト終わりまで裏に転がしときゃその内に酒が抜けてくるから。酔うの早いけど抜けんのも早いんだよソイツ。そうしたらデカいけど多少は動かしやすくなるからさ」

「ちょっと!困りますよ!!」

「これ椎名の家の鍵ね。住所はメッセージ飛ばす。オートロックは俺の誕生日で開くから」


 チェシャ猫みたいなにったら笑いを浮かべて俺に向かってぽ〜んと鍵を放り投げた。そのまま手馴れた仕草で河野さんに肩を貸して立ち上がる。

 会計は酔っていらっしゃるはずの初町さんがしてくれたらしい。

 入口で待つ彼の元へ河野さんを器用に支えて移動して慣れた仕草で渡してしまうと、高遠は手を挙げてから出て行った。

 店から表通りまでの上り階段は中々に急なので酔い潰れた河野さんをどうするのかと思えば、初町さんが酔っているとは思えない動きで当たり前のように軽々と背負ってしまった。

 軽くねぇんですけどね、そのヒト。

 あそこ、酔い潰れたお客様を運ぶのそこそこ手間なんですけどねぇ。


 そうしてカウンターに突っ伏してすやすや眠る椎名准教授と、あと一時間もしたらバイトが終わる俺が残された。


「嘘だろ……」

 

 呆然と呟くしかない。



 選択肢なんて与えられなかった俺は渋々マスターに事情を話しに行く。

 二人も潰れるほど飲んだということは、それなりの金額を店に落として下さったということらしく。マスターは快く了承をして下さったのでぐっすりご就寝中の椎名准教授をロッカールームに運び込む。

 身長があるから運ぶのは苦労するだろうなぁって覚悟したのですが、予想以上に軽い。

 ほっそりした見た目通り華奢なのかもしれません。

 筋肉が付き難いとは言っても俺はそれなりに力がある方なんですけど、重いことを覚悟して抱き上げた途端に予想外の軽さに後ろにたたらを踏みそうになってしまった。


 荷物置き用に置かれているベンチソファに椎名准教授を寝転がして、深くため息。

 さっきのやつマスターや先輩は俺が力が無くてよろけたと思っただろうなぁ。


「……クソッ!高遠のやつマジで何考えてんだ。俺がテメェの見込み違いの悪人で大事な従兄になんかあったらどうすんだよ」


 こちとら恋愛感情自体を渋々、仕方なく、認めたばっかりなんだよ!相手は男とはいえ、超無防備な状態で好意持ってる相手に寝られてみろ!お前だって男なんだから事のマズさがわかるだろうが。どんだけ信用してくれちゃってんだ!

 イラつき混じりについ汚い言葉で独り言ちる。

 この時間はロッカールームに人が来ないのを見越してやっていたのですが、寝ていたはずの椎名准教授がひゃっひゃっひゃって急に甲高い声で笑いだした。

 あまりの声に本気で驚いて、肩が見てわかるくらいにビクンっと跳ねる。


「きの、そっちが地?」

「話し方ですか?」

「そう」


 あ〜もぅっ!別に良いですけどっ。

 口悪いんだよ、俺。

 気を抜くと喧嘩売ってのかって勘違いされるくらい口が悪い。

 だから大学入学を機に口調を意識的に改めた。

 わざわざ敵を作る必要は無いから。


「秘密にしていただけます?」

「わかった」


 人差し指を立てて秘密ね?って念を押したらまたひゃひゃひゃって笑った。

 本当に困った酔っ払いだ……。

 呆れ混じりにため息をいた俺をじいっと透き通った瞳が見つめてる。


「ねぇきの」

「あ?なんだよ」

「俺ね、そっちのきのも好き」


 ふにゃんって笑って俺の方に手を伸ばすなんて反則だ。


 悪いのはお前。

 俺は、悪くない。

 俺の中のやぁわらかいところを平気で刺激したお前が悪い。

 圧倒的に、絶対的に、どうしようもなく、お前が悪い。


「どっちも俺ですよ」


 片膝を突いて身を屈める。

 そっと顔を近づけて。

 それで、それから、触れるだけのキスをした。


 本当は、もっと舌とか入れたい。

 こんなお姫様を起こすみたいな可愛いやつじゃなくって、お前のことを恋愛対象だと思ってんだって伝わるやつをしたい。

 人気ひとけの無いロッカールームで二人きり。

 俺の自制心に拍手を送っていただきたいくらいだわ。










【椎名eyes】






――キスしてる?


 あー、きのの唇って冷たくて気持ち良い。

 そんな事を考えてたら、酔ってるせいで合ってなかった焦点が少しずつ合ってきた。

 きのと至近距離で目が合って、何だか急に恥ずかしくなって目を閉じたら唇が離れて行っちゃった。

 俺が目を閉じたから?ってどうしようか迷ってたら、角度を変えてまた唇が降りてきた。

 俺、今まで恋愛経験が全然ないからこういう時にどうしたらいいのかわからない。

 どうしたらいい?

 なにをしたら?

 そんな事ばっかが頭をぐるぐる回る。

 結局、何も出来ないままキスは終わってた。


 ゆっくりと身を起こしたきのがにまっと柔らかい笑顔をうかべる。


「もう少しでバイト終るんで。そしたら送ります。大人しく待ってて下さいね」

「あ、うん」

「眠そうですねぇ。そのまま寝てていいよ」


 俺の顔を覗き込んで、安心させるみたいに今度は目の端に皺を寄せて笑ってから立ち上がったきのはそれ以上何かを言う事もする事も無くそのまま部屋を出ていった。

 ちらっと見えた耳は薄暗くてもわかるくらい真っ赤だった。

 キスしてる時は軽くパニックになっちゃってて全然余裕がなかったけど、今は違う。

 それなのに身体中からばっくんばっくん音がして、くらくら目眩めまいがする。

 今のって、何?

 横になって口を指で押えて考えてたらふーっと意識が遠のいていった。




 次に気がついた時、ふわふわとした浮遊感を感じた。


 ……あれ?地面が揺れてる?

 慌てて目を開けたら視界がとんっ、とんっ、て一定のリズムで上下する。

 そして、俺の体は真夜中の住宅街の中をゆっくり前進していく。

 えーっと、現状確認しなきゃ。


「起きましたか?」

「へ?」

「高遠に家の住所は聞いたんですけどこの辺りへ来たことがないもので。細かい位置まではちょっとわからないんですよ。起きてくれて助かりました。早速でわりぃんですけど案内していただけますかねぇ」


 俺の体ん中からきのの声がする。体の中って言うか、体の中で反響してるって感じ?声のした方向へ視線を向ける……。


「うぉおおおっ!?」

「真夜中にうっせぇわ」

「あ、ごめん」


 耳元で叫ばれたきのが反射的にほうで俺を叱った。

 だってさぁ、目が覚めていきなりおんぶされてたら普通は驚くって!おんぶだよ?おんぶ。最近されてないとかいう次元じゃなくて、最後にされたのがいつなのか記憶に無いもん。しかもさ?俺、結構デカいのにきのの足取りは軽くって、こっちに全然振動が来ない。

 きのって見た目は細身なのに意外と力持ち?

 俺の動揺なんて気にしてないのか、よっ!って軽く声を出して背負い直してからきのの声がまた体の中で響く。


「で?家はどこなのよ」

「えーっと、そこの角曲がって、手前のマンションの右っ側の棟の」

「あー、はいはい。右の棟ね」


 俺のマンションは敷地内にL字型に棟が建ってるから住所だけだと確かにわかりにくい。


 きのは俺をおんぶしたまま家まで連れていってくれた。

 しかも降りるって言っても転ばれたら面倒臭いからって言って聞いてくれなかった。

 自宅付近でこれはちょっと恥ずかしい。

(しんが知ったらちょっとじゃねぇだろって言われそう……)


「ねーねー家泊まってく?」

「はぁ?アンタいい具合に酔いが残ってんでしょ」

「残ってないよー。たぶん。今から家帰んの面倒でしょ?」


 きのがちょっと驚いたみたいに揺れた。

 俺はもう目が覚めてるし、降ろしてくれてもいいんだけど、本音を言うなら恥ずかしいしそろそろ降ろして欲しいんだけど、転ばれたら厄介だからって言い張って結局玄関の前まで運ばれた。


 それから深いため息をいて、俺を背負ったまま器用に鞄から鍵を取り出して家のドアを開ける。

 そういえばエントランスのオートロックも普通に開けてたね。


「お前等の危機感どうなってんだよ……男だって襲われる時代だぞ。今は」


 小さい声だったけど、背負われてる俺にはきちんと言葉が届いた。

 声色は心底呆れてそうなもので、俺が何かしちゃったかって急に不安になってきてわざとらしく声を上げて今二人の間に流れてる変な空気を変えようと試みた。


「ねっ?ねっ?なんでウチのドア開いたの?きのマジックでも使えんの?」

「高遠に鍵を渡されたんですよ」


 なぁるほど。そりゃそっか。

 自分で言っててもそりゃそうだろうねぇって思う。

 そんな俺に気がついてるのかいないのか、軽く笑ったような吐息が聞こえてふわっと体が宙に浮く。


 気がついたら玄関に座らせてもらってて、前にしゃがんだきのが恭しく靴を脱がせてくれた。

 俺、多分もうそんなに酔ってない。

 だからなんか、こう、こういうのはすごく恥ずかしい。


「さっきのお誘いですけど……。もしお泊まりなんかしたら高遠に何言われるかわかったもんじゃないですし、非常に魅力的なお誘いではあるんですが、今回は遠慮させていただきますよ」

「しんに?」

「そ。アナタの従弟は本来そういった意味でそれはそれは完璧な番犬ですよ。現状では面倒なことになる未来しか見えませんし……それが恐らく、今は一番望ましい状態ですね」


 余裕そうに笑ったきのが肩を竦めた。

 しゃがんだまま膝の上で腕を組んで、心底愉快そうに笑い出した。

 それからそれは俺が初めて見る口の端を歪めたヒヒヒッって皮肉めいた笑顔に変わって、顔を組んだ腕にうずめた。


 暫く何が楽しいのか膝に額をくっつけて肩を震わせて笑ってたけど、ゆっくりと顔を上げてスゥッと真顔に戻って黙ってじっと俺を見上げてくる。

 きのは人懐こい顔だけど、真顔になると引き締まった日本男児って感じの顔だったんだね。いつも穏やかに微笑んでるから気がつかなかった。

 おもむろに薄い唇に人差し指を押しつけて口の端だけをにぃ……って吊り上げる。


「今の話は高遠にはナイショですよ?酔いももう平気そうですね。……ベッドまで一人で行けるよな?」

「うん」

「じゃあ、送り狼とかシャレになんねぇからとっととおいとまするとしましょうかね」


 帰っちゃうのが残念だなって思って立ち上がったきのを目で追って顔を上げたら、俺の前髪をきのの指がすぃっと絡めとった。

 なんだろう?って少し首を横に傾けたら触れるか触れないかの、風が触れたみたいな唇が俺の額に降りてきた。

 本当にかすかに触れるくらいの。

 咄嗟とっさに寂しいな、とか、残念だなって思ったのが伝わっちゃったのかな。


「では、おやすみなさい」


 玄関のドアがきのの背中を吸い込んで、ゆっくり、ゆっくり閉まっていく。


 さっきも思った。

 ロッカールームから出ていく背中。

 玄関を出ていく背中。

 いつもの大学の部屋から出ていく背中。

 俺はいつもきのの背中を見送ってばかりだ。


 このまま、いつまでも今までの恋みたいにその背中を見送るのか。


 それは絶対に嫌だって思った。

 なんで急にそう思ったのかは分からないけど、このまま何もしないでただ背中を見ていて良いがわけないことだけははっきりわかった。


 ぽやんってした気分のまんま、きのが出ていったドアを暫く眺めてた。


 なんか胸がきゅぅうってする。

 この感覚が何なのかを確かめたいのに、まだアルコールの残った頭は思うように働いてくれない。


「ったく。誰が番犬だっつ〜の!」

「ぅうおわっ!」


 真っ暗で誰も居ないと思ってた家の奥から急に声がして驚き過ぎて尻がちょっと浮いた。

 慌てて振り向いたら、真っ暗な廊下の奥からしんがゆったりとした足取りでこっちに向かって歩いてくる。

 明るい玄関の手前でやっと全身が見えた。


「おかえり」

「お〜……」


 こっちもまだアルコールが抜けてないみたい。

 怠そうに腕を組んで壁に凭れたしんはすっごい悪い笑顔を顔にうかべてる。

 家にちゃんと上がって、しんの前に立ったらツンツンッてニヤニヤしながらほっぺをつっついてきた。

 あー!この顔は俺を揶揄からかう気満々の時のやつー。


「で?進展あったか?」

「進展?」

「ぁん?何もなかった?おかしいな。こんだけ分かりやすくお膳立てしてやったのに。いい加減そろそろかと思ってたんだけどな」

「何が?でも、キスはしたと思うけど?」

「思うってなんだよ。今のかぁわいいやつ?」

「違うよ。お店で口に……ふにって」

「ふに……?何その擬音」


 ……された、よねぇ?

 酔ってたし、夢だったかな?って唇を指先でなぞって感触を確かめた。

 うん。さっき確かにここにきのの冷たい唇が触れてた。

 冷たい、でも心臓が飛び出しちゃうくらいバクバクする唇だった。


「きののバイト先のロッカーで。多分、夢じゃなかったら」


 さっきまで楽しそうに笑ってたしんの片眉がヒクッ揺れて、口の端がじわじわ歪んでいった。

 苦笑いとかそんな感じの表情からじわじわと眉間に皺が寄っていく。

 グッと拳を握りしめてから体をくの字に折って、肩がわなわなと震えだす。


「あのチキン野郎!全ッ然伝わってねぇじゃん!やる事が中途半端なんだよ!手ェ出すならちゃんと出せっつーの!なんで今ここで一番要らねぇ忍耐力とか発揮してんだあのバカは!!」


──吠えたね。

 

 まだだいぶ酒残ってる?

 いつもよりオーバーアクション気味に叫びながら俺には聞き取れないくらいの早口で何かを捲し立てた。

 怒れるしんを見てたらまた地面が揺れてるような気がしてきて、まだ言い足りてないみたいに怒らせてるしんの肩をぽんぽんって叩いて寝室に向かう。

 シャワーとかはもう朝でいいや。

 なんだか今のでどっと疲れたし。


「寝よ」

「……だな」





「ん……眩し……」


 カーテンを引くのも面倒でそのままベッドに倒れ込むみたいにして寝ちゃったから真夏の朝日が顔を直撃。

 眩しくって目が覚めた。

 目覚ましよりもちょびっとだけ早く起きて、ベッドの上でぐぅ〜っと背伸び。

 ヘッドボードに手ががつんって当たって、半身だけ起き上がって改めて伸びをした。


「ふぁあ〜……」


 ついでにあくびも。

 二日酔いにはならなかったみたい。

 飲みすぎた時にいつもなるガンガンガンガンッて頭が割れそうになるアレが無いもん。確認の為に頭をブンブン左右に振ってみたけど平気。

 店で寝ちゃうくらい酔ったら次の日は高確率で頭が痛くなってたのにそんな気配も無い。


「なにしてんの?それ楽しい?」


 下から声がしてそっちを見たら、同じベッドで寝てたしんがとろんってした目付きで見つめ返してきた。

 俺よりもずっと後に起きればいいのに起こしちゃったら可哀想だったよね。


「あ、ごめん」

「ん〜……もう起きなきゃいけない時間だったからちょうどいい」

「早くない?」

「家帰ってシャワー浴びて着替えなきゃなんないから」


 うちでシャワーを浴びればいいとは思うんだけど、しんはなんかこだわりがあるみたいだから最初から泊まりに来る時じゃないとシャワーは使わないんだよね。

 同じベッドで寝るのに抵抗無いくらいだから俺と同じバスルームを使うのが嫌ってわけじゃないと思うけど。


 起き上がったしんが頭をがしがし掻きながらキッチンに向かっていった。

 俺もベッドから飛び降りて後を追う。

 ご飯を作ってくれる気なんだと思うけど昨夜は遅かったし、疲れも抜けてないと思うし、簡単でいいと思って声をかけた。


「シリアルあるよ〜」

「そんなんばっか食ってるからヒョロいんだよ」


 う……言い返す言葉がない。

 しんがボウルを取り出して、中に牛乳と玉子を放りこんで砂糖を入れてがしゃがしゃ掻き回す。

 椅子に座ってその様子をぼーっと見てたら、目の前にゴンッてマグカップが置かれた。


「二日酔い、平気みたいだな」

「うん」


 中身はアメリカンコーヒーだった。

 冷蔵庫の中身と相談して作ってくれてる料理で最後の牛乳を使っちゃったからカフェオレが作れなかったんだな。でも、俺の味覚を熟知してるしんはミルク無しでも苦くないように調整してくれてるから、外だと飲めないアメリカンコーヒーでも問題無く飲めた。


 しんが料理をするのをぼーっと眺めながら、昨日気になった事を忘れない内に確認する。


「昨日、なんでうちに居たの?」


 黙々と調理していた手を止めて顔を上げたしんは、俺をじぃぃっと見つめる。

 しんの家はこうちゃんやきのの住んでる駅の隣なんだよ。それに対して俺の家は大学を挟んで対角線上にある。

 用がなければわざわざ来ないし、何かあった時の為にスペアキーを渡してるけどこの家に来る時は俺と一緒だから使った事なんて無いんじゃないかなぁ。


「そりゃあ、牽制する為でしょ」


 よく分からなくて首を傾げた。

 しんはわざと俺に分からないような言葉を選んだんだと思う。


「アイツ俺が居たのに気づいてたんじゃね?だから、わざとらしくあんなこと言ってアッサリ帰りやがった」

「あー、玄関に靴あるもんね」

「ないよ。しまっておいたから」


 酔ってたからよく覚えてないけど、そうだったのかも。

 しんが居るって俺は全く気がついてなかった。


 そんな事を話してたら、あっという間に目の前にフレンチトーストと奇跡的に冷蔵庫にあったウインナーを焼いた皿とこっちも奇跡的にあったカップスープが仲良く湯気を立てながら並んじゃった。

 俺一人だと普段はシリアルくらいしか食べないからなぁ……。

 気まぐれに目玉焼き作る用とからカフェオレ用の牛乳とか、それこそ誰かを泊めるからとか、見兼ねたしんが買ってこない限り俺の家に食材って基本的には無いんだよねぇ。


「来宮は俺の見立てでは俺の知る中で誰よりもお前に合ってると思う」

「気に入るってやつ?」

「ちょっと違うな。来宮アイツにとって必要なのに圧倒的に、絶対的に、絶望的に足りないものをお前が有り余るほど持ってて、お前に呆れるほど、生存が疑わしくなるほど、意味不明なほどに足りないものをアイツが不必要なまでに持ってるっていう言い方のがニュアンス的に近い」


 きのに足りなくて俺が持ってるもの?


「俺としては上手くいくならそれで良いやって感じだったから。昨日は酒入ってたし来宮は勢いで突っ走るってキャラでもないから安心はしてたけど。煽った手前、念の為にここで待ってたんだよ」

「そゆことか」

「そしたらさぁ、あの少女マンガかこれは?みたいな光景じゃん。やられた!って思うでしょ」


 少女マンガ……。

 まぁ、そうだね。うん。

 年甲斐も無くキュンッてしたもんね。

 傍から見たらそりゃそう見えただろうねぇ。


「なんだよあのデコちゅー」

「えー、ダメ?」

「お前が良いならいいけどさぁ」


 ぶちぶち言いながらウィンナーをかじる。

 そっか。しんは何か予想外の事が起きた時のためにわざわざ俺の家で待っててくれたんだ。で、そんなしんの思考パターンに付き合いの長いきのが気がつかないはずがない。当然の事のように『しんが真っ暗な家の中に居る』って仮定を立てただろうね。

 しかもわざとらしくそういう演出までしていったとしたら、昨夜のしんの叫びは理解出来るかもしれない。

 きののあの笑い方はしんが居るのを確信してのものだったとしたら、しんにとってはまぁあぁなるよね。









【来宮eyes】





 朝起きたら全て夢でしたってオチを覚悟しながら目を閉じたせいか、けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止めながら目を開けて昨日のアレが夢じゃなかったんだってしみじみと再認識。

 そして紛れもなく現実に起こったことだと主張するように枕元に置かれた見慣れない鍵。


 なんであのヒト、キスされて嫌がらないばかりか泊まっていけとか言っちゃいますかね。

 まぁ、あの高遠セコムがそんなにサービスするとは思えないんですよねぇ。

 鍵を渡された時には何考えてるんだ!?って流石さすがに驚きましたが、椎名さんを背負って歩いている内に段々と思考が冷静になってきて、恐らくこれ以上踏み込むようなことがあれば何らかの形でストップがかかるだろうな。と踏んで誘いには乗らなかった。

 椎名さんは本当に帰るのが面倒だろうからって気をつかっただけというのは当然分かっていたんですよ。

 例え高遠がそう言うよう仕向けようとしたところで彼には人を騙したりすることは出来ない。

 そう、出来ないんです。

 だってあのヒトってば、すべて顔に出てしまうんですから。

 俺が帰ると言った時のさみしそうな顔に後ろ髪を引かれつつも、何食わぬ顔を見せながらさり気なく探った感じ、家には火の気は感じませんでしたし人が居るような気配も感じなかった。それでも、俺の中のナニカが帰れと言った。

 椎名さんを慰める為と、軽い意趣返しのつもりでわざとらしい別れの挨拶をして家を出た。


 してやられるのは好きでは無いので、マンションを出てから適度に離れた道で暫く部屋を見上げていた。

 案の定、うっすらと部屋の奥に灯りが点る。

 遠目過ぎて自信はないのですけれど、誰かが居たことは間違いないでしょうね。

 椎名さんは寝室へ真っ直ぐに向かったはずなので。自分の家なんだから普通は酔っていたら電気なんか付けずにベッドへ直行するでしょう?

 他意無く寝ていて帰宅した椎名さんの気配で起きたのかもしれませんが、俺の知る限りだと高遠は他人の家にはその相手がどれほど親しくても勝手に上がり込んだりはしない。それが酔っているとはいえ、寝ているだなんてありえませんね。

 ならば試されたとみるのが自然かと。



 身を起こして伸びをしながらでかい口を開けてあくびを一つ。


「あーあ。持って帰ってきちゃったじゃん」


 鍵を抓み上げて目の前でプラプラ揺らす。

 常の俺ならばこんなヘマはしない。

 昨日の俺は多分、うわついていた。

 ありえないくらいに感情が乱高下を繰り返していた。

 恋人でもない相手にキスをしたこともそうだし、これを持ち帰ってきたこともそう。

 通常運転の俺ならば、何かトラブルがあってもインターバルを置けるようにわざわざ翌日に会わないで済む日を来店日にセッティングしておきながら、自らそれを見事にぶち壊すような真似は絶対にしない。

 普通のかたなら鍵を無くしたら焦りますよね?

 鍵自体は家にスペアキーがあるはずですし、高遠の性格上スペアキーを所持している可能性が高いので別に次に会う時でも構わないのでしょうが……。

 大学に何の用事もありませんでしたが、これを返しに行かなくちゃいけなくなりましたねぇ。

 困ったなぁって思いながらも口元はにやにやと笑みを敷く。

 理性あたまよりも体の方がずっと正直になってしまった。全くもっままならないものなんですね、心が動くということは。

 世間の皆様は常時こんな感情とお付き合いなさっているんですね。


 「よっ、と」


 立ち上がって音の鳴らない鈴がついた鍵をよくよく観察してみると中身が入っていない。そりゃあ音が鳴らないわけだ。中身がないんだから。どこか抜けてるなんて持ち主によく似た鈴だわ。

 綺麗な見た目をしているくせに音が鳴らない。

 鈴としての意味をしていない。

 それでもそのせいで誰の邪魔にもならない。

 鈴なんて音が鳴ってなんぼだろうに。


 頭の中で大学へ行く理由とその反論を上げて討論大会みたいになりましたが、色々理屈を捏ね回してみたところで結局のところただ会いたいんだって結論に行き着いてしまう。

 椎名さんの顔が見れたらそれだけで良い。


「笑顔が見れたら最高」


 高遠の目論みに乗るみたいな結果は不本意で仕方がありませんが、好きになってしまったものは仕方がありません。

 おまけにキスまでしてしまった以上、開き直って突き進むだけです。

 本当にらしくない。

 掻き乱されてやっても良いだなんで、らしくないけれど、悪くもない。


「あのヒト相当鈍そうですし。直球ど真ん中ストレートで言ってやんなきゃ伝わんねぇんだろうな」


 愉快な感情が腹の底から湧き上がってきて、自然と笑顔になる。

 初町さんの仰った通りだとしたら、ちゃんと態度で示さないと分かっていただけないに違いありません。

 俺はその他大勢みたいに高遠にに蹴散らされてやる気もド天然の前にくじける気もサラッサラありませんからお覚悟願いたい次第。


「キス……ねぇ……」


 呟いてみて、唇を指でなぞって感触を思い出したらゾワゾワとした感覚が身体中を這い回って、これが恥ずかしさ由来の感覚だと気が付いて布団に倒れ込んで枕に顔を押し付けて暫く身悶えた。

 だって知らない。

 こんなの、初めて感じた。

 知らないもんだからうっかり何にも考えずにその場の勢いでキスしちゃいましたよ!

 舌を入れなかったのはよく我慢したって自分を褒めてやりたいくらいですけど。

 惚れた勢い怖ぇわ。


「あー……あったかかった……」


 また賢者タイム(仮)が来て真顔に戻る。

 ヨッパライ相手に何やってんだって話なんですけどね。

 でもさ、やっぱり好きなんですよね。

 そしたらあんなのチャンスじゃないですか。

 目の前に惚れた相手が居て、無防備な顔で見てくるんですよ?

 そうしたら触れてみたくて仕方がなくなってしまって。


「さて、そろそろ出かける支度をしないと」


 また思考が勝手に盛り上がる前に我に返って、適当に着替えて朝飯食ったら家を出る。


 昨晩は店が帰宅用に呼んでくれるタクシーを椎名さんの家までで使ってしまったので、仕方なく自分の最寄り駅まで自腹切ったんだよなぁ。そんなことを思いながら倉庫から自転車を引っ張り出す。

 しかも駅まで暑い中また自転車を漕ぐのかぁ……ってげんなりしながら門を出たらいつもよりも少し遅めのご出勤の河野さんとばったり。

 物凄く驚いた顔をしているのは何故ですかね?

 あなたでもそんな感情を表に出すことがあったんですね。

 あんまり見たことがない超レアな河野さんの驚いた顔に向かってニヤッといつも通りに笑って挨拶を。


「おはようございます。昨日はどうも」

「……おはよう。大学行くのか?」

「まぁ」

「そうか」

「後ろ、乗ってきますよね?」


 自転車を斜めにして誘うようにしてみせると、河野さんはへにゃりと笑って頷いた。

 そういえば俺は河野さんや初町さんといった親しい間柄の方の来店があった翌日はなるべく接触を避ける傾向にありますからね。

 驚いたのはそれだけでは無いでしょうが。


 いつも通りに河野さんを後ろに乗せて自転車のペダルに力を込めた。


「今日も課題見てもらうのか?」

「違いますよ。届け物です」

「あん?そうなのか。俺が渡そうか?」


 そういえばそうですね。

 河野さんに預けるのが本当なら無難ですね。

 何より暑い思いをしなくて済む。

 でもまぁ現状もう既に暑いし、河野さん乗っけて走り出してしまったし。

 なにより家の鍵ですし。

 なんでそんなもん持ってんだ?って話だし、預けて良い相手かどうかは別として普通はあんまり託さないと思うので。河野さんなら椎名さんも気にしないとは思いますが。


「そうですねぇ……でも、もう家出ちゃいましたし。気持ちだけ有り難く」

「そうか」


 いくら河野さん相手とはいえ、椎名さんの顔が見たいから自分で行きますとは言えませんでした。

 何かを察したらしい河野さんは囁くくらいの小さな声で頑張れよってほろりと零して、そんな俺の事情に気が付かないフリをして下さいました。


 河野さんは昔からこうで。

 歳は一回りも歳上だというのに変に気取ったところもなく、歳上ぶって講釈を垂れることもなかった。

 家の前に数段ある階段に座ってぼーっとしていた子供の俺に気が付いた高校生の河野さんは、気が付いたら俺の隣に座ってた。


 違いますね。

 本当はきちんとしたやりとりがあった。


「何が見える?」

「白い月」


 昼の月は白い。

 何かを見ていたわけでもなかった。

 隣に住む学生のお兄さんが挨拶以外の声をかけてきたので取り敢えず正直に答えておいた。

 その程度だった。



 子供の頃から俺は周囲とのズレに気が付いていて。


 俺は友達のような泣き笑いをした記憶が無い。

 なんで無いのか分からなかった。実際にはそういうことをしているのに、その記憶だけが無いのかとも思ったけれどそこまで心が震えた覚えがない。

 それに周りを見れば、結構な頻度でみんな騒いでいるから俺がその全てを忘れているってことは無いんだろうなって。

 じゃあ、なんで皆あんなに泣いて、笑って、怒って、喜んでいるんだろう?そんなにそれは凄いものなのか?試してみよう。いや、別にそんな大したことないな。じゃあなんで?って。

 いっつも思ってた。

 小さくてもいじめられたり弾かれる子は一定数居たから。それを反面教師にしてそうならないように反応を返しながらも、決定的な違いを前に心はどんどん冷えて凍りついていく。

 けれど自分ではどうすることも出来なかった。


 親は共働きで忙しかったし、そもそも感情表現の多い人達ではなかった。そんなもんだから相談しようだなんて発想すらなかった。

 姉もあんまり感情の起伏のある人ではなかったし、ケンカをしたこともなかった。

 執着するほどのことが俺になかったから衝突なんか起こりようもなかっただけなんけど、ケンカどころか姉弟らしいやりとりがほぼ無かったわけで。

 そんなんだから姉から俺への感情も血の繋がった弟というもの以外を抱きようもなかったんだと思う。


「あー、月か」


 河野さんはそう言って空を見上げた。

 『普通』の人間ひとは何言ってんだって思うような答えだったのに、河野さんはそう言うと黙ってしまった。

 その沈黙がなんでか心地良かった。


「隣、いいか?」

「どうぞ」


 身をずらして隣を勧めた。

 それから河野さんと空を見上げるようになった。


 その内に河野さんの部屋に招かれて、二人でぼーっと空を見上げるようになる。

 河野さんは俺の奇行を訳知り顔の大人達のように都合よく勝手に解釈することも、適当なことを言ってとがめることもしなかった。


 今ならちゃんとわかります。

 昼と夜の境い目の、街から大人の目が消える時間帯に小さな子供がほぼ毎日一人で座っている事の危険性が。




 ある時にふとこう思った。

 

「俺、多分ないんですよ」


 このヒトになら言っても良いと。


「皆なんで泣いたり笑ったり怒ったりするのでしょうか?」


 河野さんは少し考えるような素振そぶりをみせて、数分間俺を見つめた。

 ただ、沈黙だけがそこにあった。


「わかんねぇ」


 返された言葉が、当時の俺にとってはとても必要なものだった。

 思った事を言っても許された。

 おかしいと否定されなかった。

 河野さんのように歳を重ねたヒトでもわからない。


「わかりたいのか?」

「そうしないと弾かれます」

「そうだな」


 それに、俺には分かっていた。

 河野さんは俺とは違う。

 ちゃんと感情があるってことが。

 ちゃんと感情を持った、優しいヒトであることが。

 俺の言葉を信じて、理解しようとして、分からないことを分からないと言ってくれた。


「じゃあ、俺の前ではわからないままでいればいいんじゃねぇか」

「いいんですか?」


 河野さんはそのまま黙って頷いた。


 そうして俺は俺でいられる場所を手に入れた。


 世に溢れる『大人になれば理解かるようになる』だなんて耳触りが良いだけの無責任な言葉を、河野さんは出会ってから今に至るまで一度も口にはしなかった。


 お陰で俺は今でも生きている。

 そう、思っています。

 世界に一人だけで良いから味方が居てくれるなら。

 理解かってくれるなら。

 世界に折り合いをつけて生きることも苦しいけど出来なくはない。



 まぁ、口は悪くなりましたけどね。







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