第17話 本当の気持ち

 翌朝、奈々子が起きるとダイニングに好物のタマゴサンドが用意されていた。すでに哲郎は自室で小説教室の準備をしているようだ。


「……哲郎さんたら、優しいな」


 こういう大人の余裕があるところが好きなんだと、奈々子は思う。コーヒーを飲んでから彼女は会社に出発した。


 冷房が効きすぎた電車に揺られながら、奈々子は昨日のことを考えていた。本当はあの時哲郎に甘えたかったのに、彼を試すようなことを言ってしまった。そのぐらい蒼太のあの言葉は、奈々子の心に残るものだった。


 それでも同年代の彼の方がだなんて……言ってほしくなかったな。



 ※※※



 哲郎も気分が晴れないまま家事を終わらせて、ソファに腰掛ける。奈々子の幸せを考えると自分よりも若い元彼の方がいいんじゃないか、と思ってしまったが本当は――。

 どこか躊躇し、自分の思いに蓋をしてしまった。


 時間はもう昼前になった。昼食の準備でキッチンに向かおうとしたところ、インターホンが鳴る。

 

 哲郎が玄関に向かうとそこには、娘の友梨がいた。

 高校生の彼女、今は夏休み中だ。


「お邪魔しまーす、奈々子さんっていないの?」

「彼女は仕事だ」

「やっぱりそっか」

 友梨はそう言いながらも、靴を脱いで部屋の中に入る。

 

「どうかしたのか、友梨」

「近くまで来たから。暑いから涼みに来た」

「……昼、食べるか?」

「うん」


 哲郎は二人分のそうめんを茹でて、きゅうりとツナをのせた。夏は暑いのでほぼ毎日そうめんである。

「美味しそうー! いただきます♪」


 お腹が空いていたのかペロリと食べる友梨を見て、哲郎が微笑む。

「お父さん、奈々子さんが来てから変わったね。前はそんな風に笑う余裕もなさそうだったのに」

 友梨にこう言われて、哲郎は少し恥ずかしくなる。


「そんなに違うか?」

「うん。奈々子さんのこと好きなんだなって思う」

「……そうだな」

 友梨の言う通り、自分は奈々子を愛しているのに……。


「奈々子さんと結婚するの?」

「え……まだそういうことは……それに彼女だって……」

 元カレとよりを戻すかもしれない、と思うと胸が苦しくなりそうだ。


「……俺みたいな歳が離れている人よりも、同年代のほうがいいかもしれないからな」

「え……それ本気?」

「……」

 

 友梨が呆れてため息をつく。

「お父さん、そういうのを無責任というんだよ。一見相手のことを考えているようだけどさ、現実から逃げてるみたい」


 それを聞いて哲郎ははっと気づく。彼女と向き合うことができていなかったのではないか。


「俺よりも彼のほうがって……情けない。奈々子さんに“そんなことないよ”って言ってもらいたかったの?」

「……まさか友梨に言われるとはな」

「そういうこと考えてたら、本当にそうなっちゃうよ?」


 それは何としてでも避けたい。

 奈々子が自分から離れていくことを考えると、胸が張り裂けそうだ。

「ありがとう友梨。おかげで大事なことに気づけた」

「それなら良かった」



 ※※※



 同じ頃、奈々子も昼食をとりながら考え事をしていた。

 そういえばなぜ蒼太さんは、哲郎さんのことをあんな風に言うの?


 哲郎さんは蒼太さんのことを悪くは言わない。彼のことを知らないからだ。蒼太さんも哲郎さんを知らないはずなのに……“介護”を求められそうだなんて、憶測で物を言っている。


 じゃあ自分の気持ちはどうなのだろうか。


 私は――哲郎さんを悪く言われることに違和感を感じた。嫌だった。

 もちろん、現実的には介護もありうるが……先のことはまだ分からない。

 もし介護となった場合でも、私は哲郎さんを支えたい。

 

 だって好きだから、愛しているから。

 理屈じゃないから、本気なのだから。


 ああ……こんな簡単なことに気づかないなんて。私ったら……。



 ※※※


 

 その日の晩。

 夕食後に哲郎が奈々子に「少しいいか?」と言い、二人でソファに座った。


「昨日は……あんなことを言ったが本当は君を離したくない」

 哲郎に見つめられて、奈々子の胸の奥がトクンと鳴る。


「俺はこの通りおじさんだ。君のことを考えたつもりになってたけど……ただ逃げていたんだよ。こんなことで気持ちを伝えられないなんてな……」

 

 奈々子は首を振る。

「そんなことない。哲郎さんは私の元カレを……私と付き合った人を悪く言わなかった。そういうところが……大人の男性だなって尊敬していて」


 そして哲郎の目を真っ直ぐに見て言う。

「……私は哲郎さんがいいんです。哲郎さんじゃなきゃ駄目なんです」

「奈々子……俺だってそうさ」


 今度こそ伝えたい、そう思いながら哲郎は奈々子の髪を撫でる。

「俺は尊敬されるような大人の男性なんかじゃないさ。だって……奈々子を他の男になんか渡したくないって……どれだけ思っていたか」


 このような言葉で言われると安心感、そして愛おしさで奈々子は胸がいっぱいになる。

 

「哲郎さん……私だって哲郎さんに甘えてばかりで。元カレに会いに行くのを貴方に止めてほしいって、甘えた考えしかできなくて……優柔不断で……それでも、こんな私でも哲郎さんは好きでいてくれるの?」

 

「当たり前だろうが、奈々子」


 そう言われ、身体がみるみる熱を帯びていく。

「哲郎さんっ……」

 奈々子は彼の胸元に顔を埋めて涙を流していた。哲郎が奈々子の髪にキスを落とし、ぐっと抱き寄せている。


 しばらくしてから二人はゆっくりと唇を重ねた。涙のしずくが唇に残っていたが、それすら温かくて心の奥に静かに沁みていった。


 唇を離した途端、奈々子の吐息が小さく震える。

 哲郎はその頬に手を添え、もう一度確かめるように唇を重ねた。涙のしょっぱさは次第に消え、熱を帯びた甘さだけが滲む。


「……奈々子」

 耳元で低く囁かれる声に、胸の奥が強く鳴る。名前を呼ばれるたび、奈々子の心はとろけ、身体は彼にゆだねていった。


 抱き寄せられる腕の力が強まる。指先が背を撫でるたびに心地よさを感じて奈々子は小さく声を漏らす。


 夏の夜、外では蝉の声がかすかに続いていたが、二人はその音さえ溶かしてしまうほどに熱い時間を過ごしていた。

 

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