あなたは、わたしの知らないあなた
安曇みなみ
*
あなた、わたしの知らないあなた。
静かな夜、あなたは、こういった。
「ぼくは異世界から来たかもしれない」
蝋燭の炎が、天井をやわらかに照らしていた。
パチ、という乾いた音を立てて薪がはぜ、あなたの影が壁をかすかに揺らす。
わたしたちは、向かい合って横たわるには狭すぎる寝台に、背を向け合って眠るのがいつもの習わしだった。
でもこの夜だけは、あなたが背を向けなかった。
わたしもまた、眠るふりをしなかった。
「ぼくは異世界から来たかもしれない」
あなたはそう言った。声は静かで、まるで長い間秘めていた告白のようだった。
「どうして、そんなことを言うの」
わたしは、そう問いかける。優しく、でも少しだけ怖れながら。
あなたは、目を閉じたまま、微笑んだ。
「君と過ごしたこの時間が、
そのことを話しても話さなくてもいいことにした。
どちらもでいい、そういうことにしてくれたんだ。
だから、自然と、口をついて出たんだと思う」
あなた、わたしの知らないあなた。
わたしは、ずっと前から知っていた。
あなたが、わたしの知らない季節を知っていることを。
わたしの知らない街の匂いを、言葉を、音を知っていることを。
わたしがこの世界で一度も見たことのない色を、あなたの目が映していた。
「故郷では、春になると花が咲くんだ。淡いピンク色の。たった数日のあいだだけ、町中がその花に染まる」
「どんな花なの」
「風に吹かれて散るときが、一番きれいだよ。……まるで、雪みたいに」
「雪なら、わたしも知ってるわ」
「そうだね。でも、あれとはちょっと違う。あたたかくて、せつなくて、そして……なぜだか、懐かしいんだ」
あなた、わたしの知らないあなた。
馬にうまく乗れずに困っていたあなた。「足をかける場所がない」と、あなたは戸惑っていた。
わたしは、あなたの言葉を絵にして、鍛冶屋に見せた。
いまでは、それが当たり前になって、
村人たちは微笑みながら言う。「あの人の国では、乗り方も違うんだ」と。
わたしはあなたの横顔を見つめた。暖炉の光が揺れるたび、あなたの表情が変わる。故郷を思う瞳には、わたしの知らない世界が映っている。
あなた、わたしの知らないあなた。
あなたが語るたび、この小さな部屋の中に、知らない国の空気が流れ込む。
石の壁のすきまを抜けて、あなたの語る花の匂いがした気がした。甘くて、どこか儚い香り。
「教えて」とわたしは言った。「あなたの世界のことを、もっと」
そしてあなたは、ゆっくりと、目に見えない記憶をたぐり寄せるように話し始めた。電気という光、車という馬のいない馬車、空を飛ぶ鳥よりも大きな鉄の箱。そして、一年に一度だけ、街中の木々が一斉に花開く祭りのこと。そして「写真」というもの。
「一瞬の時間を閉じ込める魔法みたいなものだよ」
「それは魔術師だけが使えるの?」
「いや、ぼくの国では、誰もが持っている」
信じがたい話だった。でも、あなたの声には嘘がなかった。
わたしはあなたに恋をして、
あなたもきっと、わたしに似た感情を持ってくれた。
けれどわたしたちは、言葉でそれを確かめ合うことは、もうしなくなった。
かわりに、こうして同じベッドに入って、夜のしじまにまかせて心をほどく。
「帰りたい?」と聞いた。
あなたは長い間黙っていた。
「もう、帰る場所はないんだ」
あなた、わたしの知らないあなた。
異世界から来たあなたは、今、わたしの世界にいる。
わたしたちの間には、見えない川が流れている。
けれど、その川に橋をかけようとしている。
「あなたの国の名前は?」と、わたしは尋ねた。
あなたは優しく微笑み、耳元でささやいた。
わたしはその音を何度も繰り返した。舌に馴染まない、不思議な響き。
でもそれは今、わたしの大切な言葉になった。
蝋燭の灯りが弱まり、部屋が暗くなっていく。
「おやすみ」とあなたは言った。わたしの国の言葉で。
「おやすみ」とわたしも返した。あなたの国の言葉で。
二つの世界の間で、わたしたちは静かに呼吸を重ねる。
明日も、あなたの知らない言葉を教えよう。
そして、あなたの国の言葉をもっと覚えよう。
その夜、あなたは初めて、わたしに背を向けずに眠った。
わたしはあなたの呼吸が深くなるまで、異界の夢を見る人の横顔を見つめていた。その頬に、風に舞う淡いピンク色の花びらが降り注ぐ様を想像しながら。
わたしたちの小さな家は、
二つの世界が出会う、
小さな異界となった。
あなたは、わたしの知らないあなた 安曇みなみ @pixbitpoi
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