第8話 揺らぎは止まらない
その日から、放課後と昼休みには朱音のいる場所へ押しかけるようになった。
押しかけ女房、ならぬ――押しかけ弟子だ。
「驚いてたなー、周りのやつら」
「そりゃ、隣のクラスの男子が、いきなり女子に『一緒に弁当食おうぜ』は驚くだろう」
しかもその女子が、美少女ならともかく。
学校公認ワーストワン、異彩の持ち主である。
今は放課後。理科準備室の机を占拠して、俺たちは並んで紙を広げていた。
俺は朱音から出された課題に取り組み、朱音はというと、『ミッディ』の最新原稿を執筆中だ。
雑誌連載ってのは、何週間も先の話まで書き溜めておくらしい。
つまり俺は今、世に出る前のストーリーを、リアルタイムで見ている。
天音ひかるの弟子特権ってやつだ。
ファンとしては背徳感があるけど、優越感には逆らえない。
「でもさ、平介。お前、なんで急にあんな目立つことしたんだよ」
「……いや、別に。師匠ってこわくねーし?」
今の朱音は、ミッディの顔をしている。
そのミッディ顔で、不審者を見るような視線を投げてくる。
その視線、いいですね。もっとください。
「いやー、クラスのやつらがさ。『朱音はヤバい』『近づくと呪われる』みたいな噂しててさ」
「……なんだそれ」
「でも、実際に話してみたらさ。ぜんぜん怖くない。むしろ、すげー普通だった」
見た目は確かにアレだが、朱音の中身は至ってまともだ。
人見知りで口下手で、でも絵に対しては真剣で、頼まれごとには弱い。
“コワい要素”なんて、どこにもない。
「俺たちが一緒にいて、俺たちが無事ってわかれば、朱音師匠への偏見も、ちょっとずつ消えていくんじゃないかなって」
「……ありがた迷惑すぎる」
朱音は文句を言いつつも、原稿のペンを止めない。
その線は、繊細で力強くて、美しかった。
朱音のすごさは、最近ようやくわかってきた気がする。
昔は“上手い”“キレイ”っていう、ざっくりした印象しか持てなかった。
でも今は違う。技術の意味が、見えてきた。
「そういえばさ。前に言ってたろ。『朱音と話すと顔を盗まれる』って。あれ、どういう意味なんだ?」
話したくないことかもしれない――そう思いながらも、なるべく自然に尋ねる。
「……そのままの意味だよ」
その瞬間。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
朱音は条件反射のように、脇に置いてあった付箋にさらさらと何かを描いた。
そこには、黒く塗りつぶされた“へのへのもへじ”に、耳がついていた。
たぶん、馬――のつもりだ。
「失礼します! あ、よかった、まだここにいたね」
ノックもそこそこに、みどりと浜田が小さな小部屋に入ってくる。密だなぁと思いつつも、体で机の上を隠してやった。そのスキに朱音は原稿を回収する。
「なんでここへ?」
「入っていくところが見えたから」
みどりは、いつもと変わらぬ様子でそう言った。けれどその直後──
ふわっ、と。
空気の膜が破れるような感覚が、教室内をかすめた。
「え……?」
みどりの頬から、白い煙がふわりと立ちのぼった。
その煙は冷たく、見ているだけでぞくりと肌を刺す。
「みどり……?」
浜田が声をかけたが、その瞬間──
みどりの顔が、揺らいだ。
まるで水面に投げ込まれた石の波紋のように、鼻筋が、瞳が、輪郭がぼやけていく。そこにあったはずの「みどりの顔」が、するすると剥がれていくような感覚に、俺は背筋がゾッとした。
「なにこれ……いやっ、見ないで……!」
みどりは両手で顔を隠した。その手のひらの隙間からも、白い煙が滲み出ている。呼吸が浅くなって、肩が震えているのがわかる。
「……いや、見ないで……!」
みどりが、顔を両手で覆った。
「……こわい……顔が……ないの……やだよ、こんなの……」
みどりの声は、涙混じりでかすれていた。顔はまだ揺らぎのままで、形が定まらない。誰がどう見ても、もはや彼女の顔ではなかった。
朱音が、何も言わずに一枚のスケッチ用紙を破った。そしてペンケースから出したペンを、みどりの手に握らせた。
「描いて。なんでもいい。へのへのもへじでいいから」
「……え?」
みどりは戸惑ったように顔を上げ……いや、顔を上げたはずなのに、そこに顔はなかった。けれど、瞳だけは確かにそこにあるように感じた。
「ほら、はやく。落ち着いて。自分で描けば、顔の揺らぎは止められる」
「……うん……」
みどりは、そっとペンを受け取った。
震える手で紙を押さえ、慎重に、一筆一筆、線を引く。
「へ」の字を二つ。「の」を一つ。下に口。ぽつんと目を描いて──
完成したのは、まさに教科書どおりの「へのへのもへじ」だった。
首から、ふっと煙が抜けるような音がして、みどりの顔が、ようやくその線へと変化していった。
ふわり。
首もとから最後の煙が抜けると、みどりの顔がそのままへのへのもへじになった。
──めちゃくちゃ間抜けな顔になった。
だけど。
みどりは少し落ち着いたようで、自分の顔を触る。
「顔……よかった、ある……」
朱音は腕を組んでうなずいた。
「人の顔になってるかどうかは問題じゃない。自分の手で描いたってことが大事なんだよ」
みどりの震えが、少しずつ収まっていく。
浜田が安堵のため息をついたときだった。
――ギシッ。
廊下の奥、誰かが床を踏みしめた音がした。
全員が一斉にそちらに目を向ける。
「……今の、誰かいる!」
朱音がさっと立ち上がる。
理科準備室の扉を開け、音のした方へと走り出した。
「廊下の奥、誰か逃げてる!」
「まて、まひる!」
俺も続いて廊下に出ると、すぐさまあとを追った。
その先、曲がり角を抜けて階段を降りていく紺色の人影があった。
制服じゃない。学校指定のジャージ。後ろ姿しか見えないが、白いラインの入ったそれは見覚えのあるものだった。
「おい、止まれ!」
叫ぶが、届かない。こちらの声も足音も届かない。まるで最初から聞こえていないかのように、まっすぐに非常扉を突き抜けて──靴音だけが軽く、姿はするりと廊下の角を曲がって消えた。
「速っ……!」
朱音も悔しそうに立ち止まる。俺たちは、そこまでだった。あれ以上は、もう追えない。
──完全に、逃げられた。
逃げ足が異常に早かった。あと数秒、気づくのが早ければ……。
戻ると、みどりは紙を手にしたまま、椅子に座っていた。
その顔はへのへのもへじのままだったけれど、少しだけ、震えが収まっているように見えた。
「みどり、大丈夫か?」
浜田が優しく声をかけると、みどりはこくりとうなずいた。
「……ありがと。ちょっとだけ、落ち着いた」
その言葉に、皆がほっと息をついた。だがみどりはまだ両手に顔をうずめている。細い肩が、嗚咽に合わせて震えた。
顔を盗んだ犯人は、あの学校指定ジャージを着ていた。
つまり、この学校の生徒だ。
「これは……さすがに、許されない」
朱音が、ポツリとつぶやいたその言葉は、教室の奥で、静かに鳴った時計の音と重なっていた。
◆
夕焼けが、廊下の窓を朱色に染めていた。
俺たちはみんなで、職員室まで歩く。
みどりの顔はまだへのへのもへじのままだったけど、なんとか平静を保っているように見えた。
職員室の前まで来ると、浜田がドアをノックし、先生に声をかけた。
「先生、緊急です。報告させてください」
中から返事があり、ドアが開いた。けれど、職員室は相変わらず狭い。
浜田がみどりを連れて中に入ると、俺と朱音は廊下で待つことにした。
◆
あたりはしんと静まり返っていた。
放課後の校舎って、どうしてこんなに音がなくなるんだろう。どこかの部屋からプリンターが動く音がして、数秒後にはそれすら消える。
朱音は、職員室の前の壁にもたれていた。姿勢はいつも通り、だけど……目がどこか曇っていた。
「……あのさ」
ぽつりと、朱音が口を開いた。
「私には、もう関わらないほうがいいよ」
「は?」
あまりに唐突で、間の抜けた返事をしてしまう。
「なに言って――」
「君の幼馴染のみどりさん……見たでしょ。顔、盗られて、あんなに震えてた」
朱音は壁から体を離し、ゆっくりと俺の方へ視線を向けた。
夕焼けの光が、その顔を半分だけ照らしていた。
「私と一緒にいたから、巻き込まれたんだよ」
「でもそれって、ただの偏見だろ?」
「それでも、何度も同じことが起きているんだよ」
言葉が刺さる。
「……頼むよ。もう関わらないでくれ」
朱音はそれだけ言い残すと、背を向けて歩き出した。
夕日に照らされるその背中は、どこか少し小さく見えた。
◆
残された俺は、しばらく動けなかった。
そのとき、職員室の扉が開いた。
浜田だった。
「……みどりの親に連絡した。すぐ迎えに来るって」
そう言ってから、俺の隣に立つ。
「一緒に帰るらしい。まだ……動揺してるみたいだ」
「そっか……」
俺が俯くと、浜田の声が少し低くなった。
「――さっきの、聞いてたよ」
顔を上げると、浜田の目がまっすぐ俺を見ていた。
「みどりに迷惑がかかるくらいなら……朱音さんには、近づかないでくれ」
静かに、けれど決然と言った。
「俺も、みどりも、お前のことは大事に思ってる。けど……みどりが傷つくことだけは、我慢がならないんだ」
痛いくらいに、正論だった。
でも、それでも――
俺の胸には、朱音の顔が浮かんでいた。
たった今、夕焼けに照らされた背中で去っていった彼女の姿が。
――師匠であるまひるか、幼馴染である浜田とみどりか。
選ばなきゃいけないなんて、思ってもみなかった。
でも、今――
俺は、その選択を突きつけられていた。
そして。
俺には、何も言えなかった。
✧.゚𝙽𝚎𝚡𝚝 𝙳𝚛𝚊𝚠𝚒𝚗𝚐……▶︎゚.✧
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
もし「友情と秘密のあいだで、揺れる気持ち……ちょっとわかるかも」って思っていただけたら、 ☆評価とフォローで応援していただけると嬉しいです。
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