1話 瞳はそこにあってそこにない
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都会の喧騒から隔絶された薄暗い路地裏にそびえる昭和中期に建てられた5階建ての雑居ビルに『亜香里探査事務所』はある。
1階を面会室とし、2〜4階は資料室。5階を居住部屋としている。
面会室はそれなりに綺麗にしているが、資料室と居住部屋はとてもではないが綺麗とはいえない。整理整頓というものが鈴代亜香里にはできないのだ。
仕事は殆ど舞い込んでこないので、毎月金欠に悩まされている。
これは彼女の仕事があまりにも特殊ゆえの弊害である。一応毎月決まった稼ぎはあるので文無しになる事はない。
少ない稼ぎで生活するために自炊をしていて、外食など殆どしない。服装はラフで安いものにしている。
そんな彼女の元に1人、仕事の依頼人が向かっていた。
朝日が僅かに差し込んで、亜香里は目を覚ます。散乱した本の隙間に敷かれた布団から起き上がり、寝癖でボサボサの髪を手櫛で大雑把に整えながら洗面所に向かい、顔を洗って、歯ブラシを口に突っ込む。
歯を磨きながらコームで髪を整える。亜香里の髪質的にそれだけでセットが完了する。
歯磨きを終えたら、台所の小さな冷蔵庫から飲みかけの水が入ったペットボトルを取り出して喉を潤す。
飲み干したペットボトルは近くのゴミ袋に投げ入れて、歩きながら寝巻きを脱ぎ捨て、クローゼットから、白のTシャツとデニムパンツ、浅葱色のロングシャツに白の靴下を取り出してそそくさと着替える。
外に出るかどうかわからない場合の彼女は化粧はしない。そもそも、化粧する必要性があるのかと常々疑問に思っている。27歳とまだまだ若さの残る彼女だからこその考え方だ。
あらかた朝やることを済ませ、ゆっくりとくつろごうとした直後、インターホンが鳴り響いた。
インターホンに付属するスピーカーからは『ごめんください、こちらが探査事務所ですか?』と声が聞こえる。声から女性らしいことがわかる。
「そうです。少々お待ちください。今、下に向かいます」
カジュアルシューズを履いて、シューズボックスの上に投げ置かれた鍵を手に玄関から出る。
このビルにエレベーターなどない。玄関から下に伸びる階段を急ぎ降りる。
息を切らして1階まで降りてくると、俯いた中年の女性が立っていた。
「どうも。私が当事務所の所長、鈴代亜香里です。どうぞ、こちらでお話を聞きましょう」
「はい、よろしくお願いします」
顔を上げた女性の顔は酷くやつれていて、目の焦点があっていなかった。
面会室にて、ソファに腰掛けた依頼人に基本情報を書類に書いてもらう。その間にコーヒーを準備した。
書類を書き終えたであろうタイミングを見計らって、亜香里は依頼女性にコーヒーをさしだした。
依頼人の名前は柳冬子。都内マンションに在住の45歳で、現在は自宅近くのスーパーでパートとして働いている。家族はサラリーマンの旦那と今年から大学生になる息子1人。
特に問題のなさそうなごく一般的の家族だ。
「私は、おかしくなってしまったのかも知れないのです」
コーヒーを一口飲んではポツリと呟いた。
「それはどういうことなのでしょう?」
書類から目を離して、依頼人の柳氏を見つめる。彼女の手は小刻みに震えている。
「常に、何かに見られている。いえ、見張られている様に感じるのです。獰猛な獣の様な、狂気的な殺意を持って」
「誰かに話されましたか?」
「はい。家族には気の所為だと。知り合いの神主にも話したのですが、何も付いていないと言われました」
「成程、それでこの事務所のことを知って来たのですね?」
「はい。こちらであれば、この様な不可思議な問題を解決してもらえると聞きましたので」
「わかりました。無事、普通の生活が送れるよう、最善を尽くします。ではまず、詳しい話を聞かせてもらえませんか?」
「はい、何かに見られていると感じるようになったのは5ヶ月程前です。最初は気の所為だと思えたのですが、1ヶ月経つ頃には明確に何かが見ていると思える程になりました。どんなに見渡しても誰もいないので不安で、そのせいか段々と酷くなって……」
「見られていると感じるのは常に同一方向からですか?」
「いえ、でも視界の外です。背後だったり、上だったり、たまに下だった事もあります」
「その、5ヶ月前に何か変化ありませんでしたか?」
「はあ、そうですね。マンションに引っ越して来た人が何人かいました。そのくらいです」
「古い物を買ったりはしていないと」
「はい。あまり中古品とか好きでは無いので買ったりしません」
「わかりました。……少し面倒な事になっているのかも知れませんね」
「……あの、どういう事でしょう?」
「私の元に来て正解です。これは、ちょっとした怪奇現象ではありません。つまりは、お化けとか妖怪とかそういう類のものではないのです」
「では、どういう……」
「生き物であって生き物ではない。仮称を半生物と呼ばれる新しい存在です。海外だとミラージュ・オブジェクトと呼ばれたりしています」
柳冬子は唖然とした顔で亜香里を見つめている。全く知らない未知の何かに狙われているのかも知れないと思えば誰であろうと恐怖心を抱いたとしても仕方がない。
「大丈夫です。言ったでしょう?私の元に来て正解だと。私になら解決できますよ」
「……お願いします。どうか助けてください」
「はい。お任せください」
亜香里は柳冬子の手を握りはっきりと答えた。まずは依頼人を安心させる事が1番だと亜香里にはわかっている。
落ち着いた柳冬子に、亜香里は名刺を手渡して、後日電話して家に伺う事を約束した。
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