二月十七日

一文字零

二月十七日

 朝、起きたら窓の外に雪が積もっていた。昨日は夏だったはずだ。

 スマホのロック画面には、はっきりと「二月十七日」の文字が表示されている。こんなのは絶対におかしい。私は昨日、確かに彼氏と浴衣を選んで買った。私は一週間後の花火大会に胸を膨らませていたのだ。こんなことは決してあり得ない。一体どういうことなのだろうか。

 私は一目散にベッドから飛び上がり、二階の自室から階段を駆けてリビングへ突進し、母に「昨日って夏だったよね?」と尋ねた。母は「はぁ?」と怪訝な顔をして、「そんなわけないでしょ、もう二月も中頃よ」ときっぱり言った。バカな、バカなバカなバカな。なんでこんなことになっているんだ。私がおかしいのか、母含めたこの世界がおかしいのか、一体どちらなんだ?

 私は今にも発狂しそうな喉を必死で堪えて、この現実かどうかさえも分からない今私自身が存在している世界の状況を把握することにした。

 今日は月曜日。天気はさっき見た通りの雪。今日のニュースは海外で昨晩発生したらしい集団強盗事件について。スマホとテレビを交互に睨みながら、私は精一杯自分の心をまともに保とうとした。

 八回目の深呼吸を終えた時だった。スマホにリマインダーの通知が届く。メモには「一般選抜頑張れ私!」と書かれている。

 本当に意味が分からない。いや、ほんの少しは分かる。何故なら私は現在高校三年生であり、希望する大学への合格を目指す立派な受験生なのだ。そうだ。確かにそうだ。この日は私の第一志望校の受験日だ。

 母が「早く支度しなさい! こんな時にスマホばっかり見てないで!」と、いつもの声量で怒鳴る。そうは言われても、私は昨日、残り少ない青春を全力で満喫しようと企んでいた身である。

 これは悪い夢なのかもしれない。仮にそうであるならば、悪いのはこの私だ。私が私自身に悪夢を見せているというのなら、私は早急に私自身を母から受け継いだ声量で怒鳴りつけてたたき起こさなければならない。起きろ、起きろ私。

 心の中で何度も何度も自分にそう言い聞かせても、私はこの世界から脱出することはできなかった。もういっそ、私はこの世界が夢の中の世界であることを祈って、受験に臨むことにした。

 家を出て、駅に向かい、電車に乗る。スマホのカメラアルバムを見ると、彼氏との花火大会で撮ったらしき写真が何枚も出てきた。私は一切記憶にない。彼氏に今のこの困惑をラインしようと思ったが、気が狂ったと思われてしまいそうなので、やめた。

 ぼぅっとしていたら私はいつの間にか試験会場にいた。大勢の受験生、極限の緊張感の中、試験官は試験開始の合図を出した。

 私はこの空白の半年間とも呼ぶべき記憶の欠落を抱えたまま問題を解く。分からない問題もちらほらあった。分かっているはずの問題も、緊張とストレスで気が散る。

 胃が痛い。腸が痛い。心臓が痛い。全ての臓器が悲鳴をあげている。とてもこんな体調では試験を続行できない。ここまで酷い悪夢は初めてだ。私はなんとしてでもこの悪夢を乗り越え、彼氏と花火大会に行くのだ。土手に座って、団扇を扇ぎながら、花火の光を反射したお互いの顔を見て笑い合うのだ。一刻も早くこの悪夢の終幕を祈った。

 起きろ。起きろ私。起きろ。

 もう吐きそうだ。悪夢は終わりにしよう。

 起きろ。

 ピピピピ、ピピピピ。

 スマホのアラームが鳴る。

 朝だ。ここは自分の部屋だ。私は夢から覚めたのか? 私は悪夢の余韻に震えながらスマホを見る。

 ロック画面には、「一月一日」と書いてあった。

 なんだ。今日は正月か。年明け早々酷い夢を見た。

 いや、待て。だとしたら私の花火大会の準備はなんだったんだ? 彼氏と浴衣を買った、あの記憶に説明がつかない。いや、それともここが現実で、私は今まで二重に夢を見ていたというのか?

 もう自分の中で色々考えても仕方ない。ともかく、私は相当疲れているのだと思う。恐らく受験勉強が原因だろう。こんな夢を見るくらいなら、勉強時間を削ってでも少しくらいは休む時間を確保しておこう、と思ったが、やっぱり勉強をしていないと気が休まらない。私の志望校は私が高校一年生の頃から憧れ続けていた学校なのだ。私はそこで医学を学び、人々に、社会に貢献できる医者になりたい。

 私はリビングに行き、元旦の特番を見ながら焼き鮭を食べた。おせちはなかった。

 しばらくすると、雨が降ってきた。雨粒の窓を小気味よく打ちつける音がカーテン越しに聞こえる。

 母が鮭が盛り付けられていた皿を回収した瞬間のことだった。稲光がひと足先にやってきて、三秒も経たない内に雷鳴が轟いた。

「ここまで悪い天気になるなんて。今日初詣に行くのは無理ね」

 母はため息を吐いた。だが、私にとっては、今日の天気のことなど心底どうでもよかった。夢の時と同じ内臓の苦しみが私を襲った。

 救急車を呼んでもらおうか迷った程だったが、私は一旦自室に戻ることにした。リビングから出た私は、もはや歩ける状況になく、匍匐前進のような進み方をするしかなかった。こんなに体調が悪いのは人生で初めてだ。何かがおかしい。これだけの異常がただのストレスによって引き起こされたとは思えない。

 いつもはスタスタと歩けるはずの階段の段差が、今は高く長く見える。

 吐きそうだ。

 もしかしたらこのまま死んでしまうかもしれないという過激な妄想すら頭によぎった。

 いっそ、これすらも夢ならば。そう思った。

 痛い。

 雨がますます激しくなっていく。

 苦しい。

 十分ほど経っただろうか。階段の一段目と床にかけて倒れこんだ私は、目を閉じていることに気付いた。いつから閉じていたのかわからない。

 私は目を開けた。

 目の前には天井があった。間違いない。私の部屋だ。

 砂嵐のような雨音が鳴る中、寝ぼけながらスマホのロック画面を見ると、日付は「六月五日」となっていた。

 もしや私は、三つの階層に分けられた夢を見ていたのか? ここが現実で合っているのか?

 私は逸る気持ちを抑えきれずにリビングに行き、母に尋ねた。

「ねぇ、ここって現実?」

 自分でもアホな質問をしていると思う。母は案の定ムカデでも見たかのような驚きと恐怖が混じった顔をして、「はぁ? 現実に決まってるでしょあんた。ほら、今日は一限からあるんでしょ?」と言った。

 一限からある、とは一体なんのことだ? まさかと思い私はスマホを確認する。

「そうか、私、大学生か」

 不意に声が出てしまった。私は今大学二年生で、医学を学んでいる。私は彼氏と昨晩、五時間にも及ぶ通話をしたばかりで、今までにないくらい夜更かしをしてしまったのだ。睡眠時間は著しく少ない。あのような変な悪夢を見てもおかしくはないかもしれない。

 私は支度をして、家を出た。電車での通学中、悪夢の余韻か少し頭が痛かったが、そのうち良くなるだろう。

 大学生活は楽しい。憧れの場所で、憧れの先輩に囲まれながら、憧れの学問を学べるのだから。今日も瞬く間に時は流れ、昼ご飯の時間になった。だが、頭痛がまだ治まらない。それどころかどんどん痛みが増している。

 痛い。

 間もなく胴体に入った内臓も傷み始めた。

 待って。

 待ってくれ。

 これはあの悪夢と同じじゃないか。

 しかも今までとは比較にならないほどの痛み。

 私は死ぬのかもしれない。人が死ぬ時はあんな悪夢を見るのか。そう思った時、私はそこはかとなく絶望感を覚えた。

 痛い。

 苦しい。

 その時だった。スマホのアラームが鳴った。

「あ、悪夢? 現実?」

 私はか細く独り言を呟く。

 スマホに表示された日付は「二月十七日」だった。

「あぁ、あ」

 頭が痛い。心臓が苦しい。

 私は寝転がったままベッドに吐いた。吐瀉物が枕と布団を豪快に汚した。

「はぁ、はぁ」

 何もできない。私は何もできない。このベッドから全く動けない。

 目が冴えた。私は何もかも理解できなかった。「あ」に濁点が付けられたような発音を、母譲りの声量でただ叫んだ。無意識の行動だった。発狂とはこの事を言うのだと、私は理解した。

 息が詰まる。乱れた呼吸を整えようとしても無理だ。一度息を吸うと、その分私は叫んだ。自分でも止められなかった。

 母がドアを開けてこの部屋に入ってきた。

「あんた何叫んでんのよ! どうしたの!」

 もう何も考えられない。気が付くと、私はベッドから起き上がり、吐瀉物を纏いながら母を力づくで押し倒していた。

 雨がピタリと止んだ。

 私は目を閉じていた。この瞼を開ければ、どうせさっきの世界も夢だったことを認識するのだろう。

 最悪だ。最悪だ。そう心の中で復唱しながら、私は目を開けた。

 私は母の棺を抱きしめていた。

 周りには黒ずくめの大人達がいる。そうか。私は母を失ったショックで幻覚を見ていたのか。思い出した。母は癌で死んだのだ。そして私は今、医者になる事を心に誓ったところなのだ。

 しかし、この世界が現実である保証はどこにもない。そう。どこにもないのだ。また私はまだあの無限地獄の最中にいるのかもしれない。私はすでにこの永久の夢の檻に閉じ込められているのかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。

 私は真っ直ぐ立ち上がり、目についた大きなりんを片手で持ち上げ、母の棺の周りに群がる家族を見渡しながらそのりんを思い切り振り上げて私の頭に衝突させた。

 もう楽になりたかった。私はもう、この地獄に耐えられない。

 目が覚めると、私は彼に抱きしめられていた。スマホのロック画面には、「四月二十日」と表示されている。

 一年前、私は医者になった。彼とはこのマンションで同棲生活を始め、婚約をした。

 私は名残惜しく思いながら彼の手を振り解き、ベッドから出てカーテンを開けた。程よく風が吹いて、春の陽気が心地いい。

 下を見ると、土手に咲く桜の花びらがひらひらと舞っているのが見えた。

「今日もいい天気だね」

 彼氏はむくりと起きて、外を眺める私を後ろからハグした。今、私のお腹には赤ちゃんがいる。まだ妊娠が分かってから一ヶ月だが、私達二人は既に小さな子供に夢中だった。

 珍しく完全休日だったこの日、私は彼と散歩に出かけた。時々お腹をさすりながら、私達は近所の公園を散策する。決して大きくはないこの公園は、桜が綺麗な割に人が少なく、ちょっとした穴場スポットとなっている。ここがいずれ、私達家族の思い出の場所になるのだろう。想像しただけで、思わず笑顔になってしまう。

 あれから目まぐるしく時は流れた。結婚、息子の誕生と大きなイベントが立て続けに起きた。息子が生まれてからは、仕事と育児の両立に追われた。私は一日一日を必死で生きていた。それでも、最高に楽しかった。

 いつしか息子は、幼稚園を卒園した。これからはいよいよ小学校。噂には聞いていたものの、子供の成長というのはこんなにも早いものなのかと驚かされた。

 ある日、息子は夜ご飯を食べている時、「大きくなったらお医者さんになる」と言った。私は目頭が熱くなって、涙を一筋こぼした。不思議がる息子に、私は笑顔で「嬉しいわ」と答えた。一つ、また一粒頬に垂れていく涙。体が、頭が温かくなっていく。それはやがて、少しずつ、ゆっくりと痛みへと変わっていった。息子は「どうかしたの?」と心配する。医者が自分の体調管理を怠るなど言語道断である。私は「大丈夫よ」とすぐに答えたが、それでも全身の原因不明の痛みは続く。それどころか、痛みが増していくような気がした。夫も心配して私の背中をさする。

 これは、初めての感覚じゃない。遠い昔どこかで、経験した痛み。

 なんだ? この痛みの正体は?

 その時、ズキ、と頭蓋骨ごと脳に亀裂が入ったかの如く、強烈な痛みが襲った。直後、心臓は鼓動を早め、胃腸は内側から潰されたのではないかと錯覚するほど苦しくなった。

「う、あ」

 私は悶えた。

 そして私は思い出した。全て思い出した。なぜ忘れていたのだろう。思い出したくなかった。

 信じたくないが、目の前のこれも、私が産んだ息子も、優しく私を支えてくれる夫も、この街も、この食卓も、この世界も、全部夢だったのか。

 正解だとでも言わんばかりに全身の痛みは強烈になる。

「う、おぇ」

 私はテーブルにそのまま吐いた。

 そんな。

 そうだったのか。

 嫌だ。

 私の人生はなんだったんだ。

 返せ。

 夢ってなんだ。

 私を殺してくれ。

 現実ってなんだ。

 痛い。

「おはようございます」

「今日は天気が良いですね」

 目が覚めた。私はベッドの上で仰向けになって寝ていたらしい。

「おはよう」

「まだ眠たいです」

 さっきから人の話し声が聞こえる。ここはどこだ? 見慣れない。やけに静かだ。スマホはどこにも見当たらない。自分は今何歳なのだろうか。

 窓の外を見ると、雪が積もっている。東の空から登ったばかりの太陽が、淡く私を照らしている。

 どうやら私は病室にいるらしい。他の患者さん達も、私と同じように起床したのだ。

 ベッドから上半身を起こすと、私は何かを忘れているような感覚を覚えた。それはとても大切で、幸福な記憶だったと思う。

 私はあくびをして、窓の外を再び見た。土手では葉も花もない桜の木が、雪を被っている。

 少し思い出した。私には夫がいた気がする。

 しばらく窓の外を眺めると、私は無意識にお腹をさすっていた。私には息子がいた気がする。今あの二人は何をしているのだろうか。

 私は思わずもう一度あくびをする。まだ眠気がある。許されるなら二度寝がしたい。

 目を閉じそうになった刹那、私は窓の外に絶叫した。

 そうだ。

 あぁ、そうだ。

 そうだ。

 それは全て夢だ。

 壁にかけられた時計の下部分には、デジタル液晶で「二月十七日」と表示されていた。

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