虚の園にて花を待つ
傘屋きるて
第1話 記憶を喪い、襲われる
真っ白な部屋の中、俺は立ちすくんでいた。地に足のつかない感覚で、これは夢だと悟る。ぼんやりとした頭で、俺は周囲を確認した。
どこまでも白が続き、自らの呼吸音が嫌に耳に響く。自分の目の前に落ちている物を除けば、俺以外に何もない退屈な空間だ。足元に視線を落とし落ちていたものを見る。頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響いた。
回らない頭は、それでも目の前にあるものの像を結び始めた。
真っ赤なドレスを身に纏った少女が、虚ろな目で倒れている。胸は大きく裂けて、広がり続ける血だまりがその傷の深さを知らしめる。枯れた花があたりに散乱して、元は白かったのであろう花びらを赤く赤く染め上げていた。そして、彼女のドレスの赤色も同じように染まったのだろうと思い至る。鉄錆のにおいが鼻について胃液がせりあがった。
どうして、何故。
そんな事ばかりが脳内を巡る。他にすべきことがあるはずなのに、体はまるで縛り付けられたかのように動かない。
何も出来ず、呆然とその様を見つめ続けた。息も忘れてただただ胸を満たす虚無を感じることしか出来なかった。
ふと。
「彼女」の目がこちらを向いた。
その口がはく、と空気を吐き、最期の言葉を吐く。
「███████████████」
その言葉を俺は理解出来ずに、
意識は暗転した。
冷たく湿った感触が頬に当たり、不快感で目を覚ます。のろのろと起き上がって辺りを見回すが、そこは全く知らない場所だった。
漆黒の空には点々と星が並び、電灯が頼りなく照らす風景から自分が寝ていたのが住宅街の公園だったと気づく。自分を確認してみても、薄汚れあちこちが擦り切れた服の上から、これまた各所がほつれたコートを着ているばかりでそれ以外は何もない。大きなケガも無いのは幸いだった。
「どうするか…」
見知らぬ場所、何故ここに寝ていたのか今までの記憶も不思議と曖昧だ。これからどうするべきかの見当も全くつかない。ともかく、ずっと寝転んでいるわけにもいかない。人に見られれば不審に思われるだろう。長くここで寝ていたのか、ぎしりと軋む体を何とか動かして、ふらりと歩き出す。
随分と遅い時間なのか立ち並ぶ家はどこも明かりが消えていて人の気配がない。人通りもなく、聞こえるのは壁に響く自分の足音だけだ。
すこし不気味に思いながらも、交番でここはどこかを聞いて早く帰らないと…そんなことを考えて、はてと思い至り足を止めた。
「…帰るって、どこにだ?」
分からない。思い出せない。帰らなければ、と思う気持ちはあるのにその行き先が全く不明なのだ。そんなまさか、とぐるぐると思考を巡らせる。今までどうやって生きてきたのか、一つ一つ手繰り寄せていこうと記憶の糸を掴もうとし。
そして静かに動揺した。
その糸すら、どこにもなかったからだ。
住んでいた場所も、家族や友人の記憶も、生まれてから今日ここで目覚めるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
「まあ…いいか。交番に行けばとりあえず身元確認をしてもらえるだろう」
しかし少しの動揺の後、俺は妙に落ち着いていた。記憶喪失であるという事実を疑うでも悲観するでもなく、どこか他人事のようにすら感じていた。意外と俺は図太い性格らしい。
自分に関しての記憶が欠落してはいるが、それ以外の知識と記憶は残っている。なら、どうとでもなるはずだ。然るべき機関に相談すれば良いし、最低限の保証くらいはされるだろう。されなかったら…まあ、追々考えればいい。
謎が一つ増えたが目的地は結局変わらない。また交番探しに戻ろうとして一歩踏み出した矢先、
背後からがんと強い衝撃が体にかかり、勢いよくアスファルトに叩きつけられた。
「が、は……ッ!?」
予想外の痛みに息が漏れる。次から次に何なんだ、と首を回して背後を見た。その異形を、見てしまった。
それは一見犬のようだった。体躯もシェパードくらいで、明かりがない所で遠目から見ればただの犬と見間違えただろう。しかし、頭部があるべきところにそれはなく、代わりに鋭く硬質な赤茶色の塊がついている。下の方には犬よりも幾分太く鋭い牙が並んだ口が生え、その口元は背面まで大きく裂けていた。さながら食虫植物だ。ギョロギョロと血走った目が頭上から、口元から、胸元から四方を見ている。
おぞましい怪物に、俺は抑え込まれていた。
「…っこの!離……、せ!!」
あの牙に食いつかれればただでは済まない。必死に抵抗するが、背後からがっちりと伸し掛かられてろくに抵抗できずに体力だけが消耗する。怪物は獲物である俺をいたぶっているつもりなのか押さえつけるだけだ。しかし、いずれはきっと俺を食うだろう。
「クソ…!!離せ化け物!!俺は美味くないぞ!!」
せめてもの抵抗で声を張り上げる。あわよくば住宅の中から助けの手が伸ばされないかとも期待したが、明かりがつく気配はない。
怪物が頭をもたげ口を大きく開く。気のせいか、その口角は俺を嘲笑するように醜く上がっているように見えた。ああ、俺はこんなよく分からない生き物に食い殺されて終わるのか。せめて痛みが長引かないよう早めに気絶したいところだ…。
生温い唾液が頬に落ちる感触に目を固く瞑る。訪れるであろう痛みを粛々と待つ。
「20mmキャノン砲、撃て―――!!!」
男の声が鼓膜を揺らす。その声にはっと目を開けて周囲に視線を巡らせれば、いくつもの閃光が怪物の後ろから落ちてくる。
―――砲弾だ。思ったときには、それは目の前で爆音を轟かせ怪物を巻き込んで爆ぜた。怪物は3メートルほど遠くまで吹き飛ばされ、ぐぅぐぅと低く唸って身じろいでいる。
「トオル!そいつ連れて離れろ!オレはこいつを足止めする!!」
先ほど聞こえた声がそう指示を飛ばすのが聞こえる。その声に合わせて、呆然と座り込む俺の隣に柳色の髪をした青年が駆け寄ってきた。皺のない白衣がぱさ、と地面に着く。
「動けますか?すみません、混乱されているかもしれませんが今は僕たちについてきてください」
そう告げる彼の瞳が不安そうに揺れる。俺の肩を支える手は少し震えていた。あの怪物に怯えながらも、助け起こしに来てくれたんだろう。
「…わかった、君たちに従う」
ここに残ってもあいつに食い殺されるだけだからな。そう伝えて立ち上がれば、目の前の男は眉を下げて笑う。
「こっちです」
断続的に響く爆発音から逃げるように、先導されるまま走った。
「なんでこんな事に……」
ため息とともにこぼれた言葉は前を走る人には聞こえなかったらしく、砲撃音と共にかき消えた。
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