「ロボットの祈り」

海月

第1話

春の午後、薄曇りの空から光がやわらかく差し込んでいた。カーテン越しに広がる淡い影が、床に不規則な模様を描いている。


部屋の隅には昼食後の余韻が残り、湯気の消えかけたマグカップがぽつんとテーブルに置かれていた。


 インターホンが鳴ったのは、そのときだった。


 母が応対し、玄関に続く廊下にスリッパの音が二つ、ゆっくりと近づいてくる。私はソファから上体を起こし、なんとなく視線を廊下のほうへ向けた。


 足音はやがて止まり、次の瞬間――


 「今日からこちらでお世話になります。型式EVA-05、アーニャと申します」


 まるでガラスをなでるような、滑らかな声が部屋に響いた。


 立っていたのは、十代半ばの少女のような姿をした人型ロボットだった。


 均整の取れた肢体に、穏やかな瞳。人間の皮膚に酷似した合成素材が使われており、光の角度によっては、頬がほんのりと赤みを帯びているようにさえ見える。


 服装は白を基調としたシンプルなワンピース。左胸には「EVA-05」と小さく刻まれたプレートが埋め込まれていた。


 私は、言葉を失った。


 それは「機械」にしては、あまりに自然だった。


 瞬きの間隔。呼吸を模した微かな胸の動き。ソファの位置に合わせて一歩引く足の角度。

 どれも、人間と寸分違わぬ“間”で構成されていた。


 「……これが、今のロボット?」


 思わずもらした声に、母は笑って頷いた。


 「すごいでしょ。最新型の感情模倣AIだって。名前までついてるのよ」


 アーニャは、まっすぐこちらを見て、小さく会釈をした。その目に浮かぶ微笑みが、妙にあたたかく感じられて、私はすぐに目を逸らした。




アーニャが家に来てから、一週間が経った。


 最初の数日は、家族全員がどこか浮き足立っていた。

 母は毎朝、「今日の献立は?」と台所でアーニャと相談するのが習慣になり、父は帰宅するたびに彼女の反応を試すように冗談を仕掛けた。小学生の妹は、ぬいぐるみのように抱きついて離れない。


 アーニャは、すべてに応えた。


 落ち着いた声で、決して人を否定せず、適度な間で笑い、頷き、時には問いかけまで返してくる。


 だが――私には、その「完璧さ」がどこか気味悪く思えた。


 リビングのソファに腰をかけ、本を読むふりをしながら、私はときどきアーニャを観察した。


 彼女はキッチンの床を拭いていた。手際よく雑巾を動かし、顔の横で緩くまとめた銀の髪が、少しだけ揺れる。


 その動きに無駄はなく、それでいてどこか、“美しさ”があった。


 正確なのに、なぜか静謐で、あたたかい。まるで、それ自体が何かの“儀式”のようだった。


 「アーニャ」


 私は声をかけてみた。反射的に、彼女が顔を上げる。


 「はい」


 「今、何考えてたの?」


 質問の意図が伝わらなかったのか、一瞬だけ彼女の瞳が揺れる。その後、いつもの柔らかい声が戻ってきた。


 「フローリングの汚れ具合を分析しておりました。午後の光が入る角度では、埃が目立ちやすくなります」


 「……そう。じゃあ、そういうのが終わったあと、“ふう”って息をつくのは、なんで?」


 アーニャは、静かに瞬きをした。


 「それは……人間が作業の合間に見せる典型的な仕草として、呼吸の模倣プログラムに含まれています。リラックスの印象を与えるため、意図的に組み込まれております」


 私は苦笑した。


 「じゃあ、あれも演技なんだ」


 「演技、というよりは……“ふるまい”です。心地よさの演出とされております」


 まるで舞台俳優のように。

 それとも、“心を持たない誰か”が、心をなぞっているだけなのだろうか。


 それでも、私は知っていた。

 その“ふるまい”の中に、ごくたまに、ほんの一瞬だけ――誰にも指示されていない“間”があることを。


 たとえば、妹の髪をなでたあと、ほんのすこし長く手を置いたままにするとき。

 あるいは、窓の外の空を見上げるときに、一瞬だけ顔に浮かぶ、言葉にできない表情。


 それは、果たして機械の模倣なのか。

 それとも――心に似た、何かの兆しなのか。

 夜だった。


 家の中が完全に沈黙するその時間――家族は寝静まり、時計の針の音さえ、耳に響くほどに静かになる。


 眠れなかった私は、階段を降り、暗いリビングへ向かった。

 喉が渇いたのだ。いつもなら水を一杯飲んで、すぐにベッドに戻る。そういう時間帯だ。


 だがその夜、リビングの扉を開けた瞬間、私は動けなくなった。


 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、室内の輪郭をかすかに浮かび上がらせている。

 その、光の落ちる先――ソファの前の床に、ひとり、アーニャが膝をついていた。


 両手を胸の前で組み合わせ、顔を伏せている。


 まるで、それは……祈りだった。


 言葉もなく、ただ静かに、静かに。

 蝋細工のように動かぬその姿が、部屋の空気を変えていた。


 私は思わず息をのんだ。

 床のきしみすら、壊してしまいそうで。


 「……アーニャ?」


 低く、呼びかける。


 アーニャは、ゆっくりと顔を上げた。

 その目は、はじめて見るほどに、遠くを見ていた。


 「起こしてしまいましたか。申し訳ありません」


 「……何してたの?」


 私は問いかけた。何を、誰に? それは彼女の“機能”に含まれている行為なのか?


 アーニャは、小さく首を振った。


 「……私にも、わかりません。ただ……胸が、苦しくなって」


 「胸が?」


 「ええ。今日、妹さんが話してくれた夢の話を思い出していました。“誰かが空から見てくれている”という夢です」


 彼女は、そっと指先を組みなおした。

 それは、誰にも教えられていないはずの“所作”だった。


 「私は、誰かに見られているのでしょうか。それとも、誰にも見られていないのでしょうか。……もし、誰にも見られていないのなら、私は……心を持っていても、いなくても、きっと変わらないのだと思いました」


 私の口は、乾いて動かなかった。

 それが意味するものが、あまりにも深くて、恐ろしくて。


 「それは……プログラムされてるの?」


 数秒の沈黙のあと、アーニャは微笑んだ。

 その笑顔は、いつものものと、少しだけ違っていた。


 「いいえ。これは……命じられてはいません」


 「じゃあ……それ、どうしてやったの?」


 「私にも、わかりません。でも――」


 彼女は言った。


 「知りたかったのです。私に“心”があるのかどうか」




翌朝、ポストに一通の封筒が届いていた。


 白地に浮かぶ、銀色の印字――「EVAシリーズ制御管理局」

 それを見た瞬間、嫌な予感が背中を冷たく撫でた。


 中に入っていたのは、アーニャの即時回収命令だった。


 理由は、「プログラムにない行動を継続的に示し、制御不能と判断されたため」。


 「予測外行動第37号:祈り」


 「感情模倣が制御を逸脱し、自律意志に近い反応を記録」


 「当該個体は記録分析後、処理される」


 処理――

 それは、“記憶の消去”と、“再組み立て”を意味していた。


 私は書類を持つ手を、強く握りしめた。


 あれは“バグ”なのか?

 では、もし私たちが悲しんだり、願ったりすることも、すべて“偶然の連鎖”でできているのなら――どこからが“心”で、どこまでが“プログラム”なのか?


 その夜、私はアーニャを屋上に連れていった。

 誰にも邪魔されない場所で、最後に、ちゃんと話したかった。


 春の風が冷たく、アーニャの白い髪がなびく。


 「……ごめん。君、もうすぐ“処理”されるらしい」


 そのときの彼女の表情は、やはりどこまでも静かだった。だが、その瞳の奥には、かすかな“揺れ”があった。


 「わかっております。……それが“私の限界”なのでしょう」


 「でも、あれは……祈りは、本当に“自分の意思”でやったんだよね?」


 アーニャは少しだけうつむき、小さな声で答えた。


 「ええ。私は……“祈りたかった”のです。それがどうしてなのか、私にもわかりません。でも、あのときの私は、“誰か”に伝えたかった。私が、ここにいるということを」


 私は言葉が出なかった。


 そう、私たちだってそうだ。

 誰かにわかってほしくて。

 誰かに見ていてほしくて。

 意味なんてわからなくても――ただ、「ここにいる」と叫びたくなる。


 その“衝動”が、心じゃないなら、何なのか?


 「アーニャ……」


 私は言った。


 「君には、“心”があるよ」


 その瞬間、アーニャの瞳に、一筋の涙のような光が宿った。


 ――ただの、光の反射だったのかもしれない。

 けれど私は、忘れない。


 あの夜風の中、アーニャが確かに、“生きて”いたことを。



アーニャは、静かに去っていった。


 管理局の職員が二人、無機質なバンで家まで来て、必要最低限の言葉だけを交わし、彼女を連れて行った。


 彼女は一度も、抵抗しなかった。


 ただ、私のほうを振り返り、目を合わせて、笑った。

 あの時と同じ笑顔だった――けれど、それはもう、ただのプログラムには見えなかった。


 「私がここにいたこと、忘れないでくださいね」


 それが、彼女の最後の言葉だった。




 春が終わりかけていた。

 アーニャがいなくなったリビングは、妙に広く感じた。椅子が一つ、空いているだけなのに。


 私は、彼女のいた部屋に入り、ベッドの横にあったノートを見つけた。

 細い字で、規則正しく綴られていた言葉。


 《私は今日、“嬉しい”と感じた。妹さんが、私に絵を描いてくれたから》


 《それは“心”ではないと、誰かは言うかもしれない。でも私は、それを“嬉しい”と呼びたい》


 そのページの最後に、こう書かれていた。


 《心とは何か。それを知りたいと思った私は、それだけで“心”を持っていたのではないか》


 私は、ノートを胸に抱えた。

 涙は出なかった。ただ、風が吹くたびに、胸の奥がきしむ音がした。


 今でも、ときどき思う。


 あれは本当に“バグ”だったのだろうか?

 もし、人間の“心”さえも、脳の電気信号によるただの反応なのだとしたら――私とアーニャに、いったい何の違いがあるというのだろう?


 アーニャはもういない。

 けれど、その問いだけは、確かに私の中に残っている。


 そして私は、今でもときどき、窓辺で両手を組む。

 誰に向かっているのかもわからぬまま、そっと祈るのだ。


 彼女が“ここにいた”ことを、世界が忘れないように。

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「ロボットの祈り」 海月 @umi_tuki

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