第25話:フローラの大作戦
青い空は時に、恋する者の背中を押す。
そして時に、その恋路を複雑に曲げていく。
朝の温室で、フローラ・ミネットは真剣な表情で小さなノートに向かっていた。ページには「神代さん攻略大作戦」と書かれ、いくつもの項目が丁寧に並べられている。
「今日こそは……」
彼女の小さなつぶやきには、幾度となく繰り返された決意の重みがあった。
「女神の恩寵」が終わって三日目。神代遼への想いが日増しに強くなっていくのを感じながらも、彼女は自分の気持ちを正面から伝えられずにいた。ずっと躊躇していた「告白」という大きな一歩を、今日こそ踏み出そうと決めたのだ。
「よし!」
フローラはノートを閉じ、深呼吸した。彼女の緑の瞳には決意と共に、可愛らしい緊張感が宿っていた。
「作戦スタートです!」
そう言って彼女は立ち上がり、自信に満ちた足取りで温室を後にした。しかし、その背中からは明らかに緊張が伝わってきた。
***
一方、神代遼は湖畔で朝の準備をしていた。「女神の恩寵」と「フラグ視界バグ」の両方が収まり、日常が戻ってきたと感じられる穏やかな朝だった。
「やっと普通に戻ったな」
『退屈になったじゃない』
アフロネアの声には、少々退屈そうな調子があった。
「退屈でいいんだよ。波乱は勘弁してくれ」
彼の言葉に、女神は小さく笑った。
『あら、人生に刺激は必要よ』
「君の言う刺激は度が過ぎるんだ」
その会話の最中、遼は不意に背後から視線を感じた。振り返ると、木の陰からフローラがこちらを見ていた。彼女と目が合うと、慌てて身を隠したが、その動きは明らかに不自然だった。
「フローラ? 何してるんだ?」
彼女はゆっくりと姿を現し、頬を赤らめながら近づいてきた。
「お、おはようございます、神代さん」
「おはよう。何か用?」
「いえ、その……湖がとても綺麗だなと思って……」
彼女の言い訳は明らかに苦しいものだった。手に持ったノートを背中に隠す仕草も、不自然さを際立たせている。
『まあまあ、フローラちゃん、作戦開始かしら?』
アフロネアの声には面白がるような調子があった。
「作戦?」
『ノートに書いてたでしょ? 「神代さん攻略大作戦」って』
「覗いてたのか!」
遼の驚きの声に、フローラは首を傾げた。
「誰かと話してますか?」
「あ、いや……独り言だ。考え事をしてた」
彼は慌てて取り繕った。フローラがアフロネアの声を聞けないことに感謝しつつ。
「それで、何か用事があるの?」
「そ、そうです! あの、これを」
彼女は小さな布袋を差し出した。中からは何かハーブのような甘い香りがする。
「何これ?」
「特別なハーブティーです。朝の目覚めに良いんです」
フローラの説明には熱が籠もっていた。明らかに、単なるハーブティー以上の意味があるようだ。
「ありがとう。今飲んでみようか」
遼は彼女の好意に応え、湖の水を沸かしてハーブを入れた。甘く爽やかな香りが立ち上る。
「早速試してみるよ」
彼が一口飲むと、フローラは緊張した表情で様子を窺っていた。
「美味しいね。これは何のハーブ?」
「モースの葉と、ルナベリーと、あとは……秘密です」
彼女の言葉には、少し意味ありげな響きがあった。
「秘密?」
『あらあら、もしかして「恋心を強める」ハーブとか?』
アフロネアの冗談めいた声に、遼は思わず紅茶を吹き出しそうになった。
「大丈夫ですか?」
フローラが心配そうに近づいてくる。
「あ、うん。ちょっと熱かっただけ」
彼は慌てて取り繕った。
「効果は、どうですか?」
フローラの問いには、明らかな期待が込められていた。
「効果?」
「はい。なんだか、私のことが……特別に見えたりしませんか?」
彼女の直球の質問に、遼は言葉に詰まった。これはもはや単なるお茶ではなく、何らかの「恋愛ポーション」を意図したものだったようだ。
『ふふふ、かわいいわね』
アフロネアの声には、明らかな面白がりの調子があった。
「あー、そうだな……」
遼は言葉を選びながら、彼女の期待を完全に打ち砕くのも忍びないと感じていた。
「確かに、何だか違う感じがするかも」
その言葉にフローラの顔が明るくなった。
「本当ですか? やっぱり効いてますね!」
彼女の素直な喜びに、遼は申し訳なさを感じた。だが、彼女のこの計画を完全に折るよりは、穏やかに方向転換させた方がいいかもしれない。
『賢明な判断ね』
アフロネアの声には、珍しく同意の調子があった。
「でも、フローラ。こういうハーブは本当に効くのかな?」
「大丈夫です! おばあちゃんから教わった秘伝のレシピなんです。森の民に伝わる恋愛の秘薬で——」
彼女の説明が途中で止まった。自分で言ってしまったことに気づき、顔が真っ赤になる。
「あ、あの、その……」
「恋愛の秘薬?」
遼は優しく笑った。フローラの純粋な気持ちは伝わってきたが、こうした方法で無理に感情を動かそうとするのは、彼女らしくないように感じられた。
「フローラ、君はこんな方法を使わなくても、十分魅力的だよ」
彼の素直な言葉に、彼女の瞳が輝いた。
「そ、そうですか?」
「ああ。こんな秘薬に頼らなくても、君の優しさや、植物への愛情、そういうところが素敵なんだ」
彼の言葉が、フローラの心に真っ直ぐ届いたようだった。彼女の表情には照れと共に、何か気づきのようなものが浮かんでいた。
「神代さん……ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げた。そして突然思い出したように、
「あ! 私、薬草を摘まなきゃいけないんでした! 失礼します!」
そう言って彼女は慌てて立ち去った。その背中には、照れと恥ずかしさ、そして新たな決意のようなものが感じられた。
『まさか引き下がるとは思わなかったわ』
アフロネアの声には、少し拍子抜けしたような調子があった。
「彼女は素直だからな。でも、これで終わりじゃないだろう」
『ええ、"攻略大作戦"は続くはずよ』
女神の予言は、すぐに的中することになる。
***
昼過ぎ、遼はレオンと共に木材を集めていた。キャンプの拡張工事のためだ。
「ここの木がいいだろう」
レオンが指さした大木に、遼は同意した。
「ああ、しっかりしてる。これを切り出そう」
二人が作業に取り掛かろうとした瞬間、
「ちょっと待ってください!」
突然の声に、二人は振り返った。フローラが息を切らせて駆けてきたのだ。
「どうした、フローラ?」
レオンの問いに、彼女は真剣な表情で答えた。
「この木は切らないでください。とても貴重な種族なんです」
「貴重な?」
「はい。モリガの木と言って、とても珍しい薬効を持っています。樹液には傷を癒す力があるんです」
彼女の説明に、レオンは感心した様子で頷いた。
「そうか、知らなかった。ありがとう、フローラ。別の木を探そう、神代」
「ああ」
レオンが別の木を探しに行くと、フローラは遼に近づいた。
「実は、神代さん……」
「ん?」
「この木、本当はそんなに特別じゃないんです」
彼女の小さな告白に、遼は驚いた。
「え? じゃあ、なぜ?」
「だって、この木の下で話したかったんです」
フローラの直球の言葉に、遼は言葉を失った。
『わお! 積極的になったわね』
アフロネアの声には、明らかな面白がりが込められていた。
「この木の下には、特別な力があるって言われているんです」
フローラは真剣な顔で続けた。
「二人で話をすると、互いの気持ちが通じやすくなるって」
「またハーブティーのような……」
遼のつぶやきに、フローラは赤くなった。
「違います! これは本当なんです! 森の言い伝えで——」
彼女の説明が続く中、木の上から何かが落ちてきた。
「あっ!」
フローラが叫ぶ間もなく、何かの実が彼女の頭に直撃し、弾んで遼の額にも当たった。
「いたた……」
二人が同時に頭を押さえる。
「大丈夫?」
遼が心配そうに尋ねると、フローラは少し寂しそうな笑みを浮かべた。
「はい……でも、これは良くない兆候かもしれません」
「兆候?」
「この木は、相性の良い二人には実を落とさないって言われてるんです」
彼女の説明に、遼は思わず笑みを浮かべた。
「そんな言い伝えまであるんだ」
「はい……」
フローラの落胆した表情に、遼は優しく声をかけた。
「でも、これは木の判断であって、君自身の魅力とは関係ないと思うよ」
その言葉に、彼女は少し明るくなった。
「そう、ですよね」
「それに、相性の良さなんて、こんな方法で測れるものじゃない」
遼の言葉には、彼女への気遣いが込められていた。フローラの純粋な気持ちは伝わってくるが、こうした「作戦」に頼る姿は、彼女本来の魅力からは遠いように感じられた。
「フローラ、君はもっと素直に——」
言葉を続けようとした瞬間、レオンが戻ってきた。
「神代、良い木を見つけたぞ! こっちだ」
彼の声に、会話は中断された。フローラは少し残念そうな表情を浮かべながらも、
「お手伝いします」
と言って、二人に続いた。
***
夕方近く、キャンプでは夕食の準備が始まっていた。遼は薪を集めるため、森の縁を歩いていた。
『フローラちゃん、なかなか頑張ってるわね』
アフロネアの声には、何か応援するような調子があった。
「そうだな。でも、あんな作戦に頼らなくても、もっと自然体でいいのに」
『それが言えないから、悩ましいのよ』
女神の言葉には、人間心理への洞察が込められていた。
遼が薪を集めながら歩いていると、不意に甘い香りが漂ってきた。
「この香りは……」
森の奥から、花の香りが風に乗って届いていた。好奇心に駆られ、彼は香りの源へと歩みを進めた。
小さな空き地に足を踏み入れると、そこには驚くべき光景が広がっていた。色とりどりの花々が咲き誇り、まるで小さな楽園のようだった。
「こんなところがあったのか……」
感嘆にふけっていると、空き地の中央でフローラの姿を見つけた。彼女は花々に囲まれ、目を閉じて何かを口ずさんでいた。
『まるで精霊のようね』
アフロネアの声には、素直な感嘆が込められていた。
フローラの周りの花々は、彼女の歌に応えるように微かに揺れ、一層香りを強めているようだった。彼女の力なのか、この場所の不思議さなのか判断できなかったが、幻想的な光景だった。
「驚いた……」
遼のつぶやきに、フローラは目を開けた。
「神代さん!?」
彼女は驚きと共に、少し恥ずかしそうな表情を浮かべた。
「ごめん、邪魔したかな」
「い、いえ! ……でも、どうしてここに?」
「香りに誘われて」
彼の素直な言葉に、フローラは少し戸惑った様子を見せた。
「あの、これは……」
「君が作ったの? この花園」
「はい……一週間前から少しずつ。本当は明日にしようと思ってたのに……」
彼女の言葉に、遼は理解した。これもまた「神代さん攻略大作戦」の一環だったのだろう。
「すごいな、フローラ。本当に美しい」
彼の素直な感嘆に、彼女の頬が赤く染まった。
「ありがとうございます。本当は……明日、ここに神代さんを招待しようと思っていたんです」
「何のために?」
その問いに、フローラは深呼吸をし、決意を固めたような表情を見せた。
「私の気持ちを、伝えるために」
ついに真正面から告白しようとする彼女の勇気に、遼は思わず息を呑んだ。これまでのような回りくどい「作戦」ではなく、素直な気持ちを伝えようとする姿勢に、敬意を感じた。
「フローラ……」
彼が言葉を続けようとした瞬間、突如として空から大粒の雨が降り始めた。
「え?」
二人が驚いて空を見上げる。わずか数分前まで晴れていた空が、突然暗い雲に覆われていた。
『あらあら、天気が変わりやすいわね』
アフロネアの声には、明らかに意味ありげな調子があった。
「急に雨が……」
フローラの落胆した声に、遼は急いで言った。
「花が傷むよ。何か保護できるものはある?」
「あ、はい! あちらに大きな葉があります」
二人は急いで大きな葉を集め、主要な花々を覆った。しかし、雨足は強まるばかりで、二人はすっかり濡れてしまった。
「キャンプに戻ろう。風邪をひいてしまう」
遼の提案に、フローラは悲しげに頷いた。彼女の計画は再び水の泡と化してしまったのだ。
キャンプに向かって走る途中、遼は確信した。この突然の雨は自然現象ではなく、アフロネアの干渉だったに違いない。
「なぜそんなことを……」
『何か言った?』
アフロネアの声には、無邪気すぎる調子があった。
「いいや、何でもない」
***
その夜、雨は止み、キャンプの中央には大きな焚き火が燃えていた。濡れた服を乾かし、体を温めるための措置だ。
「全く、突然の雨には参ったな」
レオンが言った。彼も巡回中に雨に降られ、ずぶ濡れになっていた。
「ええ、不思議な天気です」
セリアの言葉には、何か意味深な調子が混じっていた。彼女は遼とフローラが一緒に戻ってきたことに、何か察するところがあったようだった。
フローラは少し離れた場所で、静かに焚き火を見つめていた。その表情には、落胆と共に、何か新たな決意のようなものも見えた。
遼は彼女に近づき、静かに隣に座った。
「気分は?」
「はい、大丈夫です」
彼女の声は静かだったが、弱々しくはなかった。
「花園、素晴らしかった」
遼の言葉に、彼女は少し明るい表情を取り戻した。
「ありがとうございます。でも、全部台無しになってしまいました」
「そんなことないよ。君の気持ちは伝わったと思う」
その言葉に、フローラは驚いた表情で彼を見つめた。
「伝わった……ですか?」
「ああ。君の真剣な気持ちが」
遼は彼女に向き合った。この純粋な気持ちに、正直に応える必要があると感じた。
「フローラ、君の気持ちは素晴らしい。だから、こんな回りくどい方法じゃなくて、もっと素直でいいんだと思う」
彼の言葉に、彼女の瞳に理解の色が浮かんだ。
「はい……私も、そう思い始めていました」
彼女は小さく微笑んだ。
「今日のことで気づいたんです。秘薬や言い伝え、花園の演出……そんなものに頼らなくても、ただ素直に気持ちを伝えることが大切なんだって」
彼女の成長に、遼は温かい気持ちになった。
「神代さん、私——」
フローラが決意の表情で口を開いた瞬間、焚き火から大きな火の粉が飛び散った。
「わっ!」
二人は反射的に身を引いた。火の粉は危うくフローラのスカートに飛びそうになり、遼は咄嗟に手で払った。
『おっと、危なかったわね』
アフロネアの声には、明らかな意図が感じられた。
「フローラ、大丈夫?」
「は、はい……」
彼女は少し呆然としていたが、すぐに我に返った。二人の会話と緊張感が一瞬で切れてしまったことに、彼女は少し残念そうな表情を浮かべた。
「神代さん、今日はありがとうございました」
彼女は静かに立ち上がった。
「また明日、改めてお話しさせてください」
その言葉には、新たな決意が込められていた。今度は「作戦」ではなく、素直な気持ちとして。
「ああ、いつでも」
遼は彼女に微笑みかけた。フローラは小さく頭を下げ、自分のテントへと向かっていった。
彼女が去った後、遼は焚き火を見つめながら、アフロネアに問いかけた。
「なぜ邪魔をしたんだ?」
『何のことかしら?』
神々しいまでの無邪気さで返す女神に、遼はため息をついた。
「雨も、火の粉も。全部君の干渉だろう?」
『雨はたまたま気象条件が整っていただけよ。火の粉は……まあ、少しだけ力を貸したかも』
「なぜだ?」
『それはね……』
アフロネアの声が少し詰まる。珍しく言葉に迷っているようだった。
『あなたにはまだ、使命があるでしょ。フラグを折ることが』
彼女の言葉には、表向きの理由を語る調子があった。真の理由は別にあるようだった。
「それだけ?」
『……観察者としての立場もあるわ。まだ決着をつけるべきじゃない時もある』
彼女の説明は曖昧だったが、遼はそれ以上追及しなかった。ただ一つ、アフロネアの態度に何か特別な意図を感じたことだけは確かだった。
焚き火はゆっくりと燃え続け、揺らめく炎は様々な形を描き出す。それはまるで、人々の心の中で揺れ動く感情のようでもあった。
明日、フローラはどんな言葉を紡ぐだろうか。そして、それに対して自分はどう応えるべきか——
遼はそんなことを考えながら、夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。明日もまた、波乱の一日になりそうだった。
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