第19話:恋愛と救済の狭間で

 朝露が枝から滴り落ちる森の中、神代遼は一人、考え事をしていた。白樺の幹に背を預け、彼は左腕の腕輪に浮かぶ「12.5」という数字を見つめる。青い光が朝の霧に溶け込み、幻想的な光景を作り出していた。


 昨晩のセリアとの会話が、遼の心に深い痕跡を残している。「恋愛フラグの向こうには誰かの心がある」という彼女の言葉が、繰り返し彼の脳裏に浮かぶ。


「そろそろ哲学的になってきたな、俺」


 自嘲気味につぶやいた遼の耳に、女神の甘い声が降り注ぐ。


『まあ、珍しいことを言うのね。神代が哲学的だなんて』


 アフロネアの声には、からかいの色が混じっていた。しかし、その調子はいつもより優しく、まるで本当の友人のように感じられた。


「セリアの話を聞いて、考えさせられたんだ」


『そうね。二つの魂を宿す少女の物語は、私でも驚いたわ』


 アフロネアの声には、珍しく感心の色が混じっていた。


「それで考えたんだけど……今日一日、フラグを折るのをやめてみようと思う」


 その宣言に、一瞬の沈黙が訪れた。そして——


『はあぁ!? 何言ってるのよ!?』


 女神の叫びに、近くの鳥たちが驚いて飛び立った。遼は思わず耳を塞ぐが、頭の中に直接響く声から逃れることはできない。


「ち、ちょっと実験したいんだよ。フラグを折らないとどうなるのか」


『あなた、私をからかってるの? それとも本気で馬鹿なの?』


 アフロネアの声には、明らかな動揺が含まれていた。彼女の怒りと焦りが、風のように遼の意識を吹き抜ける。


「本気だよ。セリアの話を聞いて、フラグを折ることの意味をもっと深く考えたいんだ」


 遼の真摯な気持ちが伝わったのか、アフロネアは大きくため息をついた。


『まったく……。あの子の話を聞いたからって、そんな実験するなんて』


 女神の声は諦めに変わりつつあった。


『いいわよ、一日だけなら。でも、結果には責任取ってよね?』


 その言葉には、何か含みがあるようだったが、遼はそれを深く考えなかった。彼は立ち上がり、キャンプへと向かう。今日一日、彼は「恋愛フラグを折らない男」として過ごす決意をしたのだ。


 ***


 朝食の時間、キャンプは穏やかな雰囲気に包まれていた。フローラが調理した森の実と木の実のポリッジは、素朴ながらも栄養価が高く、全員の体力を回復させる。


「おはよう、神代」


 ラティアの声に振り返ると、彼女はいつもより柔らかな表情を浮かべていた。朝の光を背に立つ彼女の姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのような美しさがあった。


「おはよう、ラティア」


 挨拶を交わした瞬間、腕輪が震える。「フラグ検知」——しかし今日は、それに応じない。遼は警告を無視し、彼女と自然な会話を続けた。


「よく眠れた? この森は空気が違うから、私はいつもより熟睡できたわ」


「ああ、僕も。不思議な森だけど、安らぎがあるよね」


 二人の会話は、これまでにない自然さで流れていく。遼がフラグを折ろうとしないため、会話に不自然な途切れや緊張感がない。その結果、ラティアの表情はより明るく、彼女の笑顔はより自然になっていった。


『おやおや、こうもスムーズになるとは』


 アフロネアの皮肉めいた声が、遼の頭の中で響く。


「だろ? これが普通の会話だよ」


『でも、彼女のフラグはどんどん強くなってるわよ。折らないことのリスクを理解してる?』


 その問いには答えず、遼はポリッジを口に運んだ。


 朝食の席では、他の仲間たちとの会話も同様に自然に流れた。フローラは彼に優しく微笑みかけ、レオンとは昨日の偵察についての詳細を話し合う。すべてが心地よく、穏やかだった。


 しかし、遼の腕輪は絶え間なく震えていた。フラグ検知の警告が次々と届くが、彼はそれらをすべて無視した。その結果、キャンプの雰囲気には微妙な変化が生まれ始めていた。


 笑い声が少し大きすぎる。

 視線の交わりが少し長すぎる。

 感情の表現が少し派手すぎる。


 それらの変化は、「折らないフラグ」が溜まっていくことで生じる微妙な歪みのようだった。


 レオンが今日の活動計画を発表する頃には、キャンプの全体に不思議な高揚感が漂っていた。


「今日は三つのチームに分かれよう。探索隊、食料調達隊、キャンプ整備隊だ」


 レオンの指示に、全員が熱心に反応する。まるでどのチームに入るかが、人生を左右する大事なことであるかのように。


「神代は探索隊を頼む。フローラとエリオットと一緒に、西の湖を調査してくれ」


 その指示に、フローラの頬が一瞬赤く染まり、エリオットも妙に興奮した様子を見せる。遼は彼らの反応に違和感を覚えながらも、頷いて受け入れた。


『フラグがたまると、感情が増幅されるのよ』


 アフロネアの説明に、遼は内心で頷いた。フラグを折ることで発散されるはずのエネルギーが、今日は溜まり続けている。それが周囲の雰囲気を微妙に変えていくのだ。


「大丈夫かな、これ……」


『さあ? 実験は貴方が望んだことでしょ?』


 アフロネアの声には、意地悪な楽しさが混じっていた。


 ***


 西の湖へ向かう探索隊。遼、フローラ、エリオットの三人は、森の中を進んでいた。本来なら穏やかな探索のはずだったが、雰囲気はどことなく妙なものとなっていた。


 フローラは時折、不自然なほど明るく笑い、木々や花々について熱心に説明する。エリオットもまた、必要以上に張り切り、木の枝を払いのけて道を作ろうとして汗だくになっていた。


「ね、神代さん、この花見てください! 森の精霊が宿るという伝説があるんですよ!」


 フローラの声は、いつもより少し高く、その緑の瞳は興奮で輝いていた。


「ああ、きれいだね」


 遼の控えめな返事にも、彼女は大きく喜び、次々と花や草について語り続ける。


「神代さん、先に行って地形を確認してきます!」


 エリオットの声も、必要以上に元気いっぱいだった。彼は返事を待たずに前方へと走り出した。


『これが感情の増幅よ。フラグによるエネルギーが、通常より強く反応させるの』


 アフロネアの分析に、遼は不安を覚え始めていた。このままフラグを折らないでいると、さらにどんな変化が起きるのだろうか。


 森の中を進むにつれ、空の色が微妙に変わり始めていることに遼は気づいた。朝の青空に、微かな紫色の色調が混じっているのだ。それは神域の影響——女神の力が現実世界に漏れ出す兆候だった。


『ほうほう、もう始まってるわね』


 アフロネアの声には、科学者のような冷静な観察の色が混じっていた。


「何が始まってるんだ?」


『神域化よ。フラグが折られずに溜まると、その力が現実世界を歪め始めるの。まあ、小規模だけど』


 その説明に、遼は眉をひそめた。彼の「実験」は、予想外の展開を招きつつあった。


 三人が湖に到達したとき、その異変はさらに明らかになっていた。湖面は通常ではあり得ないほど鮮やかな青色に輝き、周囲の植物は過剰に鮮やかな緑色に染まっている。まるで全てが色彩フィルターを通して見ているかのようだった。


「きれい……」


 フローラの感嘆の声には、通常の驚きを超えた陶酔感があった。エリオットも同様に、湖の美しさに圧倒されたような表情を浮かべている。


 しかし、遼の目には、その美しさが危うさを含んでいるように映った。神域の影響が強まりつつある証拠だ。


『さあ、どうする? まだフラグを折らないつもり?』


 アフロネアの問いかけに、遼は一瞬考え込んだ。確かに状況は予想外の方向に進んでいるが、彼はこの実験を完遂したかった。


「まだ続ける。予想外の展開だけど、もう少し見てみたい」


『あなたの選択よ。でも、責任は取ってね』


 女神の言葉には、半ば諦めと半ば期待が混じっていた。


 ***


 正午、探索隊はキャンプに戻ってきた。そこで彼らを迎えたのは、さらに異変の進んだ光景だった。


 キャンプを取り囲む木々は異様に巨大化し、まるで童話の世界のような雰囲気を醸し出していた。周囲の空気は微かに紫がかり、生徒たちの動きも少しばかり緩慢になっていた。それはまるで夢の中を歩いているかのようだった。


「これは……」


 レオンが遼に近づいてきた。彼の表情は憂慮に満ちていたが、どこか夢見心地でもあった。


「おかしなことが起きている。空の色が変わり、皆の行動も普段と違う」


 レオンの観察は鋭かったが、彼自身もその影響から完全に逃れられてはいないようだった。彼の言葉にも、不自然な熱が込められていた。


「何か知っているか?」


 その問いに、遼は言葉を選びながら答えた。


「神域の影響かもしれない。この世界には、俺たちの知らない力が働いているんだ」


 その説明に、レオンは納得したように頷いた。しかし、彼の瞳には通常ではあり得ない輝きがあった。まるで恋に落ちた人のような、夢見るような輝きだ。


 キャンプ内を見渡すと、他の仲間たちも同様の状態だった。ラティアは必要以上に真剣な表情で料理を作り、セリアは虹色の光を放ちながら薬草を調合している。全員が「何か」に取り憑かれたように、過剰な集中力で日常の活動に取り組んでいた。


『面白くなってきたわね!』


 アフロネアの声が、茶化すように響く。


『これが折られないフラグの影響よ。感情が増幅され、現実が歪み、そして——幻想が形を取り始める』


 その言葉通り、キャンプの片隅に、霧のような形のない何かが現れ始めていた。それは人の形を模したり、動物のようになったり、時には単なる光の塊のようになったりする不定形の存在だった。


「あれは……」


『人々の想いが形になったものよ。折られないフラグから漏れ出すエネルギーが、思念を具現化させるの』


 アフロネアの説明に、遼は驚きの表情を浮かべた。彼の「実験」は、予想をはるかに超えた結果をもたらしつつあった。


 昼食の席では、さらに異変が進行していた。料理の色彩が異様に鮮やかになり、味も不自然なほど濃厚だった。会話は必要以上に熱をおび、笑い声は高く、時には涙さえ伴うほどの過剰反応が見られた。


「神代さん」


 セリアが静かに近づいてきた。彼女もまた、異変の影響を受けているようだったが、他の仲間たちと比べると、まだ冷静さを保っていた。


「気づいていますよね? この異変に」


 彼女の言葉に、遼は無言で頷いた。


「これは……フラグのエネルギーが溢れ出している状態です。恋愛感情が増幅され、現実を侵食している」


 セリアの分析は、アフロネアの説明と一致していた。


「君も気づいていたんだね」


「ええ。私はユーノス様の使いですから。神域の変化には敏感なんです」


 彼女の言葉には、警告の色が含まれていた。


「このままでは、さらに状況が悪化します。幻影が増え、感情がさらに増幅され、やがて現実そのものが歪む可能性も」


 その警告に、遼は改めて自分の「実験」の危険性を認識した。しかし同時に、彼はこの現象を最後まで見届けたいという好奇心も感じていた。


「もう少し様子を見てもいいかな」


 その言葉に、セリアは驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みに戻した。


「あなたの選択ですが……気をつけてください」


 彼女の忠告を胸に、遼は午後の活動に向かった。キャンプでは、レオンの指示により「家づくり」が始まっていた。森の中に恒久的な住処を作るための準備だ。


 しかし、その作業も異変の影響を受け、妙な熱気を帯びていた。木を運ぶ者は必要以上に力んで汗を流し、設計を考える者は夢想的な城のような建物を描き始める。


 遼も木材運びを手伝いながら、周囲の変化を観察していた。夕方に近づくにつれ、空の紫がかった色はさらに濃くなり、幻影の数も増えていった。


「神代、気分は悪くないか?」


 レオンが心配そうに声をかけてきた。彼の顔には異常な汗が浮かんでおり、目の焦点も少し合っていないように見えた。


「俺なら大丈夫。むしろ君の方が心配だよ」


「そうか? 俺は特に……変わった感じはしないんだが……」


 レオンの言葉は少し曖昧で、彼自身も自分の状態に気づいていないようだった。


 夕方、異変はさらに進んでいた。空全体が紫色に染まり、木々の輪郭が揺らぎ始める。キャンプ内の幻影は増え続け、霧のような存在が人々の周りを漂うようになった。


 そんな中、突然、遼の目の前に一つの幻影が形を取り始めた。それは次第に人の形になり、やがて——女性の姿となった。


 透き通るような姿で、現実とは違う次元に属しているような存在。その顔はぼんやりとしていたが、どこかアフロネアに似た印象を与えた。


『私の思念の一部が形になったものね……』


 アフロネアの声が、驚きと共に遼の心に届く。


「君の?」


『ええ。神域が強まった状態では、神々の思念も具現化しやすくなるの』


 幻影の女性は、静かに遼を見つめていた。彼女は何も語らないが、その存在自体が「メッセージ」のようだった。


「何を伝えようとしているんだ?」


『わからないわ。私自身の無意識かもしれないし、あなたの想像が形になったのかもしれない』


 アフロネアの声には、珍しく困惑が混じっていた。


 幻影はしばらく遼を見つめた後、徐々に霧のように消えていった。残されたのは、微かな甘い香りだけ。


「これは……もう限界かもしれないな」


 遼はつぶやいた。実験を通じて多くを学んだが、これ以上続けることは危険だろう。神域の影響はあまりにも強く、今後どのような事態が生じるか予測できない。


『そうね。実験は十分かしら?』


 アフロネアの声には、からかいの調子が戻っていた。


「ああ。明日からは元の「フラグを折る」生活に戻るよ」


 その宣言に、アフロネアは満足げな声を上げた。


『賢明な判断ね。この実験は、あなたにとっても私にとっても、貴重な学びになったわ』


 遼は深く頷き、夕暮れのキャンプを見渡した。仲間たちはまだ異変の影響下にあり、皆が妙に高揚した状態で夕食の準備などを進めている。空は完全に紫色に染まり、森全体が魔法にかけられたような雰囲気に包まれていた。


「明日、元に戻るかな?」


『ええ。フラグを折り始めれば、エネルギーのバランスが戻るわ。でも、今日の体験は皆の記憶に残るわね……変わった夢として』


 アフロネアの説明に、遼は安堵の表情を浮かべた。彼の「実験」は終わりを告げ、明日からは再び「フラグブレイカー」としての日常が始まる。


 しかし、この一日の体験は彼の心に深い印象を残した。フラグを折ることの意味、感情のエネルギー、そして神域の力——それらすべてを新たな視点で理解する機会となった。


 紫色の夕焼けの下、遼は静かに空を見上げた。


「選択肢は多いな、この世界には」


 その呟きには、新たな発見を得た者の満足感が込められていた。フラグを折る男は、今日という日を通じて、自分の役割をより深く理解したのだった。

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