第5話:癒し系は直視禁止です
島での生活が三日目を迎えた朝、神代遼は夜明けとともに目を覚ました。テントの外からは鳥のさえずりが聞こえ、木々を揺らす微風が朝の訪れを告げている。彼はそっと寝袋から抜け出し、まだ眠る同級生たちをよそに、キャンプの外へと足を運んだ。
朝霧の立ち込める森の縁で、遼は腕輪のディスプレイを確認した。ポイントは「15」のまま。ラティアのフラグを折ったことで得た僅かな余裕だ。
「ギフトを使うべきか……」
遼は考えた。島の生活は予想以上に厳しく、すでに備蓄の食料は底をつき始めていた。救助の見込みもない以上、女神のギフトに頼るしかないのだろう。
『おはよう。朝から真面目ね』
アフロネアの声が頭の中に響く。
「このままじゃ皆、飢えてしまうかもしれない。ギフトで何か助けになるものはある?」
『もちろんよ。現在のポイントでは、基本的な食料供給や簡易シェルターの設営が可能かしら』
遼は少し考え、決断した。
「食料を優先しよう。15ポイントで何が得られる?」
『保存食パッケージね。三日分くらいの食料よ。7ポイント消費するけど、いいかしら?』
「頼む」
腕輪が光り、ポイント表示が「8」に減少した。その代わり、遼の足元に大きな防水袋が出現した。中を確認すると、乾燥肉や保存パン、缶詰などが詰まっている。
「これで少しは持ちこたえられるだろう」
遼は満足げに頷いた。彼がキャンプに戻ろうとした瞬間、森の奥から微かな歌声が聞こえてきた。
澄んだ、まるで小鳥のような歌声。
好奇心に駆られた遼は、食料袋を抱えたまま、その声の方へと足を踏み入れた。木々の間を縫って進むと、清流が流れる小さな開けた場所に出た。そこには——
明るい栗色の髪を風になびかせ、薄緑の民族風ワンピースを纏った少女がいた。彼女は清流のほとりに腰を下ろし、水面に映る自分の姿を見つめながら、聞いたこともないような旋律を口ずさんでいる。その周りには小鳥や小動物たちが集まり、彼女の歌に聞き入っているように見えた。
頭に乗せられた花の冠が、朝日を浴びて輝いている。まるでおとぎ話から抜け出してきたような光景だった。
遼は思わず息を呑んだ。
その音に気づいたのか、少女はハッと顔を上げた。遼と目が合った瞬間、彼女は驚きの表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みに変わった。
「あ、おはようございます」
その声には、歌声と同じ澄んだ響きがあった。
「す、すまない。邪魔をしたみたいだ」
遼は思わず言葉を詰まらせた。少女は首を傾げ、相変わらず微笑みを絶やさない。
「いいえ、邪魔なんてとんでもないです。むしろ、お会いできて嬉しいです」
彼女はゆっくりと立ち上がり、遼の方へと歩み寄ってきた。近づくにつれ、花のような甘い香りが漂ってくる。少女は遼の目の前で立ち止まり、改めて微笑んだ。
「私、フローラ・ミネットです。あなたは……」
「神代遼だ」
フローラは嬉しそうに微笑み、小さく頭を下げた。彼女の仕草には、どこか自然の調和のような心地よさがあった。
その瞬間、遼の腕輪が微かに震えた。ディスプレイには「フラグ検知」の文字。
『あららー、この子はすごいわね。何もしてないのに、もうフラグが立ちかけてる』
アフロネアの声が頭の中で甘く囁く。
「神代さんも朝の散歩ですか?」
フローラの問いかけに、遼は我に返った。
「ああ、そうだな。それと、食料を少し調達してきたんだ」
遼は抱えていた食料袋を見せた。フローラは目を丸くして驚いた表情を見せる。
「わあ、すごいです! どうやって?」
「それは、その……拾った」
嘘をつくのは気が引けたが、女神のギフトについては説明できない。フローラは不思議そうに首を傾げたが、深く追及することはなかった。
「そうですか。皆さん、喜びますね」
彼女は再び微笑んだ。その笑顔には不思議な力があった。見ているだけで心が温かくなるような、純粋な明るさ。
遼は思わず見とれてしまった。
『あらあら、危険よ。彼女を直視し続けると、フラグがどんどん立っちゃうわ』
アフロネアの警告に、遼はハッとして視線を逸らした。
「そ、そろそろキャンプに戻ろうか」
「はい! 私も戻りますね」
フローラは嬉しそうに頷き、遼と並んで森の中を歩き始めた。小道を進む間、彼女は時折立ち止まっては、道端の草花を摘んだり、木の実を拾ったりしていた。
「これ、食べられる木の実ですよ。とても栄養があります」
彼女は摘み取った赤い実を遼に差し出した。
「君、こういうことに詳しいんだな」
フローラは嬉しそうに頷いた。
「はい、私の故郷は森に囲まれた村でしたから。植物や動物のことは少し分かるんです」
彼女の言葉には郷愁が滲んでいた。学園都市の生徒という設定なのに、故郷の森を語る——神々の設定した「記憶」なのだろうか、と遼は思った。
しかし、そんな疑問も彼女の穏やかな物腰に吹き飛ばされていく。フローラの存在そのものが、自然の優しさを体現しているかのようだった。
キャンプに戻る道すがら、フローラは様々な薬草や食べられる植物を見つけては説明してくれた。彼女の知識は豊富で、遼は思わず聞き入ってしまう。
「この葉っぱは煎じると熱を下げる効果があります。こっちの根は傷の消毒になりますよ」
話す彼女の横顔は穏やかで、時折差し込む朝日に照らされて輝いていた。
腕輪が再び震えた。「フラグ強化」の文字。
『もう何度目? この子、本当にフラグ製造機ね』
アフロネアの声には驚きと楽しさが混じっていた。
「神代さん? どうかしましたか?」
遼の様子に気づいたフローラが心配そうに顔を覗き込んできた。その距離の近さに、遼は思わず一歩後ずさった。
「な、なんでもない。大丈夫だ」
フローラは不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「そうですか。でしたら良かったです」
彼女はそう言って、再び道を歩き始めた。遼はため息をつき、彼女の後ろを歩く。
『あの子を見てるとポイントが稼げそうね。でも、折るタイミングは考えないとね』
アフロネアの言葉に、遼は複雑な気持ちになった。ラティアのフラグを折った時の罪悪感が蘇る。フローラのような純粋な少女の好意を踏みにじるなど、考えたくもなかった。
しかし、腕輪の「8」というポイント表示が、現実を突きつける。
キャンプが見えてきた頃、フローラが突然立ち止まった。
「あ、見てください!」
彼女が指差す先には、一羽の小鳥が地面に倒れていた。フローラは駆け寄り、そっと小鳥を手に取る。
「怪我してるみたい……」
彼女の表情に心配の色が浮かぶ。フローラは優しく小鳥を包み込むように両手で覆い、何かを囁き始めた。遼には聞き取れない言葉だったが、まるで祈りのようにも感じられた。
すると、不思議なことに、彼女の手から微かな緑の光が漏れ始めた。
「な、何をしてるんだ?」
遼が驚いて問いかけると、フローラは集中を途切れさせずに微笑んだ。
「大丈夫です、少しの魔法です……」
魔法——この異世界では当たり前のものなのかもしれない。フローラの手から光が消えると、彼女はそっと手を開いた。すると、先ほどまで弱っていた小鳥が元気に飛び立っていった。
「良かった……」
フローラはほっとしたように呟いた。その表情には純粋な喜びが浮かんでいた。
腕輪が激しく震えた。「フラグ確立」の表示。
『完璧ね! 癒し系キャラの典型的なフラグよ。さあ、折りなさい!』
アフロネアの声が急かす。しかし、遼は躊躇った。あまりにも純粋な善意の後で、それを踏みにじるのは——
「神代さん……あの」
フローラが恥ずかしそうに口を開いた。
「私、あなたのこと、前から気になってたんです」
彼女の頬が赤く染まる。典型的な告白の前触れ。
「もしよければ、また朝の散歩、一緒にしませんか?」
彼女の言葉は純粋で、嘘が一切混じっていなかった。遼は言葉を失った。このまま受け入れれば、フラグは完全に成立してしまう。ポイントが減り、ギフトも使えなくなる。かといって折れば——
遼は深呼吸をして、決断した。
「すまない、俺は……」
言葉に詰まった瞬間、腕輪が自動的に作動した。強い光が放たれ、その光はフローラを包み込んだ。
彼女の瞳が一瞬曇り、そして表情が変化する。先ほどまでの親密さは消え、どこか他人行儀な雰囲気になった。
「あの、何かお話していましたか?」
フローラの問いかけに、遼は戸惑いながらも応えた。
「いや、特に……」
「そうでしたか。あ、キャンプに着きましたね。私はこちらで」
彼女は軽く会釈をして、別の方向へと歩き始めた。さっきまでの親密さが嘘のように。
腕輪の表示を見ると、「フラグ破壊成功:+6ポイント」と表示され、ポイントは「14」になっていた。
『お見事! 今回は自動発動だったけど、ポイントはしっかり入ったわね』
アフロネアの声は満足げだったが、遼の胸には空虚さが広がっていた。フローラが去っていく背中を見つめながら、彼は溜息をついた。
「存在がポイント製造機かよ……」
遼は呟いた。彼女のような無垢な存在の好意を折り続けることができるのだろうか。心の中で、葛藤が深まっていく。
キャンプに戻った遼は、調達してきた食料を共同の場所に置いた。それを見た教師たちや生徒たちから称賛の声が上がる。
「神代、すごいじゃないか! どこで見つけた?」
「いやあ、森で偶然見つけたんだ」
白い嘘を重ねながら、遼は複雑な気持ちを隠した。
その日の午後、フローラは他の生徒たちと共に薬草集めをしていた。遼は意識的に彼女から距離を取り、キャンプの整備を手伝っていた。
ふと見ると、遠くからフローラが彼を見ていた。しかし、視線が合うと彼女はそそくさと目を逸らした。まるで見知らぬ人を見るような冷淡さ——アフロネアの力によって生まれた人工的な距離感だ。
『どう? フラグを折る仕事は』
アフロネアが尋ねてきた。
「最悪だよ」
遼は正直に答えた。
『でも、あなたのポイントは増えたわ。次のギフトも使えるわよ』
「……何があるんだ?」
『温泉生成なんてどう? 島での生活も少しは快適になるでしょ? 12ポイント消費するけど』
遼は少し考えてから頷いた。
「頼む」
腕輪のポイントは「2」に減少し、代わりに新たなギフトを得た。遼がキャンプから少し離れた場所で「温泉生成」のギフトを使うと、地面から湯気が立ち上り始め、徐々に天然温泉のような湯船が形成されていった。
その噂はすぐにキャンプ内に広まり、生徒たちの間に歓声が上がる。厳しい生活の中での小さな希望だった。
「これは凄い! どうなってるんだ?」
「神代、お前何か知ってるだろ?」
様々な声が飛び交う中、遼は適当に誤魔化した。「島の地熱が活発になったのかも」と。
夜になり、生徒たちは交代で温泉を利用し始めた。休む場所もなく、緊張の連続だった彼らの表情が、少しずつ和らいでいく。
遼も一人で温泉に浸かりながら、今日の出来事を振り返っていた。ラティアに続き、フローラのフラグも折った。ポイントは増えたが、心の中には確かな痛みが残っている。
『あなた、悩んでるわね』
アフロネアの声が静かに響いた。
「当たり前だ。誰かの好意を踏みにじることで稼いだポイントなんだから」
『でも、あなたのおかげで皆が救われているじゃない。この温泉にしても、食料にしても』
彼女の言葉には一理あった。しかし——
「犠牲にしてるものもある」
『そうね。恋愛は時に犠牲を伴うもの。でも、縁切りも恋愛のうちよ? だって、間違った相手とくっつくなんて、誰も幸せにならないでしょ?』
アフロネアの口癖めいた言葉に、遼は何も答えられなかった。
月明かりの下、湯気の立ち上る温泉に浸かりながら、遼は星空を見上げた。この奇妙な状況がいつまで続くのか。そして、自分はこの先もフラグを折り続けられるのか——そんな思いが彼の心を巡っていた。
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