第4話:ツンデレを折るのが一番キツい

 孤島に漂着して一日が経過した。


 砂浜から少し離れた森の縁に仮設キャンプが作られ、生徒たちは班ごとに簡易テントで夜を明かすことになった。教師たちの必死の采配と、幸いにも無事だった非常用の備蓄品のおかげで、最低限の生活基盤が整い始めていた。救助を待つ——それが全員の共通認識だった。


 だが、神代遼だけは知っていた。この島は「神域」であり、外部からの救助など来るはずがないことを。


「水の確保は何とかなりそうだが、食料は長くは持たないな……」


 遼はテントの前に座り、手元の腕輪を眺めていた。現在のポイントはまだ「10」のまま。昨日は混乱の中でフラグを折る機会すらなかった。今のところ、女神からのギフトを受け取る必要性も感じていないが、これから先、生き延びるためには必要になるだろう。


『どう? 一晩過ごして気分はどう?』


 アフロネアの声が頭の中に響いた。遼は周囲に誰もいないことを確認してから小声で返した。


「最悪だよ。皆が不安に震えてるのに、俺だけが真相を知ってるなんて……」


『でも、だからこそあなたが彼らを導く役目があるのよ。フラグを折ってポイントを稼ぎ、ギフトで生活を支えるの』


 遼は溜息をついた。アフロネアの言う通り、今は自分にできることをするしかない。彼は立ち上がり、キャンプ内を歩き始めた。各班がそれぞれの作業に取り組んでいる。水汲み、薪集め、テント修繕——皆が協力して事態に対処しようとしていた。


 ふと、遼の視界の端に見覚えのある金髪が入った。ラティア・ブランシュだ。彼女は一人で川辺に座り、何かを洗っているようだった。


『おや、チャンスよ』


 アフロネアの声が甘く囁く。遼は足を止め、彼女の方を見た。確かに昨日、腕輪が「フラグ検知」を示したのはラティアだった。


「行くべきなのか……」


『もちろんよ。フラグが立ったのなら、折らなきゃ』


 遼は深呼吸をして、川辺へと向かった。近づくにつれ、ラティアの姿がよく見えてくる。彼女は夏服の制服を手洗いしており、その仕草には気品が漂っていた。まるで高貴な作法で洗濯をしているかのようだ。


「手伝おうか?」


 声をかけると、ラティアは肩を強ばらせた。振り返った顔には、明らかな驚きと、それを隠そうとする気高さが混ざり合っていた。


「別に、一人でできるわ」


 そう言いながらも、彼女の青い瞳には微かな期待が浮かんでいるようにも見えた。典型的な「言っていることと心が違う」パターンだ。


「そうか。でも、二人でやった方が早いだろう」


 遼は言葉通り、川辺に腰を下ろし、自分のシャツも洗い始めた。彼が手数を省くために提案した洗濯の仕方は、恐らくエルフォニア貨族の洗濯作法とはかけ離れていたに違いない。ラティアは一瞬その簡易な挟み洗いに驚いたような表情を見せたが、すぐに視線を洗濯に戻した。


「……勝手にしなさい」


 二人の間に沈黙が流れる。遼はチラリとラティアの横顔を見た。端正な顔立ち、長いまつげ、そして時折風に揺れる金色の巻き髪。輝く青い瞳は、エルフォニアでも特に高貴とされる「サファイアの血統」の印だった。確かに、彼女はこの世界で生まれ持った優美な貨族だった。


『伝統的なツンデレね。典型的なフラグシチュエーションよ』


 アフロネアの声が頭の中で囁く。遼は内心で苦笑した。確かにこれは恋愛マンガやアニメでよく見るシーンだ。主人公と高飛車なヒロインが二人きりで過ごす時間——典型的な「恋の始まり」のシチュエーション。


「ところで、君はラティアって言ったよね?」


 遼は会話を始めようとした。ラティアは一瞬顔を上げ、また俯いた。


「ええ、ラティア・ブランシュよ。あなたは……神代、だったかしら」


「神代遼だ。よろしく」


 ラティアは小さく頷いた。沈黙が再び訪れたが、今度はそれほど居心地の悪いものではなかった。


「こんな状況になるなんて思わなかったわ」


 突然、ラティアが口を開いた。遼は彼女の方を見た。


「ええ、修学旅行が遭難劇になるなんて……皆、不安よね」


 その言葉には、自分自身の不安も含まれているようだった。強がりの裏に隠された弱さ——それがラティアの魅力の一つなのかもしれない、と遼は思った。


「大丈夫さ。何とかなる」


 遼は自然と励ましの言葉を口にしていた。アフロネアの計画だと知っていながらも、目の前の少女を安心させたいという気持ちが湧き上がっていた。


 ラティアは少し驚いたように遼を見つめた。


「ずいぶん自信があるのね」


「そうでもないさ。ただ、悲観してもしょうがないだろう?」


 遼の言葉にラティアは微かに微笑んだ。それは束の間の表情だったが、確かに彼女の表情が柔らかくなったのを遼は感じ取った。


 その瞬間、腕輪が微かに震えた。画面を見ると「フラグ強化」という表示が出ている。


『あらあら、フラグが強くなってるわ。これはいいチャンスよ』


 アフロネアの声が遼の頭の中で甘く響く。心の中で、遼は複雑な気持ちを抱いていた。フラグを折るのが自分の使命だと分かっていながらも、目の前の少女の心を傷つけることに躊躇いを感じていた。


「そ、そろそろ戻るわ」


 ラティアが立ち上がった。濡れた制服を絞りながら、彼女は川辺から離れようとした。その時、足を滑らせて転びそうになる。


「危ない!」


 咄嗟に遼は彼女の腕を掴んだ。ラティアの体が遼に寄りかかり、二人の距離が一気に縮まる。青い瞳と茶色の瞳が交錯した瞬間、時間が止まったかのようだった。


 腕輪が強く震えた。「フラグ確立」という表示が浮かび上がる。


『完璧なフラグよ! さあ、折りなさい!』


 アフロネアの声が急かす。遼は一瞬、どうすればいいのか迷った。ラティアの頬は赤く染まり、唇が微かに開いている。


「あ、あなた……手を……」


 ラティアがか細い声で言った。その声には明らかな動揺が含まれていた。


 遼は決断した。彼は突然ラティアの体を放し、わざと後ろに転んだ。


「うわっ!」


 遼は尻もちをつき、川の水が跳ねる。その姿があまりにも滑稽で、緊張感が一気に崩れた。


 ラティアは一瞬呆然としたあと、思わず吹き出した。


「あ、あはは! なんて不器用なの!」


 彼女の笑い声は、予想よりもずっと可愛らしかった。


 しかし——その瞬間、遼の腕から強い光が放たれた。腕輪が輝き、その光はラティアにも届いたように見えた。少女の目が一瞬曇り、そして表情が一変する。


「……こんなところで何してるんだろう、私」


 ラティアはまるで夢から覚めたように周囲を見回し、濡れた服を手に取った。


「あ、あの——」


 遼が声をかけようとすると、ラティアは冷たい視線を向けた。


「あなたと話すことなんてなかったはずよ。勘違いしないで」


 そう言い残し、彼女は颯爽と立ち去った。まるで先ほどまでの親密な雰囲気が嘘だったかのように。


 腕輪の表示を見ると、「フラグ破壊成功:+5ポイント」と表示されていた。


『おめでとう! 初めてのフラグ破壊、見事だったわ』


 アフロネアの声が頭の中で響く。しかし、遼の心は複雑だった。確かにポイントは増えた。しかし、それと引き換えに、ラティアの感情——たとえそれが一時的なものだったとしても——を踏みにじったような罪悪感が残る。


「あれが……フラグを折るということか」


 遼は濡れた体で川辺に座り込んだまま、遠ざかるラティアの背中を見つめていた。


『そうよ。これがあなたの仕事——恋愛フラグを折ること』


 アフロネアの声は満足げだったが、どこか哀愁も含まれているように感じられた。


「でも、彼女の気持ちは……」


『心配しないで。フラグが折れただけで、彼女自身に害はないわ。ただ、あなたへの一時的な好意が消えただけ』


 それは慰めになるはずだったが、遼には空虚に響いた。


 その夜、キャンプの焚き火を囲む生徒たちの輪の中で、遼はラティアの姿を見つけた。彼女は友人たちと談笑しており、遼の存在など全く気にしていないようだった。時折、彼女の澄んだ笑い声が聞こえてくる。


 遼は腕輪を見つめた。現在「15」ポイント。これで少しは生活が楽になるのだろうか。そして、これからも恋愛フラグを折り続ければ、ポイントは増え続ける。


 しかし、遼の心は晴れなかった。モテたいと願っていた自分が、モテるほど苦しむ立場になる皮肉。それだけでなく、誰かの好意を踏みにじることでしか生き延びられないという残酷な現実。


『さあ、これからよ』


 アフロネアの声が頭の中で優しく囁いた。


『恋愛フラグを折るだけの簡単なお仕事——ようやく本格始動ね』


 遼は黙って焚き火を見つめていた。炎の揺らめきが、これから待ち受ける波乱の日々を予感させるようだった。

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