君の手を離れる前に

西島渚

第1話

 その存在を思い出したのは、ついさっき、仕事から帰ってきて少し腐りかかったパンの香りを嗅いでいる時のことだった。そんな臭いがトリガーになってしまったことに謝罪の念はあるが、鼻腔を刺激する酸味と共に彼女の記憶を脳内が吸い込んでいく。あれは確か十年、いやそれ以上前のある夏の日の出来事で、私がこの家を買ったばかりのことだった。彼女はいつも私が執筆する部屋の窓を外から見上げていて、長い髪を煩わしく掻き分けながら人の群れを見るかのような目つきで日差しに耐えていた。そして、いつも決まった文句を吐き出す。

「ねえ!今日は何について書いているの?」

 私は決まってこう答えていた。

「昨日と変わらないさ」

「また変わらないの?少しの変化も、何もないの?」

「ああ、ないね」

「研究者って退屈なんだ。そんな様子じゃ旅立っちゃうよ!私の大事なコリーが!」

 コリー、一度の呼吸で思い出した記憶はそこまでだった。私は腐ったパンをゴミ箱に投げ入れてあの頃と同じ椅子に座り、同じ姿勢を取ってペンを握った。それがどういった効果があって、どういう動機で行ったかは分からない。何色かは忘れたが決まってワンピースを着ていて、いつも気怠げな表情をしていて、マクドナルドのチーズバーガーをスケートを滑りながら食べるような人だった。他人の顔を覚えることが得意だった私が、どうして閉じ込めていたのか!彼女はいつも口を開けば私のしがない研究とコリーについて話していた。

 コリーはインコだった。彼女が飼って言葉を教えていた白い羽毛と青い嘴が特徴的なインコだ。私は窓の外に目をやった。彼女はそこにいなかったが、また記憶が蘇ってくる。

「コリーはね世界で一番お利口さんよ。アインシュタインよりも頭が良くてどこかの神父よりも慈悲深くて、何より私を分かってくれるの。すごいと思わない?」

「インコという鳥は得てして、そういうものじゃないか」

「その中でも特別って言ってるの!あの子は檻の中じゃもったいない。すっごく賢くてよくできた子だから、世に放ってすばらしさを認めてもらうべきだわ。こんなお家は似合わない!小さすぎるもの」

 彼女はそう言って背後の自宅を指した。彼女の家は裕福でこの地区でも一番の豪邸だったにも関わらず、彼女はそれを拒否しコリーを野に放つというのだから呆れたものだ。あの時、私は確かペンを置いて自身が冠した研究のタイトルを見つめてからこう言ったはずだ。

「君は大切なものを自ら手放すというのかい?正気じゃない。ずっと一緒にいて、その短い命の終焉を見守ってあげるべきだ」

「そんなことしてもコリーは嬉しくない。いつも『ここから出して』って言うのよ」

「それは……、それは君の」

 あの日の私は言えなかった。人には人の、親には親の事情があるのだから。自らの研究を見つめながら彼女が最も大切なものを手放す日をじっと待っていると、想定よりも早くその時はやってきたのだ。次の日、彼女は空になった鳥籠を両手に抱えて私にこう言った。

「コリーは飛び立って行ったわ。私があの川の向こうの林の中でこの籠を開けてやると、ちょっと戸惑って最後にうんちをして離れて行ったわ。素晴らしい!私はあの羽ばたく音と光の中に消えていくコリーを一生忘れないわ」

「それで君は満足なのかい?本当に良かったと思っているのかい?」

「何度も同じことを言わせないで!私は本当に誇りに思っているわ、コリーは賢い子よ。私の希望も未来も乗せて遠くまで羽ばたいてくれるわ。私の代わりに」

「そうか」

 私は呟いて全く進んでいない研究を見つめた。そして息を吐き、彼女に向かって言った。

「これは研究ではない。私の小説なんだ。私は物語を書いている、誰もが幸せになる物語を。そこには君も住んでいる。君はこの世界で幸せになれるんだ」

 私の言葉に対して彼女がどう返事したか忘れてしまったが、確かに覚えているのは、彼女がコリーを手放したという林を超えた市街地の場末にある小さなバーのゴミ箱の上にコリーが羽を毟り取られて死んでいたということだけだ。

 彼女は気付けばこの街を離れてしまって向かいの豪邸は姿を消して大きな空き地になった。親はヒステリックな気質があり家を燃やしてしまった。彼女は養護施設に引き取られたとか、より金を持っている人間に引き取られたとか、色々な噂を聞いたが私にはどれもピンと来なかった。あの子はコリーをまだ抱えているような気がする。コリーはヒステリックな会話を真似て、それをなぜか信じ続ける彼女のシンメトリーな表情だけが私の脳裏には焼き付いている。

『君の手を離れる前に』

 とうとう、作品は完成しないまま十年の時が過ぎた。

「ここから出して、か」

 誰もかも、そんな風に泣いているのではないだろうか。私もコリーもこいつもあの子もきっと解放を望んでいる。ペンのインクは十分にあった。向かいの空き地には雑草が生い茂っていた。風に揺られても根を強く張っている。

 

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君の手を離れる前に 西島渚 @Nagisa_00

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