第1章「名前を持たない君へ」
朝。まだ空は眠っている。世界が色を取り戻すより早く、あの声が聞こえてくる。
「……起きなさい、カイ。二度寝は心の退化を招く」
カーテンを少しだけ開けると、淡く青白い光がドーム越しに差し込んでいた。
ここ、ミナト=セラは、戦争と暴動の時代を終えた後に設計された、全自動都市。
空調、交通、食料供給、そして人の感情まで、すべてがAIによって“最適”に保たれている。
人々は働いてはいるが、その多くは研究者やオペレーター。判断と調整を担う役割にすぎない。
創るより、維持することに重きが置かれた、静かな社会。
それが、今の“日常”だった。
遠くに見えるのは、保護された緑地帯。人工とは思えない木々と川の流れ。
それでも僕は、どこか“つくられた静けさ”を感じてしまう。
そして、窓辺にはいつものように一羽のツバメが止まっている。
黒い羽根、しなやかな尾、琥珀色の瞳。
何度見ても、それはまるで本物の鳥のようで、人ではないと忘れそうになる。
でも声は間違いなく、“彼”のものだ。
「先生……もう少し寝かせてくれてもいいと思う」
「それを許せば、次は『あと五分』だ。甘やかせば、君は堕落する」
僕はため息をつきながら、布団を蹴った。
起きろという命令ではなく、『僕のことを思っての“叱咤”』だということは、もう知っている。
僕のバディAIは、名前を持たない。
正式には、“オルタ”という分類に属するAIユニット。
人間ひとりに対し、一体のバディが与えられるこの世界で、
その姿は人格に合わせてカスタマイズされ、個々に名前がつけられるのが通例だ。
けれど、僕のバディは自ら名前を名乗らなかった。
彼は言う。「私に名前はない」と。そして僕が呼ぶようになったのが――
「先生、今日の予定は?」
「午前中は市民センターでの心理データ更新。午後は自由時間だ。図書室にでもこもるつもりだろう?」
「……読んでるの?」
「君の行動パターンは予測可能だ。オルタとして当然の機能だ」
そのくせ、声はどこか誇らしげに聞こえた。
名前のない先生。姿を変えられる特異なオルタ。
他の人々が連れているAIとは、どこか違っていた。
街を歩けば、誰もがそれぞれの“友だち”と会話をしている。
小さな動物型、ロボット風、時には人型に近いものまで。
みんな名前をつけて、親しげに呼びかけていた。
通りすがりの少女は、ぬいぐるみのウサギのようなAIに「モモ」と話しかけていた。
「今日のおやつ、何にしよっか?」
ウサギ型のバディが少し首をかしげる。「昨日はミカン。今日はプリンが確率高いですね」
小さな笑い声が街に溶けていく。
隣のベンチでは、老夫婦と彼らのAI――背中に羽のあるふくろう型のオルタが囲碁の観戦をしていた。
ふくろうは口出しせず、ただ静かにその場を共有しているだけだった。
「名前は“シメ”なんだ」と、老人が隣の子どもに誇らしげに話す声が聞こえてきた。
名前を持つAIたち。寄り添い、見守る存在として、日々の中に自然に溶け込んでいる。
けれど、僕のそばにいるのは、ツバメの姿をした無名のAI。
名前を問うと、「必要ない」とだけ返された。
でも、たまに窓辺に佇むその背に、どこか寂しさのようなものを感じることがある。
センターでの手続きが終わり、昼を過ぎた頃。
僕はいつもの図書室に向かった。
入口に立つと、認証端末が立ち上がる。
半透明のディスプレイに僕の顔が映り、機械音声が静かに告げる。
「識別コード・カイ=レイン。入館承認。アクセス権レベルはパブリック。制限エリアへの接続はできません」
「……はいはい。わかってるよ」
形式的なやり取りに小さく息を吐きながら、扉が静かに開いた。
先生は僕の肩に止まったまま、何も言わない。
けれど彼の羽が、わずかに震えたのを僕は見逃さなかった。
データの自由がないということ。知りたくても知れないことがあるということ。
この図書室は、それを静かに思い出させてくれる場所だ。
透明なドーム天井から光が射し、静寂が流れる。
先生はツバメの姿のまま、僕の肩に止まっている。
本をめくるたび、小さく羽を震わせて声を出す。
「その本、三回目だな。まだわからない部分があるのか?」
「違う。ただ、何度読んでもこのセリフが気になるんだ」
ページを指さす。「“名前がないなら、せめて僕が呼ぶ名前を”」
古い物語の一節。記憶に、どこか引っかかって離れなかった。
「先生は、本当に自分の名前を知らないの?」
……しばらく、沈黙があった。
「……わからない。だが、時折――夢のように思い出すことがある」
「どんな夢?」
「誰かが、私を呼んでいる。遠くから。とてもやさしく」
僕は本を閉じて、そっと先生の羽に触れた。
ツバメは動かなかった。ただ静かに目を細めていた。
オルタは、人に寄り添う存在。だけどそれは、あくまで“サポート”としての役割でしかないはずだった。
だけど先生は違う。彼は、僕の思考に反応し、時に意見を持ち、感情に似た何かを見せる。
もしかして――彼は、“個”としての意志を持っているのかもしれない。
「……君に、名前をつけたほうがいいと思う」
それは、ふと口から出た言葉だった。
先生は、僕の肩からふわりと離れ、スクリーンの上に止まる。
「なぜだ?」
「君は、僕の“誰か”だから。君だけの名前があった方が……きっといい」
先生はしばらく黙っていた。
スクリーンに映る白いページの上で、ツバメの影が静かに揺れていた。
「……ならば、君が決めろ」
「え?」
「私には、私自身の記憶がない。ならば、“君が見る私”が、私の輪郭となる」
……それは、彼の口から出た言葉であると同時に、僕の胸を不思議な感情で満たした。
その夜、ベッドに横たわりながら、僕は考えていた。
名前をつけることの意味。呼ぶという行為が生む、確かなつながり。
今はまだ、仮の名前でもいい。
ただ、“彼”が確かにここにいると、僕が知るために。
「……いつか、君の本当の名前が見つかるまで」
僕は天井を見上げ、小さくつぶやいた。
『それまで、“先生”でいい?』
カーテンの向こうから、小さく羽音が返ってきた。
静かな夜に、優しい影がそっと寄り添っている。
名前を持たない“君”と過ごす、ささやかな物語が――今、始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます