第二宇宙、ラムレーズンをひと粒② 新装版

✿モンテ✣クリスト✿

第1章 絵美と洋子

第1話 島津洋子、クリスマスイブ1


 どうも、あのあと、メグミとも真理子とも気まずくなったのは仕方がない。そりゃあそうだ。しばらく女性とは距離を置こうと思った。


 さて、ぼくはかなり前から新橋第一ホテルでアルバイトをしていた。しかし、このバイト、これはかなりキツかった。朝、大学に行き、夕方、新橋へ。だいたい、午後5~6時頃に新橋第一ホテルに着く。


 タイムレコーダーを打ち込んで、従業員食堂で早めの夕食をとる。午後6時に12階のバーに行く。バーは昼間も開いているので、昼間出庫してしまった酒、ソフトドリンク、つまみ、軽食用の食材の在庫を確認する。不足するものを地階の倉庫に取りに行き、バーのパントリー内の倉庫に補充したり、バックバー(バーの酒棚)に並べたりする。客の目に触れるビン類は乾いた布巾でピカピカに磨く。バーカウンターの下にソフトドリンクを補充しておく。生ビールの樽の残量をみて、交換したり、樽を取りに行ったりする。


 それらを午後7時前くらいに終わらせると、だんだん客が増えてくる。フロアに出て、注文を受ける。バーテンに注文を伝える。伝票を作ったり、書き加えたりする。20世紀なのだから、すべて手書きだ。酒やカクテル、つまみを持っていき、伝票を客のテーブルの隅におく。


 午後11時頃になると、だんだん客足が落ちてくる。その頃から、バーの閉店時間の午前1時を見込んで、たまった洗い物を少しずつこなしていく。パントリーも掃除し始める。午前1時にバーは閉店。その頃には、最後の客のテーブルの後片付けをしたり、あまり仕事は残っていない。床掃除は、早朝にホテルの清掃係が行う。


 午前1時から1時間ほど、バーのスタッフで寝酒を呑む。スタッフは、正社員のバーテンダー2~3名とアルバイト2~3名だ。寝酒は、アルバイトが作ったりする。みんな飲むのはウイスキーのロックとか水割りだから簡単なものだ。その時、カクテルを試しに作らせてくれたりする。ステアの使い方とか、シェイカーの使い方をバーテンダーが教えてくれる。


 みんな話すことは、土日の競馬や競輪の予想とか、世相の話とか。バーテンダーによるが、そこで客に見せる手品の練習をしたり、皮のダイス(サイコロ)カップでダイススタッキング(数個のダイスをカウンターに並べて、カップを振りながらダイスをカップの中に入れていき、ダイスを縦に積みあげる遊び)の練習をする人もいる。


 午前2時頃にお開きとなり、バーテンダーと私たちバイトは仮眠室に行く。従業員階に仮眠室はあった。ホテルの客室と似たようなレイアウトになっていて、アルバイトの部屋は2段ベッドが設えてある。洗面所とシャワー室もある。午前2時なので、顔をさっと洗ったら寝てしまう。山手線の新橋駅から総武線の千駄ヶ谷駅への始発時間は午前5時頃。4時45分にホテルを出て、駅に向かい始発に乗る。家に戻るのは6時少し前。それから午前中の大学の講義がない時は寝てしまう。9時からの講義がある場合には2時間ほど仮眠する。


 ローテーションでたいがいが土日は休めるが、土日出勤の場合もあった。


 大学1年からこのバイトをやっているので業務には慣れている。そして、クリスマスイブ。大学生にとっては、クリスマスは特別な日。サービス業にとってはかき入れ時。ぼくにとっても特別な日のはずだったんだけど、今は一緒に過ごす相手もいない。


 バーのチーフの吉田さんが、「明彦、クリスマスイブは絶対に休むなよ、終わったらロイヤル・ハウスホールドを際限なく飲ませてやる」と言う。ロイヤル・ハウスホールド(Royal Household)、英国王室御用達のスコッチの絶品。バランタイン30年よりもさらにさらに洗練された味。バーのアルバイトは普通飲ませて貰えない。とりあえず「う~ん、え~、まあ、いいですよ」とぼくは吉田さんに答えた。もちろん、「際限なく飲ませてやる」は言葉の綾だ。あんな数万円もするウイスキー、ありがたすぎてそんなに飲めないのだ。


 ということで、24日午後5時に出勤。いつものごとく、社員用のレストランで夕食を取る。ホテルの社食だからこれがおいしい。クリスマス特別メニューで、ローストビーフ、ヨークシャープディングなどディッケンズの小説で出てくる料理がいっぱいで、楽しめた。


 ホテルのバーは見かけよりもずっと忙しい。アルバイトだって、カウンターの中で酒を作ることもあれば(正社員のバーテンダーが休憩とか食事の時とか難しいオーダーでなければの話だが)、ボーイ役でバーの中を歩き回る。バーの後ろの隠れたパントリーで、カットオレンジやメロン、牛肉のタタキを作っていたり(カットと飾り付けだけだけどね)、キッチンに素材を取りに行ったり、グラスを洗ったり。


 このグラスを洗う、というのが重要だ。洗剤をいっぱい使ってゴシゴシ磨けばいい、などというものではない。


 まず、シンクにぬるま湯を満たす。洗剤をほんのちょっと入れる。そして、数十個のクリスタルグラスを種類毎に漬ける。それから、スポンジに適度に洗剤をつけ、丁寧にグラスの底まで洗う。洗ったグラスは別のシンクで洗剤をすすぎ、さかさにして並べる。普通の家庭ならここまでだろう。


 ところが、いくら丁寧に洗っても、クリスタルグラスには油脂分が付着している。人間の手の脂とかだ。乾くと曇るんだ。


 そこで、次に、シンクに熱湯を満たす。熱湯はホテルのセントラルの給湯システムから80℃の高温水が蛇口をひねれば出てくる。そこにひとつひとつグラスを浸して、熱湯と同じ温度になるまで待つ。同じ温度になったら、乾いたタオルで親指をグラスの内側に入れて、外側内側をキュキュッと磨く。そこまでしないとクリスタルグラスの表面の曇りは取り除けない。もちろん、場末の街場のバーでこんなことはしない。


 バーのかき入れ時は8時から11時頃までだ。今日は普段の客の2倍以上が訪れる。注文を訊く、バーテンに伝える、バーカウンターの横のパントリーでメロンをカットしハムを盛りつける、飲み物と食い物を客に届ける。


 シャンパンを注文する客、シャンパンクーラーを準備する、シャンパンをあける、ワイン、カクテル、時間が進むに連れて、強い酒が多くなる。ジャック・ダニエル、オン・ザ・ロックスをダブルでとか、マティニをシェイクしないで軽くステアして、ウィスキーグラスでオン・ザ・ロックスにして頂戴、なんて客もいる。4シートの席で、おのおの面倒なカクテルを頼むグループもいる。


 こっちはもう慣れた。いくらカスタマイズした注文でもすらすら復誦できる。「・・・と、以上のご注文でよろしいですね?」という私。間違いがないのに驚く客。毎日やっているんだよ、こっちは。客のカスタマイズドカクテルなんて、たかが知れたもの。


 10時半を過ぎた。吉田さんが、「明彦、俺、飯食ってくるから、カウンターやってよ」と言う。私は年上でフーテンのアマネさん(本名をホテルの会計係以外誰も知らないし、アマネの由来も誰も知らない、私と同じアルバイトだ)に、「アマネさん、カウンターやってくるからフロアはお願いします」とフロアを預けて、カウンターに入った。


 カウンターだって忙しい。生ビールの樽を入れ替えたり、氷を割ったり、グラスを磨いたり、カウンターを拭く、客が何とかビルはどこかね?という問いに答える、はさみある?なんてプレゼントを開くので訊く客、カクテルを作る、ウィスキーの水割りを作る、客の雑談に答える、ミリオンダイスにつき合う、シンクの洗剤をそそぐ、自分の蝶ネクタイを直す、外人の客に英語で答える、泣きべそをかいている女性客にティッシュを渡す・・・、やれやれ、無限に仕事は存在する。だから、それなりにアルバイト代はいいわけだ。

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