3

 その夜、夫と佳奈恵は夕食を作り、夕食を食べ、セックスをした。相変わらずボーリング場の大きな看板を照らす為の照明は激しく、カーテンを閉め切っていても聊かのたわみもないまま、真っ直ぐにその隙間に射し込み、佳奈恵の裸体を貫くかのように落ちる。夫の肌と佳奈恵の肌の間で摺り合わせられた汗が、室内に粘っこい湿気を生んでいた。身体の中心ばかりが熱を上げて、指先がただ冷たい。対照的に夫の身体は指の先まで熱く、隔てた皮膚の向こう側の血のめぐりの勢いまでわかりそうなくらいだ。佳奈恵の腰を撫でる手のひらは、学生時代にはスポーツに勤しんでいた名残か皮が厚く、砂埃に傷つけられたかのようにかさついている。大きな男の手。

 女の身体は便利で――女の体が便利なのか、佳奈恵という女の体が便利なのかは判別できないが――単調な動きを繰り返すだけのことに水位を上げていった。シーツの繊維が尾骶骨のあたりに擦れて、そのざらついた刺激が脳にやすりをかけたみたいに思考を鈍らせる。頭がどんどん回らなくなって、考えていることのすべてが上滑りして、そうしていくうちに体の感覚だけが際立って、それだけの生き物みたいになる。こういう境地に達することは、夫との行為中に何度かあって、佳奈恵はその度に佳奈恵の中の空洞を意識する。空洞とは例えば虚無感のような、精神的なそれではない。肉体的な、物理的な空洞のことだ。内臓、頭蓋、子宮、肺、細胞。

 

 夫と佳奈恵とのセックスの頻度は多くない。夫がそれに不満を感じていない訳ではないことは知っている。それでも、夫が他所で性欲を発散しているのではないかとか、そういう心配を佳奈恵はしたことがない。一部の隙もなく愛されていると感じるからだ。

 

 佳奈恵の背が反って、その骨の一つひとつを男の手がなぞり、半ば持ち上げられるようにして佳奈恵はその場所に辿り着く。閉じた瞼の裏にボーリング場の眩しい照明が散らつき、いずれすべてが白んでいく。窓硝子から差し込んでいた光が遮られた。にわかに、佳奈恵は自分の肉体の上を誰かの視線がなぞっていくのを感じた。その視線の正体を佳奈恵はもうわかっていた。彼は小さな体から伸びたにしては長い影をそびやかし、窓硝子とベッドとの間に逆光を背負って立っていた。少年である。日常のあわいに問い掛ける声の持ち主でもある、あの少年。

 彼は今度ばかりは黙って佳奈恵を見つめていた。筋肉の箍を失って萎えた四肢や、呼吸に上下する胸や、髪の生え際に溜まってしまった汗までもを。その悪徳を。

 少年はしばらくの間そうしていたが、ふとその目尻が、極めて軽やかにたわんだ。優しく、いっそ甘さすら感じさせるくらいに少年は微笑んでいた。その微笑みに気怠く視線を返す。直生くんだ。直生くんは左手に猫じゃらしを握っていた。どこかの川縁から詰んできたのだろうか。

 直生くん、と佳奈恵は心の中で呼びかけて、寝返りを打って少年に向かい直った。臆面のない、喉を鳴らす猫のような仕草だった。小学生ほどの年齢の少年の前に裸体を晒していても、佳奈恵の中に一切の恥じらいや罪悪感といった類の躊躇いは一切ない。佳奈恵は先程までの生温い湿った空気を置き去りにするみたいに、草原の中、深呼吸するような気持ちで深く息を吐いた。直生くんが来てくれたのだったら大丈夫。汗ばんだ肌の表面を、白々としたボーリング場の明かりが撫でるのでさえ、佳奈恵は薫風にそよがれているかのように受け止め、極めて穏やかに眠りの淵へと滑り込んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わらっていたいよ 第六感 @eyes0933

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ