第6章:バロック音楽の魅力的な形式と楽器
バロック時代には、多くの音楽形式が生まれ、発展しました。また、現代のオーケストラとは異なる楽器編成や、今では使われなくなった楽器も多く存在しました。この章では、バロック音楽の様々な形式と、当時使われていた楽器について詳しく見ていきましょう。
### バロック音楽の形式
#### 協奏曲 - ソリストと合奏のドラマ
協奏曲(コンチェルト)はバロック時代に発展した重要な形式の一つです。特にイタリアのヴィヴァルディによって確立された「独奏協奏曲」は、一人のソリスト(独奏者)とオーケストラが「対話」するような形式で、今日でも多くの作曲家に用いられています。
独奏協奏曲には面白いエピソードがあります。当時、ヴィヴァルディが教えていた女子孤児院「ピエタ」では、才能ある少女たちがヴァイオリンなどの楽器を演奏していました。彼女たちの技術を披露するために、ヴィヴァルディは難しいソロ部分を含む協奏曲を多数作曲したのです。ときには一人の奏者だけでなく、二人(二重協奏曲)、三人(三重協奏曲)、四人(四重協奏曲)のソリストのための作品も書かれました。
もう一つの協奏曲の形式に「合奏協奏曲」(コンチェルト・グロッソ)があります。これはソリスト・グループ(コンチェルティーノ)と全体の合奏(リピエーノ)が対比される形式です。コレッリやヘンデルの「合奏協奏曲」が有名です。
#### フーガ - バッハが極めた芸術
フーガは対位法の技法を極限まで追求した音楽形式で、一つの主題(テーマ)がさまざまな声部で次々と模倣的に現れます。バッハはこの形式の大家として知られています。
バッハの「平均律クラヴィーア曲集」に含まれるフーガには、驚くほど多様な表情があります。明るく元気なものから、深刻で悲しげなものまで、様々な感情が表現されています。バッハはフーガという形式の中に、無限の可能性を見出したのです。
フーガには興味深いエピソードがあります。バッハは晩年、プロイセン王フリードリヒ大王の宮廷を訪問したとき、王から与えられた主題を用いて即興でフーガを演奏しました。しかし、その主題は意図的に複雑なものだったため、完全な形のフーガは作れなかったと言われています。バッハは帰宅後、その主題を用いた「音楽の捧げもの」という作品集を作曲し、王に送りました。これには様々な技法を駆使した素晴らしいフーガが含まれていました。
#### 組曲 - 舞曲の集まり
組曲(スイート)は、様々な性格の舞曲を一つにまとめた曲集です。典型的なバロック組曲は、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという4つの基本的な舞曲から構成されますが、他の舞曲(メヌエット、ガヴォット、ブーレなど)が加えられることもありました。
それぞれの舞曲には特徴があります。アルマンドは中庸のテンポの4拍子、クーラントは流れるような3拍子、サラバンドは荘厳で遅い3拍子、ジーグは躍動的な複合拍子です。これらは元々は実際に踊るための音楽でしたが、バロック時代には「聴くための音楽」として発展しました。
バッハの「フランス組曲」「イギリス組曲」「管弦楽組曲」、ヘンデルの「水上の音楽」などが有名な組曲です。
#### ソナタ - 器楽の中心形式
ソナタはバロック時代に重要な器楽形式として発展しました。特にコレッリによって確立された「教会ソナタ」(ソナタ・ダ・キエーザ)と「室内ソナタ」(ソナタ・ダ・カメラ)が重要です。
「教会ソナタ」は通常4楽章からなり、遅い-速い-遅い-速いという楽章構成を持ちます。「室内ソナタ」は、前奏曲に続いて様々な舞曲を配置する形式で、組曲に近い性格を持っていました。
バロック・ソナタには面白いエピソードがあります。当時、教会では舞曲を演奏することが「不敬」と見なされていました。そこで作曲家たちは、舞曲のリズムをそのまま使いながらも、舞曲の名前を付けない「教会ソナタ」を考案したのです。舞曲に似ているけれど舞曲ではない、という「方便」だったと言えるでしょう。
#### カンタータとオラトリオ - 声楽の大作
カンタータは声楽とオーケストラのための作品で、通常は複数の楽章からなります。バッハは教会カンタータを200曲以上作曲しました。これらは日曜礼拝で演奏するために作られたもので、その日の聖書朗読に合わせたテーマを持っています。
バッハのカンタータ制作には驚くべきエピソードがあります。彼がライプツィヒのトーマス教会のカントルに就任した最初の年(1723年)、彼はほぼ毎週新しいカンタータを作曲し、演奏していました! 一曲のカンタータは通常20分から30分の長さがあり、これを毎週作曲するというのは信じられないほどの作業量です。彼はどのようにしてこれを成し遂げたのでしょうか? 一説によると、彼は月曜日に作曲を始め、木曜日までに曲を完成させ、金曜日と土曜日にパート譜を作成し、日曜日に演奏したとされています。彼の創造力と作業効率の高さには驚くばかりです。
オラトリオはカンタータよりも大規模な声楽作品で、通常は聖書の物語をドラマティックに描いています。オペラとの大きな違いは、舞台装置や演技を用いないことです。ヘンデルの「メサイア」「イスラエル・エジプトにて」などが有名なオラトリオです。
「メサイア」には興味深いエピソードがあります。初演時、あまりの素晴らしさに観客は感動で立ち上がり、イギリス王ジョージ2世も立ち上がって聴いたと言われています。これが「ハレルヤ・コーラス」演奏時に観客が立ち上がる伝統の始まりとされています。また、ヘンデルは「メサイア」の収益を慈善事業に寄付し、多くの囚人の借金を返済して釈放させたという逸話もあります。
### バロック時代の楽器
#### 通奏低音 - バロック音楽の「心臓」
バロック音楽の最も特徴的な要素の一つが「通奏低音」(バソ・コンティヌオ)です。これは単なる楽器というより、演奏のシステムであり、低音楽器(チェロやヴィオラ・ダ・ガンバなど)と和音楽器(チェンバロやオルガンなど)が連携してベースラインと和音を奏でます。
通奏低音奏者には即興の技術が要求されました。通常、楽譜には低音と、和音を示す数字しか記されておらず、実際にどのような和音を弾くかは奏者に委ねられていたのです。これは現代のジャズの「コード進行」に似ているかもしれません。
#### チェンバロ - バロック時代の主役
チェンバロはバロック時代の鍵盤楽器の代表格で、通奏低音の和音楽器として重要な役割を果たしました。ピアノとの大きな違いは、弦を「はじく」仕組みを持っていることです(ピアノは「叩く」)。そのため、音量の強弱をつけることはできませんが、繊細で美しい音色が特徴です。
チェンバロには面白いエピソードがあります。当時のチェンバロの中には、鳥の鳴き声や太鼓、鐘などの効果音を出せる特殊な仕掛けを持ったものもありました。また、様々な装飾が施され、まるで豪華な家具のような外観のチェンバロも作られました。フランスのルイ15世のために作られたチェンバロは、漆塗りで金箔が施され、美術品としても大変価値のあるものでした。
#### ヴィオラ・ダ・ガンバとその仲間たち - 失われた楽器
バロック時代には、現代のオーケストラでは見られない楽器がたくさんありました。「ヴィオラ・ダ・ガンバ」はその代表で、チェロに似た弦楽器ですが、フレットがあり、弓の持ち方も異なります。
「テオルボ」という楽器も珍しいもので、非常に長い首を持つリュート族の楽器です。首が長すぎて演奏するのに苦労したという話もあります。また、「リコーダー」はバロック時代に最盛期を迎えた木管楽器で、現代では主に子供の教育用楽器として知られていますが、当時は複雑な曲を演奏する本格的な楽器でした。
バロック・オーボエやバロック・トランペットも、現代のものとはかなり構造が異なります。特にバロック・トランペットは、音孔がないため、自然倍音だけで演奏しなければならず、高度な技術が必要でした。
#### バロック・ヴァイオリン - 現代との違い
バロック時代のヴァイオリンは、現代のヴァイオリンとは微妙に構造が異なります。弦はガット弦(羊の腸から作られる)が使われ、音色はより柔らかく繊細でした。また、弓も現代のものより短く湾曲しており、演奏技法も異なっていました。
ヴァイオリンの技法に関する面白いエピソードとして、17世紀イタリアの作曲家ビーバーの「ミステリー・ソナタ」があります。この曲集の一つでは「スコルダトゥーラ」という特殊な調弦法が使われ、通常と異なる調弦にすることで普通ならば不可能な和音やフレーズを演奏できるようになっています。また別の曲では、弦に紙を挟んで音色を変える指示もあります。非常に実験的な作品だったと言えるでしょう。
### バロック時代の演奏習慣
#### 即興と装飾 - 演奏者の創造性
バロック時代の音楽は、楽譜に書かれた音符をそのまま演奏するのではなく、演奏者が装飾音を加えたり、カデンツァ(独奏部分)を即興したりすることが一般的でした。これは現代のジャズに似ていると言えるかもしれません。
この習慣は、時には作曲家と演奏家の間で摩擦を生むこともありました。ヘンデルは、自分のアリアを過度に装飾した歌手に激怒し、「もし続けるなら、窓から突き落とすぞ!」と脅したという逸話があります。
一方で、バッハの息子のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、装飾法についての詳細な教則本を書き残しており、これは今日のバロック音楽演奏の貴重な参考資料となっています。
#### 指揮者なしのオーケストラ?
バロック時代のオーケストラは現代のものと大きく異なり、規模も小さく(20人程度のことが多い)、指揮者もいませんでした。では、誰がアンサンブルをまとめていたのでしょうか?
通常、チェンバロ奏者かコンサートマスター(第1ヴァイオリン奏者)が演奏を指揮していました。チェンバロ奏者は、右手で演奏しながら、左手で拍子を示すこともありました。また、弦楽器奏者たちは弓を上下に動かすことで互いにタイミングを合わせていました。
興味深いことに、バロック時代には拍子記号の意味も現代とは異なっていました。例えば、3/4拍子は単に「1小節に4分音符が3つある」という意味だけでなく、テンポや性格も示していたのです。
次の章では、バロック音楽がその後の音楽にどのような影響を与えたか、そして現代ではどのように受け継がれているかを探っていきましょう。
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