まだ、投げていない

水城透時

まだ、投げていない

 二十六歳の春、片桐悠真は八年ぶりに地元へ戻ってきた。


 駅舎の屋根が変わり、ロータリーのケヤキの木もなくなっていた。見覚えのある街並みに、見知らぬ輪郭が混ざっている。自分だけが八年前から取り残されているような気がした。


 タクシーを降りて玄関の前に立つ。帰る前、「少し長く帰省する」とだけ母には伝えてある。余計なことは言わなかったし、言えなかった。


 インターフォンを押すと、数秒ののち、ドアが開いた。


「あら、早かったわね」


 母の声は、拍子抜けするくらいあっさりしていた。その何気なさが、少しだけ気を楽にした。


「シロ、悠真が帰ってきたよ」とリビングに声をかける。


 リードを引きずって、老犬がよたよたと廊下に現れた。


「シロ! 久しぶりだな!」


 悠真は思わず笑ってしゃがみ込み、両手を広げるようにして呼びかけた。

 

 ところがシロは低く唸り、尻尾を振ることもなく、警戒を露わに立ち止まった。


「おいおい、シロ、お前……俺だよ。悠真だよ。なあ」


 しゃがんで手を差し出してみても、シロは一歩、下がった。


「あんたが長いこと帰ってこないから、忘れちゃったのよ」


「……そうか。そりゃそうだよな」


 笑ったつもりだったが、口元が固まったままだった。誰にも責められていないのに、責められているような感覚が、じわじわと染み込んでくる。


 シロとの距離が、故郷との距離のように感じられた。


 ◇

 

 荷物を自分の部屋に運び終えると、空気は妙に冷たかった。引き出しを開ける。奥から、折れたシャープペンと、色あせたメモ帳が出てきた。ページの隅に書かれた「甲子園!!」の文字は、かすれて読みづらい。


 あの試合のことを、思い出しそうになる。


 甲子園のマウンド。満塁、ツーアウト。あと一球で勝てた——はずだった。風の音。汗のにじむ手のひら。足元の乾いた土。

 

 バッターは、早瀬だった。


 その名を胸の中で反芻しただけで、何かがどくんと脈打つ。閉じたはずの記憶の蓋が、音もなく軋み始めている。もう開かないと思っていたのに——思っていたよりも、ずっと脆かった。八年前の、あのざわめきが、耳の奥でふくらんでいく。

 

 ◇

 

 延長十回裏。満塁。二死。


 マウンドに立つ俺は、握った球の感触だけを頼りに立っていた。相手の四番、バッターボックスに立つのは——早瀬。


 中学時代、同じ野球部に所属していた。俺はエースで、早瀬は四番打者。共に戦う戦友だった。誰からともなく「黄金コンビ」なんて呼ばれていたけれど、俺自身は、早瀬の才能が遥かに上回ることを感じていた。自分が凡庸だとは思わなかった。でも、早瀬は別格だった。


 中学卒業後、俺は地元の高校にスポーツ推薦で進学した。県内では一番の強豪校。一方の早瀬は、県をまたいで甲子園優勝常連の名門へ。あのとき、もう「住む世界が違う」ことははっきりしていた。


 それでも、俺の高校は創立以来初めて甲子園でベスト8に進出した。県全体でも十数年ぶりのベスト8とあって、地元では快挙と騒がれた。

 

 対する早瀬は、順調にスター街道を走り、プロ入りも確実と囁かれていた。たまにテレビにも取り上げられていた。


 道は違った。高校進学後は会うことも話すこともなかった。それでも大舞台で、また交差した。


 スタンドのざわめきは、遠いノイズに過ぎなかった。早瀬と、視線が合う。ただの一瞬ではない。見つめ合ったまま、数秒が過ぎた。敵として戦うのは初めてだった。互いの視線が、張り詰めた糸のように絡まり、キリキリと緊張が高まっていく。


 キャッチャーの井上がサインを出す。ストレート。

 「思いっきりいけ」

 そう言っているようだった。


 (……そうだ。これでいい)

 悠真は軽くうなずいた。


 絶対に勝つと自分に言い聞かせた。その覚悟だけを握りしめていた。

 セットポジションに入り、静止。

 疲労は極限に達しているのに、不思議と集中力が研ぎ澄まされていくのを感じる。

 世界が静かになり、自分と早瀬だけがこの世界にいるような感覚になる。

 一瞬の静寂ののち、左足を上げる。腰が回転し、渾身の力を込めて腕を振ろうとした、その瞬間だった。


 バッターボックスの早瀬の目が、ギラリと光った。その目を見た瞬間、悠真の中で時間が止まった。


 音が消え、空気が重たくなる。まるで、自分が投げるのではなく、“投げさせられる”かのようだった。全身の毛穴が開き、ぞわりと背筋をなぞる何かが走った。


 その瞬間、未来が見えた。見えてしまった。自分のボールが、鋭く伸びていく。早瀬のバットのど真ん中、クリーンヒットの芯に向かって、吸い込まれるように。


 ——これは打たれる。


 全身が反射的に抗った。


「うおおっ……!」


 叫びながら、俺は腕の振りを止めてしまった。体勢を崩して倒れそうになる。その瞬間、自分でもわかった。やってはいけないことを、やってしまった。頭の奥で「しまった」と叫んでいるのに、もうどうすることもできなかった。

 

 「待ってくれ」「もう一度だ」そんな願いが喉元まで込み上げたが、声にはならなかった。その瞬間、主審の声が空気を裂いた。


「ボーク!」


 満塁、二死——出塁中の走者は1つずつ進塁となる。三塁ランナーがゆっくりとホームへ歩き出す。


 ——サヨナラボーク。


 勝負が、ついた。観客席から「ああー……」というため息が漏れる。勝った側からも、負けた側からも。俺は、ボールを握りしめたまま、マウンドの真ん中に立ち尽くしていた。


 井上が、動けずにいた。主審の声を聞いても、誰よりも近くにいたはずの彼が、反応できていなかった。面を外した顔が、一瞬だけこちらを向いた。何かを言おうと口が動いたが、声にならない。わずかに開いた口元と、震えるまなざしだけがそこにあった。


 勝ったはずの早瀬は、ベンチに戻らなかった。バットを握ったまま、動けずにいた。その顔に、驚きも、歓喜もなかった。ただ、「終わっていない」という表情だけが、そこにあった。


 勝ったはずの相手チームの歓声が、遠かった。本当なら、早瀬がヒーローになって終わる試合だった。


 あの構え、あの集中、あの一球の気迫。きっと打ち返して、センターオーバーでサヨナラ。それが“ちゃんとした結末”だったはずなのに。


 俺が壊した。一番、目立っちゃいけない奴が、一番、目立ってた。日本中の憐憫を全身に浴びて、無様に立ち尽くしてた。俺は、主役じゃなかったはずの自分を、強引に、あの試合のど真ん中にねじ込んだ。


 それが、死ぬほど恥ずかしかった。


 ◇


 暗くなる頃、玄関の鍵が回る音がした。


「ただいま」


 父の声がする。


「おかえりなさい。今日は早かったのね」


「そりゃあ、悠真が帰ってくる日だからな」


 ダイニングに顔を出した父が、一瞬だけ立ち止まり、目を細める。


「……おお、久しぶりだな。元気にしてたか」


「うん、おかげさまで」


「便りがないのは無事の知らせってのは本当なんだな」


 それだけ言って、上着を脱ぎ、何事もなかったようにハンガーへ向かう。理由を尋ねるでも、驚くでもない。その距離感は、昔から変わらない。


 炊きたてのご飯、肉じゃが、味噌汁。それに母の煮魚。見慣れた食卓の風景のはずなのに、どこかよそよそしさが残っていた。食べる手つきも、湯気の立ち方さえも、記憶より少しだけ他人行儀に思える。シロが少し離れた場所に横たわり、こちらの様子をじっと伺っている。


 「で、何かあったの?」


 母がふいに口を開く。味噌汁の椀を手にしたまま、目は合わせてこなかった。


 「……うん。会社、辞めたんだ」


 言った直後、自分の声が思ったより軽く響いて、わずかに罪悪感を覚える。静かな間。箸の音が止まる。


 「そう。……疲れちゃった?」


 「……まあ、そんな感じ」


 うまく言葉が出てこない。口にしたご飯の味はほとんどしなかったが、それを気取られたくなくて、もう一口を急いで運んだ。


 「しばらく、こっちで就活する。……迷惑かけるけど、よろしく」


 少しだけ、語尾に力を込める。それだけで、自分がちゃんと前向きでいるような気がした。父がようやく口を開く。


 「ま、ゆっくりしていけ。再起動ってのは、1回止まってからじゃないとできんからな」


 言葉はありがたかった。ありがたかったけれど、「1回止まった」じゃない。「ずっと止まってた」んだ。自分が、それに乗じて見栄を張っているようで、喉の奥がじんわりと苦くなった。


 ——本当は、俺は逃げてきたんだ。逃げることからも逃げてきたんだ。


 けれど、そんなことを口にするタイミングは、最初から用意されていなかった。誰も責めなかった。ただ、黙ってご飯を食べるだけ。それだけのことが、今は少しだけありがたかった。


 ◇


 食後、父が湯呑を持ってソファに移動すると、悠真もなんとなく隣の椅子に腰を下ろした。テレビではニュースが流れているが、誰も画面は見ていなかった。


 不意に、父が言った。


 「悠真、貯金はちゃんとあるのか?」


 「……まあ、それなりには」


 口にしてすぐ、「それなり」なんて曖昧な言い回しを使った自分に、小さく苛立つ。


 「“それなり”ってのが一番信用ならん言い回しだな」


 そう言って湯呑を置いた父は、そのまま立ち上がり、自室へと引っ込んでいった。すぐにノートパソコンを抱えて戻ってくる。


 「しばらく暮らすってことは、家に金は入れるんだぞ」


 「え、いや、まだ就職先も決まってないし……」


 「働いてようが無職だろうが、一人前の大人は生活費を負担するものだ」


 「お父さん、それぐらいは別に——」


 母の言葉を背中で受け流しながら、父はすでにパソコンを開いていた。キーを叩く音が、妙に軽快に響く。


 「はい。家の月の固定費、ざっとこのくらいな。光熱費、食費、通信費、シロの餌代も入れて……お前が今後家にいる割合を踏まえると——」


 エクセルの画面が開かれ、複雑な計算表があっという間に組み立てられていく。父は経理部で働いているんだったな、と思い出した。


 「ガス代は従量課金の分が増えるからこのくらい。食費は育ち盛りだから多めにいるよな。で——」


 「いや、俺、もう育ち盛りじゃないし……!」


 「バレたか! 多めに負担してもらおうと思ったのにな」


 馬鹿らしくて、つい笑ってしまう。


 「油断も隙もないな。まあ、とにかく金は入れるよ」


 「よろしい」


 父は満足げにファイルを保存する。


 「細かくてすまんな。経理部員として、金に関してはきっちり把握したいんだよ」


 「会社でも家でも経理してんのかよ……」


 思わずつぶやいた悠真に、父は当然のようにうなずいた。


 「天職だ。数字は正直だからな」


 不意に「羨ましい」と思ってしまった。経理部だなんて、正直に言って地味なイメージしかなかったけれど、こんなふうに自分の仕事を誇る父の姿が、今はちょっとだけ眩しく見えた。


 横から母が小さく笑う。


 「お父さん、そういうのが本当に好きなのよ。誰も頼んでないのに、町内会の会計報告まで自分でフォーマット作ったんだから」


 「無駄な金があるかないか、それを知るのが第一歩だ」


 「……うん、でも家でまでExcelで費用管理されるとは思わなかったよ」


 「これも才能よね。経理の才能。天才経理部員」


 気づけば、夕飯のときのよそよそしさはどこかへ消えていた。


 ◇


 数日後の昼下がり。面接を終えた悠真は、どっと重みの抜けた体を引きずるようにしてオフィスビルの玄関を出た。


 「……やっぱ、疲れるな」


 無意識に独り言が漏れた。そのときだった。目の前のビルの自動ドアが開き、昼休みに出てくる社員たちの列がどっとあふれた。


 「あれ……片桐? だよな」


 ふと、声をかけられた。振り返ると、高校時代、バッテリーを組んでいた井上が、目を丸くしてこちらに近づいてきた。


 「うわ、本当に片桐じゃん! まじか……何年ぶり?」


 「……井上?」


 「おーおー、どうしてんの?」


 「さっきまで面接だったんだよ。こっちに戻ってきて、就職活動してるんだ」 


 「まじか! 俺ここで働いてんだよ。営業部。七階」


 「……そっか。偶然だな」


 「ってかさ、ちょうど昼だから、飯でも行く?」


 一瞬だけ迷ったが、悠真はうなずいた。


 「ああ、いいよ」


 「よし、行こう。安くて美味い定食屋があるんだよ。俺の体の半分はあの定食屋の飯でできてるんだ」


 冗談めかした井上の軽口に、悠真はほんの少しだけ、肩の力を抜いて笑った。笑ってみせた、というのが正確だった。


 道すがら、ふたりの足音が並ぶ。井上は、あいかわらずの調子で、懐かしいノリのまま話しかけてくる。まるで、何もなかったかのように。


(……なんで、そんな顔ができるんだよ。……俺は、あの日からずっと止まってたんだぞ)


 試合後、チームメイトは優しい言葉をかけてくれた。「ナイスピッチングだったよ」「ドンマイ、仕方ない」定型句みたいに、次々と。


 でも、誰も目を合わせてくれなかった。視線が、ひたすらに避けられていた。誰も、正面から俺の顔を見ようとはしなかった。誰も、話しかけてこなかった。ずっとバッテリーを組んでいた、井上すらも。


 (……嫌われたんだ。あの一球で)


 当然だった。皆、夢を抱えてあの場にいた。俺がぶち壊した。気づいたときには、自分の居場所はもうなかった。


 「受験に専念する」と言い訳をして、部活をやめた。誰にも何も告げず、静かに引いた。大学進学を機に地元を離れた。成人式も出なかった。誰にも会わず、誰にも何も聞かれずに済む場所を選んだ。


 誰とも野球の話をできなかった。というか、自分が野球をやっていた、という事実そのものを忘れようとしていた。記憶を塗りつぶすように、違うことばかりしていた。


 けれど、何かが変わることはなかった。あの一球を投げきれなかった記憶。ここ一番で、頑張りきれない。勝負に出る直前で、なぜか引いてしまう。それが癖のように、身についていた。


 仕事でも、同じだった。


「死に物狂いで受注取ってこい」

「今日決めてこい。勝負だぞ」

 

 上司や先輩にそう言われ、頷いては、背中を押されるように客先に向かった。頭の中では何度もシミュレーションする。切り出し方、押しどころ、決めの台詞。


 けれど、いざその瞬間が来ると、喉が詰まった。あの記憶がよみがえる。投げようとして、投げられなかった一球。“止まる感覚”が、また体の奥で疼きだす。そして、気づけばいつものこの言葉を口にしていた。

 

「では、またご検討いただけましたら幸いです」


 傷つかないための言い回しだった。逃げだった。自分でもわかっていた。そんなことを何度も繰り返すうちに、周囲の目が変わった。あいつは「やれる奴」じゃない、「やれない奴」だ。チャンスも、期待も、少しずつ回ってこなくなった。期待されないことが当たり前になっていた。そんな自分が、毎日少しずつ嫌いになっていった。


 結局、逃げた先で踏ん張れなかった。“逃げた先”からもまた、逃げ出した。退職願を出したときの記憶は曖昧だった。何かを決断したわけじゃない。ただ、心が空っぽになっていた。だから実家に帰ろうと思った。考えた末じゃない。思考の先じゃなく、思考の果てだった。


 逃げてきた場所に、もう一度逃げる。それが“逃げ”だとしても、そんなことすら、もうどうでもよかった。あの一球が、自分の人生まで決めてしまったような気がしていた。

 

 (……なのに、井上、お前は)


 お前はもう、ただの“昔の友達”として、俺に声をかけてくるのか? 何事もなかったみたいに。俺が、お前らをがっかりさせたこと、無視されたことで、どれだけ苦しかったか。それなのに、お前にとっては、あの試合も、その後も、ただの「思い出話」に過ぎないのか? 反感というには小さくて、けれど無視できない感情が、静かに胸に沈殿していった。


 店内はこぢんまりとしていて、昼どきの喧騒に包まれていた。カウンター席に並んで座ると、ふたりとも黙って味噌汁を啜った。


 「で、今は?」


 井上がご飯をかきこみながら聞く。


 「まあ、ちょっと前に会社辞めて。今は実家に戻ってる」


 「そっか……まあ、いろいろあるよな。俺も何回辞めようかと思ったか」


 「井上は営業って言ってたっけ」


 「ああ、そう。一応な。最近は草野球の方が忙しいかもしれん」


 「草野球?」


 「うん。地元のやつとか、会社の連中とか集めてチーム作ってさ。なんか自然と、俺がまとめ役みたいになってて」


 「へえ、楽しそうだな」


 「まあ、忙しいけどな。結構充実してるよ」


 ひとしきり食べ終えた頃、井上がふと思い出したように言った。

 

 「なあ、今夜って……暇だったりする?」


 「うん? まあ、別に予定はないけど」


 「よかった。じゃあ、飲みに行こうぜ。ちょっと話したくなったわ」


 「いいよ」


 「……あ、でさ。ひとつ確認」


 井上が急に真顔になり、箸を置いた。


 「……早瀬も、誘っていい?」


 「……早瀬? って、あの早瀬か?」


 「うん。甲子園のときの、あの早瀬。片桐は中学で一緒だったんだよな?」


 悠真は箸を止めたまま、言葉が出なかった。


 「ちょっと前にな。草野球のメンバー探してたら、たまたま知り合い伝いで繋がったんだ」


 「そう、なんだ……」


 平静を装っていたが、内心では、思ってもいなかった衝撃が走っていた。井上と、早瀬。あのふたりが、今は草野球で一緒にいる。笑って、プレーして、会話して。かつてバッテリーを組んだ自分ではなく、別の誰かと過ごす時間がもう、積み重なっている。


 (……ああ、そうか。もう、俺はそこにいないんだ)


 当たり前の話だった。自分が地元を離れて、連絡も取らず、過去に背を向けてきたのは事実だ。だから、井上が誰かと繋がっていたって、それは当然のことだ。なのに、自分でも驚くほど、心がざわついた。胸の奥が、じんわりと痛かった。


(なんでだよ……)


 身勝手だとわかっている。自分のせいで切れた縁を、今さら誰かの手元で結び直されただけだ。それでも、自分だけが取り残されていたという事実が、あまりに鮮明すぎて、静かにショックだった。


(井上、お前は……もう、早瀬とも普通に喋ってるのか)


 あの日、あのグラウンドで“終わった”のは、自分だけだったんだ。それを突きつけられたような気がした。


「うん。でも、無理だったら無理って言ってくれ。無理に呼ぶ気はない」


 井上の声が、どこか遠くで聞こえた気がした。悠真は少し考えてから、首を振った。


「いや、大丈夫。……大丈夫だと思う」


「そっか。……なら、連絡しとくよ」


 再び味噌汁を啜る音だけがテーブルに戻ってきた。けれど悠真の耳には、さっきまでのざわつきが、妙に遠く感じられた。

 

 ◇


 店を出る頃には、春の陽射しが午後の角度に傾いていた。街のざわめきは変わらず賑やかで、信号の音や人々の笑い声が、どうしようもなく“日常”のリズムを刻んでいる。その中で、自分だけが置き去りになっている気がした。


(本当に……会うのか、早瀬に)


 井上の口から「早瀬」の名前が出たとき、確かに胸の奥がざわめいた。でもそれは、驚きでも懐かしさでもなかった。ざらりとした、焦げ跡のような感触だった。


 会うと決まったことで、過去が一気に息を吹き返す。蓋をしていた記憶が、勝手に浮かび上がってくる。嫌でも思い出してしまう。あのマウンド。あの一球。


 たまに思うことがあった。あのとき、自分はひとつの高みに到達していたのではないか、と。

 

 極限の集中。視界の輪郭が滲み、全身の感覚が一点に収束していくあの瞬間。スポーツをやる人間なら誰もが一度は夢見る、あの“ゾーン”に自分は確かに立っていた。


 それなのに、自ら引いた。


 あの一球。全てを懸けて投げるべきだったその瞬間。バットの芯に吸い込まれていく未来が見えたとき、自分は怖くなった。土壇場で、勝負から目を逸らしてしまった。それが、自分の本質なのではないのか。その疑念は、今でも残ったままだ。


 一方で、早瀬の行く末も、予想と違っていた。早瀬の高校は次の試合で敗北。早瀬自身にもいいところなかった。その後、プロには入ったが、万年二軍。高校時代の勢いはどこへやら、成績はふるわず、目立った活躍は聞かれなかった。


 もしかして、あの試合以降、早瀬のリズムも崩れてしまったのではないか。

 

 あのとき、確かに早瀬も「極限」にいた。集中のピークで、打ち砕くべき一球を待っていた。そこで何も来なかったことが、何かを狂わせたのではないか。あの一球。自分が投げきらなかったことで、壊してしまったものがあったのではないか。


 プロになるほどの才能。精密機械のように研ぎ澄まされた感覚。その繊細な均衡が、あの「サヨナラボーク」によって壊れてしまったのだとしたら。


 あれほどの才能を潰してしまったのは、もしかすると自分だったのかもしれない。


 ずっと、それを考えていた。

 ずっと、それを抱えていた。

 ただの敗者ではなく、加害者として。

 

 ◇

 

 その店は、駅から少し外れた路地にある、暖簾の古びた小さな居酒屋だった。入り口の引き戸を開けると、すぐに油の匂いと、焼き鳥の煙がまとわりついてくる。カウンターとテーブルが数卓だけの、こじんまりとした店内。奥の席で、井上が手を振っていた。


 「よっ。早かったな」


 「うん。暇だからな」


 悠真が向かいの席に腰を下ろすと、井上が瓶ビールとグラスをふたつ用意してくれる。


 「とりあえず乾杯しとくか」


 「……あれ、早瀬は?」

 

 「ああ、ちょっと遅れるって。仕事長引いたらしい」


 その言葉を聞いて、悠真は内心、ほんのわずかにホッとした。間があってよかった、と思ってしまう自分に、少しだけ罪悪感を覚える。


 「……そっか」


 グラスを軽く合わせて、乾杯する。


 「なんか、こうして座ってるとさ。あの頃のこと、遠いなあって思うよな」


 「そうだな。もう八年か……」


 しばらくのあいだ、ふたりの会話は当たり障りのない近況報告にとどまった。井上は部署で後輩ができたことや、草野球チームでやたらと張り切る中年がいることを話して笑わせた。悠真は、実家に戻った話と、今日の面接がどれだけ疲れたかを少しだけ。早瀬のことは、まだ話題に出なかった。


 それは、たぶん井上なりの気遣いなのだろうと、悠真は思った。だからこそ、なおさら緊張感がじわじわと染み込んでくる。何を話すんだろう。いや、そもそも何を聞かれるんだろう。グラスを傾ける手に、ほんのわずかに力が入っていた。

 

 ◇

 

 入口の引き戸がギィと鳴いた。悠真が反射的に顔を上げる。


 暖簾の向こうから、ひとりの男が入ってきた。黒いスーツに、無造作に整えた髪。昔より少し頬がふっくらした気がするが、あの頃と同じ、どこか鋭さを残した顔立ち。


 早瀬、だった。彼もまた、すぐにこちらに気づいた。けれど、表情は崩れない。


 「あ、来た来た。こっちこっち」


 井上が手を挙げて合図する。早瀬は軽くうなずきながら、まっすぐテーブルに近づいてきた。悠真は言葉を探そうとしたが、すぐには何も出てこなかった。


 「……よ」


 それだけ言って、早瀬は空いていた悠真の隣の席に無言で腰を下ろす。グラスを手に取るでもなく、メニューを見るでもなく、テーブルの上に視線を落としたまま、じっとしている。


 悠真も、何も言えなかった。言葉を探すほどに、口が固まっていく。


 「えーっと、まあ、久しぶりってことで……」


 井上が気まずさを誤魔化すようにグラスを手に取る。


 「乾杯しよっか。せっかく三人集まったんだしさ」


 3つのグラスが、ぎこちなく触れ合った。カチン、と乾いた音がして、そのあとすぐ、静けさが戻ってきた。


 「……ここの焼き鳥、相変わらず旨いよな」井上が先に口を開く。


 「……そうだな」


 早瀬が短く返す。けれど目線はまだ、テーブルのままだ。悠真は、自分の心臓の音がうるさく感じられた。あの一球を、どう言葉にすればいいのか。いや、その前に、こいつは今、俺のことをどう思っているんだろう。答えは、相手の顔からは読み取れなかった。


 井上と俺は相変わらず他愛のない話をしていた。あの日の話をすべきだと思いつつ、どう切り出せばいいわからなかった。そのときだった。


 「なあ、お前ら」


 早瀬がぽつりと言った。


 「……お前らってさ、今夜こんな話をしたかったわけ?」


 井上と悠真の手が、ほぼ同時に止まった。


 「地元戻ったとか、仕事どうだとか、草野球がどうとか。……それで終わり?」


 低く、静かだった。けれど、その声には確かな熱が宿っていた。


 「……俺、今ここに来てるの、結構でかい決断だったんだよ」


 「早瀬……」


 「別に喧嘩したいわけじゃない。たださ、……拍子抜けっていうか、正直がっかりしてる」


 悠真は、視線を上げられなかった。言葉の先が、明確だった。


 「あの試合のこと、あれってさ、もう済んだことにして、スルーしていい話か?」


 テーブルの上に沈黙が落ちた。井上が慌てるように口を挟む。


 「……いや、その話はさ、もうちょっと、ほぐれてからっていうか。今はさ、まず乾杯して、昔話でもしながら……」


 「シラフで話すから意味があるんじゃねえの?」


 早瀬の声は低く静かだったが、反論を許さない強さがあった。


 「こうやって向かい合って、ちゃんと話せるのなんて、そう何度もないだろ」


 井上は言葉を呑み込んだ。早瀬は少しだけ体を乗り出して、悠真に向き直る。


 「片桐、お前——あの試合のあと、すぐ部活、辞めたんだってな」


 その言葉に、悠真の肩が、わずかに動いた。


 「……まあ、うん」


 「そのまま、地元も出て。成人式も来なかったし、連絡も取れなかった」


 「……」


 「……逃げてたんだろ?」


 悠真の手が、無意識にグラスを握りしめた。指先に力が入るのがわかった。早瀬は、少しだけ視線を外し、今度は井上の方を向く。


 「井上、お前には……何か言ってたのか? あの試合のこと」


 井上は、短く息を止めた。けれどすぐに、目を伏せて首を横に振る。


 「……いや。何も」


 静かに返されたその一言に、早瀬はわずかに眉をひそめた。そして、グラス越しに悠真をまっすぐ見据える。


 「片桐……ずるくないか?」


 その声は低かったが、明らかに熱を帯びていた。


 「俺も井上も、それだけじゃない。あの試合に出てた連中、全員が宙ぶらりんだったんだよ。勝つにしろ、負けるにしろ、ちゃんとした終わり方ってあるだろ。あんな決着、あれっきりで、あれが最後で……。そんなの、納得できるわけねえだろ」


 早瀬の言葉が、じわじわと熱を上げていく。


 「もっと何か、けじめのつけかたがあったんじゃないか? それなのに、8年もほったらかしで——地元戻ってきたと思ったら、何事もなかったみたいにしてるってさ」


 「……それって、ずるくないか?」早瀬はもう一度繰り返した。


 「……俺の気持ちの何がわかるんだよ」


 言ったあとで、自分でも驚いた。思わず、声が震えていた。


 「簡単に言うなよ。あの一球のあと、何年、俺が……」


 言いかけて、言葉が詰まる。胸の奥が熱くなりすぎて、息がうまく吸えない。


 「逃げたとか、ずるいとか……全部、自分が一番わかってたよ。でも、だからってさ……それでも、言うのかよ」


 視線が合った。早瀬の目は、真っ直ぐだった。


 「……俺さ、あの一球——お前の目が光った瞬間、全部崩れたんだよ。……呑まれた。投げるんじゃなくて、投げさせられたって思った。自分の意思じゃなかった。……あれ、もう勝負じゃなかったんだ。逃げたのは俺だ。ボークしたのも俺だ。わかってる」


 「でもな……お前が相手じゃなきゃ、投げられてたかもしれない。お前の目が、強すぎた。完璧すぎた。……あれで、自分が偽物に見えたんだよ。ずるいよ、お前。お前だけが、本気になれた。俺は、“負ける未来”を見た瞬間、全部止まった。あれからずっと、動けなかったんだ」


 言葉がただ流れ出てきた。


 「俺は、この八年間、ずっと止まってた。あの日のままだった。でも、地元に戻ってみたらさ……井上も、お前も、普通に前に進んでてさ。草野球? 飲み会? 思い出話? ……おめでたいことだよな、本当に……いいよな。ちゃんと“その後”があるやつは」


 「おい、片桐……」

 

 井上が低く声をかける。咎めるような響きがあった。


 だが、それより早く、早瀬が言った。


 「……てめえ、俺のせいにするつもりか?」


 低い声が響く。周囲が一瞬、凍る。


 「何なんだよ、お前。一人で勝手にこけて、一人で勝手にウジウジして。……あの試合、お前のボークで勝負は終わった。でもな、終わったのはあれだけじゃねえ。俺だって——完全に調子狂ったんだよ」


 「気持ちも、体も、全部バラバラになって……焦って無理な練習して、故障して、治らなくて、結局あっけなく引退だよ。お前のあの一球で、俺の道も潰れたんだよ。それなのに、被害者ヅラしてんじゃねえぞ」


 早瀬の声が荒れたまま静まらない中、悠真は睨み返した。肩で息をしながら、絞り出すように言った。


 「……たった一球、だろ? たった一球、俺なんかのボールが飛んでこないってだけで、バランス崩すなんて、結局お前が、その程度の器だったってことなんじゃねえのか?」


 一瞬、空気が凍った。その刹那——


 「……おい!! いい加減にしろ、片桐!!」


 井上の声が、店内に響き渡った。これまでにない、怒鳴り声だった。


 「何言ってんだ、お前……! 今のはないだろ!! 誰が悪いとかじゃねえだろ! 八年も苦しんできたのは、全員だろ! お前だけが傷ついたわけじゃねえんだよ!」


 井上の目は、本気だった。ふざけ半分の軽口も、和ませようとする笑顔も、そこにはなかった。ただ、胸の底からの怒りだけが、悠真に向かっていた。


 悠真は、そんな井上を睨み返す。そして言った。


「……よく言うよ。お前だって、あのとき何も言わなかったじゃねえか。みんな俺を無視した。誰も目を合わせようとしなかった。何も言わなかった。……お前もだよ」


 井上の顔色が、ほんのわずかに変わる。


「なのに今さら、何もなかったみたいな顔して……普通に話しかけてきてさ。どの口で、“八年も苦しんでた”とか言えるんだよ」


 井上は、その言葉に何も返さなかった。目を伏せたまま、グラスに触れることすらできずにいた。沈黙が落ちる。店員が遠巻きにこちらを見ている。空気は完全に冷え切っていた。井上がようやく、短くつぶやく。


 「……悪かった」


 三人の間に、埋まらない隙間が残ったまま、会話は途切れた。そのまま、誰も言葉を続けられなかった。


 「……あの、お客様」


 店の奥から、店員の控えめな声が届いた。


 「申し訳ありませんが……他のお客様のご迷惑となりますので……」


 その言葉に、3人はハッとする。


 「……すみません」


 井上がすぐに立ち上がり、頭を下げる。悠真も、早瀬も、続けて小さく頭を下げた。


 「……出ようか」と井上が言った。


 その瞬間、悠真のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。画面を見た彼の顔が、わずかに強張る。


 「……母さんだ」 


 つぶやいた声に、井上と早瀬が自然と視線を向ける。悠真はそのまま店を出るように一歩足を踏み出し、通話ボタンを押した。


 「……もしもし」


 すぐに、母の声が聞こえてきた。震えているわけではないが、どこか、力の抜けたようなトーンだった。


 『……ごめんね。こんな時間に』


 「ううん、大丈夫。……何かあった?」


 『シロね……今、息引き取ったの』


 短い言葉が、夜風より冷たく、静かに胸に刺さった。悠真は言葉を失った。口を開こうとして、何も出てこなかった。


 『あんたが戻ってきて、ちょっとずつ元気そうに見えてたんだけどね……さっき、急に力が抜けちゃって』


 『最後、わたしの手の中だった。静かだったよ』


 「……そっか」


 やっとの思いで、それだけ絞り出す。


 『ごめんね、今言うことじゃなかったかもしれないけど……でも、知らせたくて』


 「……ありがとう。……ちゃんと、帰る」


 電話を切ると、井上と早瀬が、こちらの様子をうかがっていた。悠真は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。


 「……シロが、うちの犬が、死んだ」


 ふたりは何も言わなかった。ただ、空気がわずかに変わったのがわかった。


 「帰るわ。……今日は、悪かった」


 誰も、それに異を唱えなかった。夜の空気は、さっきより少し冷えていた。その中を、悠真はゆっくりと歩き出した。


 ◇


 玄関のドアを開けると、父と母がリビングのソファに並んで座っていた。その足元、静かに布をかぶせられた小さな白い体。


 「……帰ってきたか」


 父がぽつりとつぶやき、母はそっと立ち上がって、キッチンの方へ向かった。


 「お茶、淹れるね。あんたも疲れたでしょ」


 「……うん」


 悠真は、ゆっくりとリビングに入った。目の前には、もう動かなくなったシロ。小さな呼吸も、温もりも、もうどこにもない。


 「静かだったよ。……苦しまなかった」


 母が湯飲みを差し出しながら言った。悠真は黙ってそれを受け取り、布のかかったシロの横に腰を下ろした。


 両親が、ポツリポツリと、シロの思い出話を始めた。微笑みながら頷いてみせたが、思い出せるのは、全部“昔の話”ばかりだった。

 

 大学進学と同時に地元を出て、成人式にも帰らず、ずっと帰省を避けてきた。

 

 ——俺には、“最近のシロ”が、何もない。


 父と母が語る、老犬としての仕草。白い毛に混じる黒ずみ、歩き方のくせ。

 そのすべてが、自分にとっては他人事のようだった。


 (……そりゃ、懐かれるはずがないよな)


 静かに顔を伏せ、湯飲みに目を落とす。


 (これが、俺が逃げ続けてきた“結果”なんだろうか)


 (自分で自分の場所を無くして……時間ごと、思い出ごと、全部手放して……)


 息を吸い、ゆっくりと吐く。夜は静かすぎて、時計の音がやけに響いていた

 

 ◇


 朝日が、薄く庭を照らしていた。土の匂いが、ゆっくりと空気に溶けていく。


 シロを埋葬する場所は、庭の片隅だった。かつてよく日向ぼっこをしていた場所。夏になると、蝉の声がやかましいほどに響く、小さな空間。


 父と悠真でスコップで地面を掘り、母が用意した白い布に包まれたシロを、そっと置いた。その横で、悠真も黙って手を合わせた。


 すべてを埋め終えたあと、三人はしばらく無言で立ち尽くした。庭先から戻ると、母は台所で湯を沸かし、父はソファに腰を下ろした。それぞれが、どこか“普段どおり”の空気を取り戻していた。


 もちろん、完全な日常ではない。部屋の隅にはまだ、さっきまでの沈黙の余韻が残っていた。けれど、それは“悲しみに支配された空気”ではなかった。むしろ、何かがすこしだけ、整ったような静けさだった。


 「……悠真がいる時に、ちゃんと弔ってやれて良かったね」と母が言った。その言葉が、悠真の胸にふっと染み込んできた。


 (——弔い)


 その単語が、はっきりと頭に浮かぶ。


 (そうか。……弔いか)


 悠真は立ち上がり、ポケットからスマートフォンを取り出す。井上の名前をタップし、メッセージ画面を開く。


 【昨日は悪かった。……今、ちょっとだけ話せるか?】


 送信ボタンを押したあと、しばらくそのまま画面を見つめていた。


 ほどなくして、井上から「今いいよ」と返事が来た。悠真は自室の椅子に腰を下ろし、深く息を吐いてから電話をかけた。


 「……おう、片桐」


 「……昨日は、悪かった。俺がぶち壊した。せっかくの再会だったのに……空気も何も、全部めちゃくちゃにした。ごめん」


 井上は少しの沈黙のあと、静かに言った。


 「……いや。まあ、言いたくなる気持ちも、わからんでもなかったけどな」


 井上は続けた。


 「ただ、一つだけ言わせてくれ。昨日、俺たちが無視したって言ったけどな。それは違う。少なくとも俺は違う」


 井上の声は、短く、でもはっきりしていた。


 「どう声かけていいかわかんなかっただけだ。……怖かったんだよ。壊れそうなお前を見て」


 そうだったのか、と悠真は思った。自分は何か、大きな勘違いをしていたのかもしれない。


 「……そっか。俺が、あの時みんなとちゃんと話せていたら良かったのかもしれないな」


 井上は言った。


 「……俺もな、八年間、ずっと“やり直したい”って思ってた。最後のサイン、ストレート出したろ? “行け”って、強気に。あのせいで、あんなことになって、俺のせいだと思った。それで、余計に声をかけられなかった」

 

「お前が何も言わないから、俺も何も言わずに済んだ。その方が、楽だったんだよ。……最低だろ?」


 悠真は少し黙ったあと、かすかにうなずいた。


 「……いや。お前のおかげで、俺……“全部一人じゃなかった”って気づけたよ」

 

 スマートフォン越しに、井上がふっと息を吐く音が聞こえた。


 「……そういうの、ちゃんと話せて、よかったわ」


 しばらく、どちらも黙っていた。

 

 「シロ……どうだった?」と井上が言った。


 「……朝、庭に埋めた。家族で、見送ったよ」


 「……そうか。そうだったか」


 井上の声が、いつになく柔らかく響いた。少し間を置いてから、悠真は切り出した。


 「……俺、気づいたんだ。ずっと、あの試合から目を逸らしてきた。投げなかった一球から、逃げ続けてた。でも、昨日……というか、シロを見送って、思った」


 「試合は、もう終わってしまった。やり直しなんてできない。あの日には戻れない。でもさ……それでも、“弔う”ことはできるんじゃないかって思ったんだ。俺たちの、あの試合。俺が投げられなかった一球。……それを、ちゃんと弔ってやれないかなって」


 電話の向こう、井上はしばらく黙っていた。少しして、電話の向こうで、井上がふっと笑ったような気配がした。


 「……お前、いいこと言うじゃねえか。……で、どうすんの? 具体的に」


 そう聞かれて、悠真は一瞬、言葉に詰まった。何も考えていなかった。


 「そうだな……“弔い”っていえば、やっぱ通夜とか、葬式とか……みんなで集まって、その人の思い出語ったり、坊さん呼んだり……とか、かな……?」


 話しながら、自分でも少し変だなと言う気がしてきた。案の定、井上が吹き出した。


 「……坊さん? 戒名とかつけるか? “一球不投居士”みたいな? シュールすぎるだろ!」


 「やめろよ……真面目に言ってんだよ、こっちは」


 「いや、わかってるって。でもさ……」


 井上はひと呼吸置いてから、言った。


 「——だったら、もっと楽しくやろうぜ。俺ららしく。弔い合戦ってのは、どうだ?」


 「……弔い合戦?」


 「そう。ちゃんと集まってさ、野球やろう。草野球でも何でもいい。お前が投げる。あの日投げられなかった一球を、今度こそ投げきる。それだけで、弔いになるんじゃねえか?」


 静かだった空気に、ふっと熱が灯ったような気がした。


 「お前の“終わらせ方”、それでいいんじゃねえかって思うんだよ」


 「……弔い合戦、か。いいな、それ。でもあの時のメンバーを集めるなんて……」


 悠真が呟くと、井上が声を上げた。


 「よし、じゃあ俺が一肌脱いでやるよ。早瀬にも声かける。あと、あの時のチームメンバーにも。どれだけ集まるかわかんねーけど、なるべく揃えるように動くわ」


 「早瀬の高校の連中はまあ……他県だし無理だろ。でも、足りない分は俺たちの草野球チームのメンバーにも声かける。事情を説明したら、協力してくれるだろ。……それで、ちゃんと“あの試合”を終わらせようぜ」


 悠真は、電話を握る手にじんわりと力が入っていくのを感じた。この8年間、胸の奥に刺さっていたものが、今ようやく動き出そうとしている。


 「……ありがとう、井上」


 「礼はいい。代わりにひとつ」


 「なんだよ」


 「片桐、お前はしっかり体、作っとけ。ヘロヘロの球投げてみろよ? あの試合も、あの一球も浮かばれねえぞ!」


 「……頑張ってみるよ」


 「おう。バッテリー組んでたんだ。俺の目は誤魔化せねえぞ。頼んだぞ、“最後の一球”」


 電話を切ったあとも、悠真の胸には井上の声が残っていた。久しぶりに感じる、誰かに“託される”重さ。


 ——今度こそ、逃げずに投げる。

 その思いだけが、胸の奥でしっかりと火を灯していた。


 ◇


 試合当日の朝。町の総合運動公園。中規模の土のグラウンドに、集まってきた面々の声が響いている。全員は無理だったが、それでも当時のメンバーが思いの外集まってくれて、嬉しくなる。


 ベンチの端では、悠真が着替えを終え、静かにストレッチをしていた。まだ冷たい朝の空気が、肺の奥をじんと刺激する。


 「どうだ、調子は?」


 後ろから声をかけてきたのは井上だった。ジャージ姿にキャップをかぶり、軽くバットを肩に乗せている。


 「……まあ、頑張ってみたよ。走ったり、投げたり……でもやっぱ、当時みたいな球は無理だったな」


 そう言って、悠真は苦笑した。


 「ちょっと投げてみてくれよ」そう言われて、一球投げた。


 「上出来だよ。8年ぶりでここまで戻せるやつ、そうそういねえって」と井上は言った。


 そして、声を落としてニヤニヤしながら続ける。


 「早瀬もな、いつも草野球チームじゃ偉そうに、じゃなかった、威張ってる、でもなかった、元プロの風格を出してるけど、やっぱりあの甲子園の時みたいな、キレキレの感じはねえもんな」


 「そうか、なら大丈夫かな」


 「ま、今日はあいつも本気で集中してくると思うけどな。——片桐相手だからこそ」


 悠真は、ほんの少しだけ表情を引き締めた。


 ユニフォームの袖口を整えながら、思い出す。試合までの数日の間、井上から聞いたことがあった。


 ——「早瀬も賛成してくれたよ」

 ——「あの飲みの夜のあと、ちゃんと詫びの言葉もあった」

 ——「本気の一球、見せてくれたら、全部水に流してやるよ」


 それが、早瀬の返事だった。条件はたったひとつ。言葉じゃなくて、投げろ。それだけだった。


 悠真はマウンドを見つめる。あの日、最後まで立ち尽くした場所。今度は、自分の足で向かっていく場所。


 「さ、そろそろシートノック始まるぞー」


 井上の声が響き、チームの面々がぞろぞろとグラウンドに散っていく。


 (——今度は、ちゃんと投げる)


 その想いだけが、胸の奥にしっかりと宿っていた。


 ◇


 試合は、のどかに進行していた。井上が「楽しくやろうぜ」と言ったのもあり、ベンチでは、缶コーヒーを片手に「回ってくるなよ〜」「お前こそ打てよ!」と冗談混じりのヤジが飛ぶ。明らかに“勝敗”より“久しぶり”を楽しんでいる空気。休日の午後。風もゆるく、木々がざわめいている。


 だが、その空気の中で、ひとつだけ濃度の違う空間があった。


 マウンド上の悠真と、バッターボックスに入った早瀬。


 時間が、ねじれるように静かになる。

 周囲の音が、どこか遠くに引っ張られていく。


(……あの日と、同じだ)


 満塁。二死。バッターは早瀬。マウンドには自分。キャッチーは井上。


 足元の土。汗ばむ手のひら。背中をなぞる、ぞわりとした冷気。あの時と、すべてが“同じ”に思えた。


 井上からストレートのサインが出る。早瀬と視線がぶつかる。その一瞬が、永遠のように続いた。


 一瞬の静寂ののち、左足を上げる。腰が回転し、渾身の力を込めて腕を振ろうとした、その瞬間だった。

 早瀬の目が、光った。甲子園のあの時のように。


 ぞくりと背中が波打つ。時間が止まる。音が消える。


 (……呑まれるな)


 身体の奥から、声がした。あの日、投げられなかった。投げたら、負ける未来が見えたから。“投げさせられる”ような感覚が、怖かった。


 でも今は違う。


(これは、俺が投げる一球だ――あの日の続きを、“自分の手”で終わらせる)


 視界の輪郭がにじむ。胸の奥が、音もなく収束していく。


 ボールが、指を離れた。その瞬間、胸の奥で、何かが“ほどけた”。


 ——カキィン!


 乾いた音が、グラウンドに高く響いた。打球は、センター方向へと大きく舞い上がる。太陽の光を浴びながら、ゆるやかに弧を描いて、外野の芝へ落ちていく。


 ベンチから歓声が上がった。仲間たちが拍手している。でも、悠真の耳には、風の音しか届いていなかった。


 早瀬がバットを置き、悠真に歩み寄ってくる。


 「これで、ちゃんと試合が終わったな」


 それだけ言って、早瀬は振り返り、ベンチに戻っていった。


 観客なんていない。ただの草野球の、ただの一球だった。けれど、ようやく、時間が動き出した。


 あの日止まったままだった腕が、今日は振り切れた。恐怖と共に立ち、恐怖ごと投げきった。それが、すべてだった。


 試合は続いている。でも悠真のなかでは、もう終わっていた。

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まだ、投げていない 水城透時 @wondersp

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