私は読書感想文が書けなかった

大葉 稚拓

はじめに

 私は読書感想文が書けなかった。小学校、中学校の時に夏休みや冬休みの課題として読書感想文があった。何という本を選び、どんなことを書いて提出したか覚えていない。なんなら国語の授業で読まされた小説やエッセイに対しても感想を持つことは殆どなく、「作者の気持ちを答えよ」という問いにも碌に答えられず、適当に書いとけばよい解答蘭をいつも白紙で出していた。怒られたこともある。白紙で出した解答用紙に「何でもいいから書けば点を上げられたんだぞ」と言われ、傷ついたりもした。もっとも読書が習慣として身についていなかったこともあるが。


 そんな私が最近になって本を読んでいると、昔に比べて考えながら読んでいることに気付く。ちょっとした読書サークルに入っているのだが、そこで読んだ本の感想を投稿してメンバーと共有している。その感想の投稿で妙に言葉が沢山出てくる。面白半分でとある小説の感想を1000字くらい書いたことがある。自分自身そんな沢山書けるとは思っていなかった。読んだメンバーからも「何でそんなに書けるんですか?」と言われたほどだった。1000字という文字数自体はさほど多くない。手元にある小説の1ページ辺りの文字数は約800字であり、400字詰め原稿用紙2枚ほどである。一冊の本と比較すれば大したことは無いのは明白だ。だが他のメンバーが投稿した感想文はあっさりしたものである。それ自体には不満は無い。しかし、どういう印象を持ったのか踏み込めないもどかしさを感じてる自分もいる。それも以前の自分にはありえないことだった。


 ある時、夏目漱石の『こころ』を読んだ。作者名や表題だけしか知らなかった小説を気まぐれで読もうと思ったことがきっかけだった。世間では暗い話という印象を聞いていたが─確かに自殺をテーマにしているが─私はそれ以上に夏目漱石の文章の心地よさに感心した。

 読み終えた時に考えたことがある。この小説の表題を知らされずに読まされたとする。読み終えた後に「この小説の表題は何だと思いますか?」と問われたら、私は恐らく『先生と私』、『遺書』などと答えたんじゃないかと思う。しかし正解は『こころ』である。なぜ夏目漱石はこの物語に心(こころ)と名付けたのか、書き始めから『こころ』だったのか、元々は別の表題で書いている途中で『こころ』になったのか。だが『こころ』が表題だと言われても納得ができるのである。絶妙な言葉選びであると感心している自分がいる。それこそ小中学生が宿題として出されているような問いかけに私は考えさせられてしまった。偶発的にも作者の気持ちを考えてしまったわけである。


 今まで読んできた本のこと。作者・著者のこと。自分のこと。あの時私に求められていたことが今になってできるようになった気がするのだ。

 あの時書けなかったこと。書くべきだったこと。書きたかったこと。400字詰め原稿用紙を前に苦労していた私が今何を考え、どこに興味・関心を抱き、新たに何を学んだのか、それを知るために投稿に至った。殴り書きでもいい。何文字でもいい。私は今、読書感想文が書きたい。

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