天変地異 Ⅲ
レーテーと対峙する、その目的。
おれ達の目的は、レーテーを殺したり打ち倒すことではない。そんなことをしたら、忘却という概念自体が掻き消えて、生き物の記憶がパンクして狂ってしまうから。
ただ、このまま放っておくと人間や人間の営みそのものがレーテーの手で消えゆくのを黙って見ていることになる。…あと、多分シオンもこのままだったら誰にも覚えられず消えることになる。
…昔のおれみたいな空虚を抱えて生きる、人間みたいにレーテーに食べられて終わりではない存在だって、きっと他にいる。
…だから、目を背けるという選択肢よりも意思の天秤が傾いたのがレーテーを止めるって選択肢だったって話。本当に、それだけ。
夢の世界。現と夢を繋ぐ曖昧な空間。
そこに小さな亀裂が入って、水が流れ込んでくる。
「…来る」
行くよ、と胸元に抱えている人間――御影堂紫苑に呼びかける。彼女も、少しだけ頷くような仕草を見せた。
レーテーの現れたあたりの空間の裂け目からだば、と水が溢れて全てを飲み込む。おれはそれを防ぐように足場を少しずつ創っていく。水に浮かぶための舟も創る。
「あらあら、まあまあ!一番年若いお兄様と…追憶の蔵書庫。この旅路は貴方方が導いてくださるのね」
話してる最中にも、おれの世界の可愛らしいオブジェや眷属たちは掻き消えていく。おれがこの子達のことを忘れたんじゃない、レーテーがここを侵食しようと、夢ごと消し去ろうと足掻いているからだ。
「…旅路、こんなに景観をすっきりさせたら楽しくないと思うんだけどな。おまえも粘るね、そんなにこの世界に閉じ込められたのが気に入らなかった?」
「いいえ、いいえ。嬉しいのよ。わたくしが昔に話したことのある小さなあなたがこうして自分の世界を持っていること、とても素敵だわ」
じゃあその目をなんとかしたらどうなの、と言いたかった。胸元に抱えているシオンにずっと彼女の視線が注がれていて、自分がされていることじゃないのに殺気立ちそうになる。
レーテーの侵入の所為で、すっかり周りは川を通り越して一面の湖のようになっていた。そろそろ海にも近い大きさになるか、というところだ。
レーテーが腕を揺らめかせた瞬間、波打つ水流がこちらに向かって来て、船を揺らす。…ここで恐怖心を持ってはいけない。夢の世界は想像力でどうにでもなる。それは時にこちら側にとって有利に働くし、とても不利に働くこともある。
どぼん、と音がしてこちらの舟の先まで来ていた水流が堰き止められる。
…空間施錠の術式で水流が止められていた。
「…まあ、素敵、素敵素敵…!追憶の蔵書庫、貴女って本当に一筋縄ではいかなくて、それがあの方とよく似ているのだわ……。ええ、本当に素敵よ。」
あの方、という言葉を出した時にレーテーの瞳が一瞬翳ったのが見えたのを、おれは見逃さなかった。
…ここからだ。
「…ねえ、レーテー。おまえは元からそうやって人間の家族の役割を真似ようとはしていなかったよね。おれの時は、本当に食事として食らうだけだった。……おまえにその役割を持たせた人間の残骸を、おれは持ってる。取引をしよう」
手元に出したのは――菊谷の遺体と一緒に見つかった彼の遺品である、丸眼鏡と算盤。
――その言葉のあと、レーテーの持つ殺気のようなものが膨れ上がるのを感じた。肌がぴり、と痺れるようなそんな感覚がする。
「…あぁ、ああ、ああ。あの方の持つ眼鏡と算盤だわ。間違いない、間違いようがないの。そうよね、わたくしがあの地に降りた時もその気配がしたのよ。……これと引き換えに一体何が欲しいのかしら、かわいい人。」
「…シオンと、…御影堂紫苑と話してみて欲しい。その肩口には絶対に歯を立てないで、そしてちゃんとこっちに返して」
御影堂紫苑は、表情を崩さない。ぼんやりとレーテーの方を見て頷く。
「……ふふ、お話の時間をくれるのね。そうよね、わたくしは本来ならこの子のおかあさんだったもの。引き離されるなんて、おかしいものね」
彼女が、レーテーの方へ歩く。レーテーはそこに足場を作り出し、そっと御影堂紫苑を抱き寄せる。
レーテーがとても幸せそうにして、彼女の目を覗き込む。その時に、御影堂紫苑が口を動かして発した言葉と言えば。
『……おかあさん』
その次の瞬間に、レーテーはその身体に食らいついていた。
「――まあまあ、まあまあまあまあまあまあ…!!!あなたも、わたくしのこどもになりたかったのね、わたくしもそうよ、あなたをわたくしの、わたくしの……。…?」
彼女の食らいついた御影堂紫苑の身体からは――ピニャータよろしく大量の飴玉とグミが溢れ出していた。
「食べたね、駄目だって言ったのに。」
「…あなた、わたくしに、なにを。」
「ちょっとだけ動けないように小細工をしただけだよ、苦しむような毒じゃない」
そうだよ、ほんの少し考えれば分かることだ。…おれがシオンをこの人に渡すわけないじゃない。
今だよ、とおれが叫ぶと、そこに拡声器を持った藤髪の少女――本物のシオンが遥か上から降ってくる。
「…
目を見開いたままのレーテーとおれとシオンの姿は眩しい白い光に包まれて、そのままホワイトアウトした。
レーテーの精神世界には、本当に何もなかった。宝石やビーズの砕けた作りかけのアクセサリーが、完成しないで積み上がって置いてある。…その中に、亀裂の入った藤色の宝石が大切にしまわれていた。
レーテーが、呻くように、怯えるように云う。
「…だめ、それには、どうかお手を触れないで。触れたら砕けてしまうの、なくなってしまうの。“わたくし”には、これだけなの……」
おそらく、これはわたしの祖父――レーテーの形を母として形作る元になった菊谷の記憶なのだろうと推測がつく。本当に、彼女は弱っている。でも、ここで手を緩めてはいけない。でも、彼女の言う通りになにもかも壊したくない。だってそれは、ここまでレーテーに血を流させずに戦ってくれた大切な人達のことを裏切ることだから。
……記憶を壊す以外の方法で、この人を救うことだって、きっとできるはすだ。
「触れない、ですよ。大切なものなんでしょう。」
「……?」
「少し、預かりますね。手は、触れないように。」
「ああ、だめ、だめなの、それは駄目なのよ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「大丈夫です、…大丈夫ですよ」
この人の眠りは、深いものになる。ヒュプノスとオネイロスがいてくれる、タナトスが斬り落とした髪が伸びるまで、まだずっと長い時間がかかる。
「……
がちゃりと音を立てて、その記憶に鍵をかける。
記憶に鍵をかけるということは、外から干渉できなくなるということ。…これで、レーテーは自分が母になりたいと思って行動を起こすようなことは、きっとなくなる。
元の、レテの河に棲む高位な水の精に戻るだけ。
「わたくしのたいせつは、なくなってしまったの?見えないわ、悲しいわ。わたくし、あの人とはもう一緒じゃないの…?」
「ずっと、一緒ですよ。見えないものでも、一緒にいてくれているんです。私がこうして守っているんだから、あなたの記憶に傷がつくことなんてないですよ。だから、泣かないで…。」
ほろほろ、と涙を流す彼女にラベンダーの花の刺繍がされた白いハンカチを貸す。レーテーはこちらを見上げて、逡巡する仕草を見せる。
「貴女がそう言ってくれるなら、きっと…そうなのかもしれないわ。わたくし、貴女と出かけた時はほんとうに楽しかったのよ。何を思い出して楽しかったかはもう言えないけれど、楽しかったの…」
レーテーが言っているもう一つの記憶は今先ほど鍵をかけた、菊谷の記憶のことだろうか。こんな恐ろしい存在に真正面からぶつかっていったあの男は、本当にすごいと思った。…皮肉と尊敬も込みで。
オネイロスがすっとその後ろから顔を出す。ずっと待ってくれていたようだった。
「…お腹、空いたでしょ。おまえもさ。何か食べたいものはある?…夢の中で、サービスしておくよ」
「……そうね、親子丼が食べたいの。この子が、――紫苑が、食べさせてくれた大切なのよ」
「…了解。じゃあ、ここからはおれがやるね」
オネイロスが、静かに文言を唱え始めた。それもとても、優しい声で。
「この夢が、おまえの終わりのない孤独に寄り添う灯りになる。」
「どうか終わりの時まで、幸せな夢を見て。」
「
レーテーが、微笑んで目を閉じる。
この人は、きっと幸せな終わりを迎えられただろうか、そう思って、泡と溶けていくような夢から目を覚ました。
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