Episode0:御影堂薬師

人助け、善行、それらは全て衝動だった。

 

ヒーローと言う言葉は、この擦れきった世間では皮肉の類だし呪いだし勝手なラベリングだが、俺は弟から貼られたそれが嬉しかった。


「おにいちゃんはぼくの、ひーろーだ!」 


弟の菊理は、小さい頃から好奇心が旺盛ですぐ自分だけじゃできないことに手を伸ばしては困ったような笑顔をして、その顔のまま足掻けるだけ足掻いていた。諦めが悪い男だったのだ。

 

それで俺の気質が丁度、困っているような人間を放っておけないというそれだったので――助けられない時はあっても、俺と菊理はよく一緒にいた。2つほど歳が離れていたが仲のいい兄弟だと小中高のどこでも話題になるくらいには。


「兄さんはほんと、僕のことをいつも助けてくれるね。…そろそろ他の人のことも助けに行ったほうがいいんじゃないの、僕だってヒーローを独り占めするのは本意じゃない」

「バカ言え、大体お前が身の丈に合ったことだけしてりゃあこうは…いや、お前は俺より頭いいし身の丈には合ってんのか。でもマジで無茶ばっかしてるじゃねえか。俺が来なかったらどうなるかとか考えねえのかよ、菊理」


菊理が首を傾げる仕草をする。――この仕草の後、こいつは大抵碌なことを言わない。


「でも助けに来てくれるでしょ、薬師兄さんは」

…これだ。これだからこの弟は。


「…昼休み、終わっちまうぞ。早く戻れ。」

「はーい、兄さん。またあとでね。」


こんな具合で、俺と菊理はずっと距離が近かった。

こんなに菊理を気にかけていたのも、元はというと母―御影堂薊から頼まれてのことだった。


「薬師と菊理のお父さんを連れて行ってしまった怖い生き物にいつか食われてしまうの、あたしも。…だから、あたしがいなくても大丈夫になって。」

 

…母の言っていた怖い生き物というやつについては、俺は何回か話を聞いていた。黄色い鱗と大量の水跡を残して去る、幼女の形をした化け物。でも、母はこんな事も言っていた。


「“女神様”から菊谷くんを奪ったから、本当はあたしが悪いんだよ。だから、あたしが食べられる時はちゃんと謝らなくちゃ。ちゃんと、目を見て。」


奪う……薊は、母親であるという色眼鏡で見なくとも彼女はそんなことは到底できなそうな大人しそうな女だった。


そんなことを言っていた薊も、俺が45になった頃には少し張り詰めていた気持ちが緩んで、安心していたように見える。


だが、それを嘲笑うようには不意に訪れた。




母の薊と俺は二人暮らしだった。菊理は家庭を持って、家を出ていったから。あいつが元気そうな嫁さんを連れてきた時は、本当に驚いたっけ。


10月16日のあの日、15時の時間に合わせて帰ってきて、インターホンを鳴らした時。


「ただいま。…母さん?寝てるのか。…おい。」


しばらく返答がなかった。ドアを開けようとすると内側から鍵がかかっている。…その時、俺は気付きたくないことに気づいてしまった。


「…なんで、ドアノブがこんなに濡れてる。」


すぐに鍵を開けて中へ押し入ると、母のいつも座っているロッキングチェアがびしょ濡れになっていた。その下には砕けた花の髪飾りに、…黄色い鱗が4枚散っていた。


――やられた、と思った。

こちらを油断させてから、全てめちゃくちゃにする算段だったのか、とも思った。話に聞いていた通りだ、俺がいなくなった時を狙って、無抵抗の母だけ食らうだと。


俺が居たら、何か変わっていたのか?


…いや、そんなことはない。これも所詮タラレバ話というやつだ。俺だってその場に居たらきっと足が竦んで動けなくて、母がもっと苦しんでいたかもしれない。


……もう一つ、気にかかることがあった。

菊理はこの化け物のことを知らなかったはずだ。だって、薊は俺にしかこの話をしてない。


――菊理、菊理、きくり、きくり。

なあ、前にガキが出来たって言ってたよな。嫁さんもいるだろ。今俺がいたら、俺が居たら。


お前の本当に助けてほしい時に現れるヒーローに、俺はなれるかもしれないよな。


車を出して、菊理の住む家まで走る。

時間は、片道1時間程度。


間に合え、と思いながら車を走らせた。



車を走らせること、50分程度。

そのまま菊理の住む家にある住宅街に入った。

「……ひっでえ雨だな、こりゃ」


菊理の住む市に着いてからは、ずっと酷い雨が続いていた。

さっきのびしょ濡れになったロッキングチェアを思い出して、嫌な気持ちになる。


通りがかったスーパーから、人が出てきた。

「…菊理」

よかった、まだ生きている。まだ化け物に食われてない。菊理は嫁さんと一緒にいて、そのまま駐車場の方へ歩いて紺色の車に乗り込んだ。



ちょっと、不審かもしれねえけど。

俺は車を駐車場の方へ入れてから、菊理の車のすぐ後ろを走った。最初こそ対向車がいたが、住宅街の区域に入るにつれて車は減っていった。


それにしたってずっとあとをつけてくる車が居たら怖いだろうしな、と少し遠くの料金制の駐車場に車を駐めてから彼等の居る方へと、歩く。


 

菊理の声は雨音のせいもあり小さくてよく聞こえないが、嫁さんの方の声は遠くからでも聞こえる。

誕生日、だとか、そういう声が聞こえた。この家の誰かが誕生日なのか。菊理は冬だから、嫁さんかここの家のガキのどっちかか。


ああ、よかった。あいつは元気そうだ。久し振りに声をかけてやりたい。嫁さんにも、挨拶がしたい。


「…きく――」


彼の名前を言い切る前に、彼らの足元がひずんだ。


「…!?」

どう考えても、それはおかしい光景だった。

歪んだ足元に、足場だったところに。黄色い大きな魚がいる。それが、ずるりと音を立てて全身で菊理とその妻を囲む。


車で来ていたら、この魚も轢き殺せていたかもしれないのに。でも、今の俺にできることは足止めくらいだ、とやけに冷静な頭の中の俺が言った。


「菊理!!!!こっちだ、こっちに来い、菊理。嫁さんも、ほら――」


声の限り、叫んだ。

その時に菊理と嫁さんがこちらを見やる。


 

その目は、濁った空虚を映していた。



そこからの記憶は、正直あまりない。

弟とその配偶者を見殺しにしたという最悪の気持ちでめちゃくちゃになりそうで、しばらくゴミ集積所の前でぼんやりしていた。


すると、遠くから背の高い…高校生くらいだろうか、という少女が歩いてきたのが見えた。


――その頭髪は、御影堂の血を引く人間特有の藤色の髪をしていた。


「………居た。」


この少女の事なら、まだどうにか救えるかもしれない。俺はあいつほど粘り強くは足掻けないけど、それでもまだできることはある、そう思った。


こいつは、帰ってきた時に両親が居なくてきっと苦しいだろう。あんなに無邪気に話す嫁さんと俺の信頼している弟が親なんだから、きっとそうなはずだ。


最初だけは、手荒になるかもしれない。

それでも、今のあいつにとって必要なのは。


「俺は、ちゃんとやるべき事をやるよ。母さん、…菊理。」


きっと手を差し伸べてやる大人なんだ。


俺は、駐車場の方へ走って車を取りに行った。今度こそ、今度こそ。

この子供にも訪れる終わりに、抗う為に。

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