あいの記憶

入夏千草

第1話 少女は扉を開ける

 窓から差し込む、橙色の夕焼けが、冷たい部屋を染め始めたころ。

 わたしは窓ガラス越しに空を見ながら、ベッドの上で三角座りをしていた。

 いつもなら机に向かって、勉強をしている時間。でも昨日も今日も、まるでやる気にはなれない。

 だって……。

「――ねぇ、なんでそんなに受験にこだわるの?校区内の中学校でいいじゃない。受験もないし、仲のいい友だちはみんな、そこに行くってアイは言ってた……なのにあなたは、無理やり引きはがすの?」

「そうは言ってない」

 少し早口の、熱のこもったお母さんの声と、低く、淡々としたお父さんの声。

「実際そうでしょ。あの子は頭がいいけど、それでも今の成績じゃ、その学校は……ギリギリよ」

「アイが受験したいと言ったんだ。いずれ、高校受験もある。もし落ちたとしてもいい経験になるし、おれはなにより、アイのせっかくの挑戦する勇気を、無駄にしたくないんだ」

「でも……」

「合格したとして、アイは話し上手だし、どこでも友だちは作れるさ」

「そういう問題じゃない!」

 お母さんの言い放った金切り声に、わたしはびくりと肩を震わせる。

「あんな進学校、入学させるのにいくらかかると思ってるの⁉︎塾にだって大きなお金ばかりつぎ込んで、結果は出てないじゃない!」

「まだ通わせて三週間だぞ?そんな簡単に、結果なんか出るか!そもそも塾に通わせるのは、おまえも賛成しただろ!」

 リビングから聞こえる二人の張り上げた声が、ビリビリと空間を震わして、となりにあるわたしの部屋まで伝わる。

 徐々に勢いを増していく、その声の恐ろしさは、わたしに向けられたものでなくても、ひどく頭に響き渡って……。

 いやだ、もう聞きたくない!

 膝に埋めていた顔を上げると、正面の机に置かれた写真立てが目に入った。

 それは、おとといのわたしの誕生日に撮った、家族三人の写真。けど、影になって表情を見ることはできない。

 真っ黒な三つの顔は、わたしの心に不安を抱かせた。

 みんな、笑っていたはずなのに。おとといまで、あんなに幸せだったのに……。

 次の瞬間には、わたしはそろりと部屋を出て、玄関でくつをはいていた。

 扉を隔てたリビングからは、今も言い争う声。

 ずっと息がしづらい。ここではもっと……。

 迷いのない足は、二人の声から逃げるように、静かに扉を開いた。

    *

 冷たい風を切りながら、ひたすらに走り続ける。

 学生服を着たお姉さんたちや、自転車をこぐおばあちゃんが、不思議そうにちらりとわたしを見たけど、そんなことは気にしない。

 わたしは止まらなかった。

 二人の声が、頭から離れなかったから。

 その声を振り払うように、わたしは強く頭を振り……。

 カンッ

 なにかが落ちた音がして、わたしははっと振り返った。

 後ろに落ちていたのは、赤いガーベラのデザインがほどこされたヘアピン。

 わたしは慌てて駆け寄ると、ヘアピンを拾い上げ、再び前髪につけ直した。

 ほっと息をつく。

 気づかないまま走り抜けていなくて、よかった……。

 わたしは歩道の真ん中に立ち止まったまま、何度か深呼吸する。

 息をするたびに、空気が脳をすぅっと冷やして、さっきまでの底なしの不安は薄らいでいった。

 ――よし、だいぶ落ち着けた。

 周りを見渡すと、いつも友だちと遊ぶどんぐり公園が、道路を挟んだ向かいに見える。

 そこまで家からは離れてないみたい。

 無我夢中だったから、もっと遠くまで来てると思ったけど……。

 わたしは家のある方向を、そっと見つめた。

 二人とも、まだケンカしてるのかな。わたしが家を出て行ったことさえ、気づいてないだろうし。

 どうしよう、このままずっと、ピリピリしたままだったら……。

 ……帰りたくないな……。

「……そうだ、駄菓子屋のおばあちゃんに相談しよう。きっと、いい解決策を教えてくれる」

 わたしはわざと声に出して、明るく言った。

 不安な心をごまかすように、早口に。

 そう、大丈夫よ、思い出すの。楽しい、たくさんの思い出を……。

「そういう問題じゃない!」

 ふいに、お母さんの怒鳴った声が、頭から足の指の先いっぱいまで響いた。

 瞬間、頭が真っ白になる。

 あれ、なんで……楽しかったこと、いっぱいあったはずなのに……思い出せない。

 さっきの不安が頭を埋めつくし始めて、心臓がギュッとなる。

 次第に歩く足は、速くなっていく。

 おばあちゃんに、早く聞いてもらわなきゃ。助けてもらわなきゃ!

 そしてまた走り出した。

 横断歩道を渡り、空き家を横切り、道路からそれると……見えてきた、駄菓子屋だ。

 つたの張った壁に瓦屋根、普通の家の、その一階。

 あとは扉を開くだけ――……。

「えっ?」

 だけど、わたしは扉の前で立ち止まってしまった。

 目の前には、木製で飴色の扉。縦に、四つの大きな丸い磨りガラスがはめ込んであり、上から順に黄色、赤色、青色、橙色。

 ちがう。扉が、いつもとちがう。

 駄菓子屋の扉は、磨りガラスの引き戸だったはず……知らない間に、新しくしたの?

 首を傾げながら、つやつやとしたその銀色のノブを握ると、一気に扉を開けた。

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