海は遠きにありて

青雨

第一章 1

アレクサ、母は言った。

「本家のひとたちの言うことに、逆らってはいけません。私たちが行くところに、他に行き場所はないのです。だから、本家のひとたちに逆らってはいけません」

 だから、そうした。なにをされても、なにを言われても、逆らわなかった。

 どんなひどいことをされても、どんな罵倒の言葉をかけられても、じっと耐えていた。

 死に際、母は言った。

「アレクサ、耐えて。私がいなくなったら、あなたはひとりになってしまう。どうか、耐えて。あなたは海の巫女の才を持っていない。だから、ここにいさせてもらうには、耐えていくしかない。お願い、アレクサ」

 そう言って、アレクサの手を握り、息絶えた。

 幼いアレクサは自分に言い聞かせた。

 生きていためには、ひたすら耐えるしかない。なにをされても、なにを言われても、このお屋敷に置いてもらうには、耐えるしかないのだと。

 しかし、そんなことはもう慣れっこである。

 本家の奥様のいじめにも、妹の嫌味にも、目を瞑ってただひたすら過ぎ去るのを待っていればいいだけだ。

 悲しい顔をすると、屋根裏部屋に閉じ込められた。

「ごめんなさいごめんなさい。もうしません。だから出して。ここは恐い」

 時には、二日間そこに放置された。食事が出ないこともあった。

 それでも、じっと耐えるしかなかった。

 ただ、母がいなくなったことだけが辛かった。

 それだけが、大打撃であった。

 そうして、アレクサは夜な夜な枕を涙で濡らして過ごした。

 朝も暗いうちから起きて、水を汲む。井戸を何度も往復する。

 竈に火を焚く。旦那様は朝風呂にお入りになるので、その支度をせねばならない。

 次に、家の掃除をする。そのあとは、飯を炊く。そうこうしている間に、ようやく使用人たちが起きてくる。

 使用人たちの仕事は、家人の世話や給仕である。家人の顔を見る仕事は使用人たちの仕事、そうでないものはアレクサの仕事と、相場が決まっているのだ。

 アレクサはこうして、三つの頃からイードバーカ家で寝起きしている。彼女が暮らすのは北の隅の、カビくさい物置部屋だ。この冬も夏も日が差さない三畳程度の狭い部屋で彼女は母親と住んでいたわけだが、五歳で母が死去してからは一人で暮らしてきた。

 冬であろうと夏であろうと、アレクサの服は三着ほどしかない。部屋には、暖炉もない。 共に暮らす人間もいないから、温まることとてできない。

 真冬は、寒くて眠ることができなかった。

 お母さん、私、こののまま死ぬんだろうか。

 幼いアレクサはつめたい指に息を懸命に吹きかけながら、そう思う。それでもいいと思う。

 いじわるな継母、険悪な妹、自分のことを見て見ぬふりする父、なにもかもが辛い。

 いっそ、死んでしまえれば。母のもとへいけたら。楽になれるのではなかろうか。

 そう願って目を瞑るも残酷にも朝は来て、また一日が始まるのだ。

 そうしてアレクサは、十七になろうとしていた。



                   1



 ロレーナ王国は海辺の王国である。

 岩塩と海で採れる資源を元に貿易をし、一方でまた軍事面でも栄えていると言われている、大きな国である。

 同国は海の精霊と深く交わり人々と海の媒介となる役目を果たす乙女を『海の巫女』と呼び、十何年かに一度現れるそれを崇めた。巫女の存在は絶対であり、国にとっては重要な位置づけであるそれは、特に国王すら凌駕するともいわれた。

 アレクサの腹違いの妹リリアナは、その海の巫女の筆頭候補なのである。

「あら? お姉さま、今日も相変わらずみすぼらしい身なりね。そんな汚い恰好で屋敷を歩かないで。床が汚れるわ」

 金の巻き毛に青いリボンを結んで、リリアナが誇らしげにアレクサを見下ろした。

「え、あ、ごめんなさい」

 言われたアレクサはといえば、これはまさしく床を磨いている真っ最中であった。

 真冬の、水が冷たい日である。

 バケツに水を張って、雑巾を絞っているところであった。

 リリアナはそれを青い目で睨んで、意地悪げに蹴った。

「あっ……」

「あらいやだ。こんなところにこんなもの、置いているからいけないのよ。早く片づけて。 服が汚れるわ」

「は、はい。ただいま」

「まったくどんくさいわね。だから嫌よ。妾の子って」

「……」

 黙って床を掃除するアレクサを、くすくす笑ってリリアナはさらに言う。

「だいたい、こんな名家に生まれておいて海の巫女の才もないなんてまったくどうかしてるわよね。さすが妾の子だけあるわ。なんでも、母親は神殿にいたっていうらしいけど」

 アレクサは水を拭き終わって、そこまで聞いて廊下をあとにした。とても、最後まで聞いていられなかった。リリアナの高笑いが、後ろから追いかけてくるように聞こえてきた。

 慣れたつもりでも、母のことを出されるのは好きではない。涙がにじみ出てくる。それをごまかすように、箒を持って庭に出た。

 広い庭を掃除するには、気分転換にはもってこいだ。頃合いもよく、落ち葉がたくさん落ちている。

 馬車の車輪の音があちらでした。リリアナが習い事に行ったのだろう。海の巫女の筆頭候補であるリリアナは、公爵様の花嫁候補でもある。だから、習い事にも余念がない。

 箒を掃く手を止めて、ため息をつく。自分には縁のない世界だ。

 いいえ、贅沢を言ってはいけない。私は妾の子だ。ここに住まわせてもらっているだけでも、よしとしなければ。ここ以外に、行くところはない。一生懸命働いて、いさせてもらわなければ。

「アレクサ様、休憩にしましょう」

 使用人の一人が、声をかけてくる。どんなに言っても、彼らは自分をアレクサ様と呼ぶのをやめない。旦那様のお子であられるのですから、と言ってきかないのだ。奥様とリリアナが聞いたら、激怒するに違いないのに。

 使用人たちは、みなアレクサに同情的だ。謙虚で懸命に働くアレクサのことを悪く言う者など、誰もいない。

「寒いですね」

「そうですね」

 熱くした香茶を飲みながら、みなで暖炉を囲う。

「アレクサ様、暖炉がなくて、夜はお寒いでしょう」

「いえ、私は、もう慣れてしまいましたから」

 そう手を振るも、その手は荒れ放題で、よく見るとあかぎれができている。使用人のほうが、よほど手入れがされている。彼らが顔を見合わせていると、食堂から奥方の声が響いた。

「アレクサ、アレクサ」

 彼女は顔を上げて、

「はい、ただいま」

 と立ち上がって食堂の方へ行ってしまった。

 使用人たちは囁きあった。

「まあなんだろうねえ、奥様も奥様だよ。お妾ってたって、先に奥様だったのを無理矢理追い出して、自分が後釜になったんだろ? ひどい話さねえ」

「それを使用人にするなんて、ずいぶんなことだよ」

「娘が海の巫女候補になったからって、いい気になってるんだよ」

「そうそう。なんたって海の巫女っていったら、王様と並んでこの国の権力者だもんねえ」

「公爵様の奥方になるんだもん、大した出世だよ」

「だから毎日あんなに贅沢しても許されるんだよ」

「それに比べてアレクサ様は夏でも冬でもあんな薄着一枚でかわいそうったらないよ」

「あんなに痩せて、手も荒れてるし」

「働きすぎだよ、あのお方は」

「気のいいお方なのにねえ」

「あんな狭い、暖炉もない物置なんかに住まわせてさ」

「旦那様もひどいよ」

「見て見ぬふりだもんねえ」

「なんとかしてあげたいよねえ」

「ねえ」

 と、彼らがため息をついていた頃、アレクサは食堂で奥方から用事を言いつけられていた。

「今度の舞踏会に着ていく服を縫っておいて。リリアナと私のものを、一週間後までに」

「は、はい」

 舞踏会に着ていく服となると、襞が段違いに入った、複雑なものになる。しかも、絹であろう。絹となると、滑る。滑る生地は、縫いにくい。そんなものを、二人分とは。

 しかも、一週間後とは。アレクサはぎゅっと唇を噛みしめた。

「公爵様もお見えになるのよ。豪華なものにしてちょうだい」

「はい」

 寝ないでやれば、なんとかなるだろう。他の使用人たちに断りを入れて、別の用事をせずにいればやれる。

 アレクサはその日から、毎日毎日針と糸を持って縫い続けた。何度も何度も指を突いて、そのたび血が滲んだ。生地に血がつかないよう細心の注意を払って、縫いに縫った。夜になっても蝋燭を何本も灯し、縫い続けた。

 夜中、目がかすんで、それでも縫った。朝になると、さすがに少し眠った。そしてまた縫った。ちくちくちくちく、縫い目は少しずつ細かくなっていった。

 そうして七日目、ようやく舞踏会用の服が縫いあがって、奥様に見せにいった。

 奥方のものは深緑地に銀糸と金のビーズを、リリアナには青地に金糸銀糸をふんだんに使ったものをあしらった。

「ふん……まあまあの出来ね」

「これ、お姉さまが縫ったの? なんだか臭そう」

 リリアナはそう言ったが、結局二人はそれを舞踏会に着ていって、アレクサはその夜久しぶりに熟睡して朝を迎えた。

 ところがである。

 早朝、アレクサは奥方とリリアナに食堂に呼び出された。そんな時刻に呼ばれることはなかったので、なにか粗相でもあったのだろうとびくびくして出ていった。

「お姉さまのせいよ」

 アレクサが食堂に来るなり、リリアナは怒鳴りつけた。

「お姉さまの縫った服が地味なせいで、公爵様がお見えにならなかったのよ」

「あ、あの……」

「つべこべ言わないでよ妾の子のくせに」

 リリアナはつかつかとアレクサの近くへ来ると、いきなりアレクサの頬を張った。

「……申し訳ありません」

「まったく、リリアナは海の巫女の筆頭候補ですよ。なのにあんなに蔑ろにされて」

「こんな服こうしてやるわ」

 リリアナは青い服をアレクサの目の前まで持ってくると、その手でびりびりと引き裂いた。幾百ものビーズが音を立てて落ち、そこに散らばった。

 アレクサは目を瞑って、ただひたすら耐えた。悲しそうにしてはにならない、無表情にしていなければ。ここ以外に、私の居場所はない。耐えるんだ。

「お姉さまの辛気臭い顔を見ていると、余計に気分が悪くなるわ。もう下がってちょうだい」

「はい……」

「リリアナ、気分直しに観劇にでも行きましょう」

 アレクサは台無しになった生地を持って、食堂を辞した。なにも考えなかった。

「アレクサ様、リリアナ様がお茶を淹れていただきたいそうでございます」

「はい」

 庭を掃除していると、使用人が呼びに来た。きっとリリアナは観劇から帰ってきたのだろう。

 香茶を一口飲むと、リリアナは茶器のなかの香茶をアレクサの顔にかぶせた。

「なによこれ。渋くて飲めたもんじゃないわ」

「まったくひどいわねえ」

 なにを言われても、黙っているしかない。

「申し訳ありません」

 ここ以外に、行く場所はない。頼れるひとも、いないのだ。

「いい気分が台無しだわ。下がって」

「執事に代わりに淹れさせましょう」

 奥方が手を叩いて、執事を呼んだ。ならば初めからそうすればいいのに、わざとそうしたに違いないのだ。

「アレクサ、あなたはここのところひどすぎるわ。罰として、屋根裏部屋にいなさい。食事もいいというまで抜きよ。せいぜい反省するのね」

「妾の子はネズミとでもお話ししてるのがお似合いね」

 リリアナがくすくす笑ってこちらを見ている。

 アレクサは黙って頭を下げた。なにも思ってはならない。感じてはならない。

 屋根裏部屋に行くと、太陽をいつも受けている場所のせいか、自分が住んでいる部屋より暖かかった。ネズミがこそこそと走り回る影があったが、気にならなかった。

 隅に座り、膝を抱えて過ごした。なにもすることがないので、編み物をした。本当は靴下を編みたかったが、編み方がよくわからなかったので、襟巻きにした。これなら、編み方がわからなくても編むだけで完成させることができる。

 覗き窓から、海が見えた。

 ああ、海だ。

 海の青を見ると、どきどきする。海の青は、お母さんの目の色だ。

 アレクサ。お母さんの声がする。

 アレクサ、アレクサ。

 まだ幸せだった頃、母はよく言った。

 アレクサ、海の声を聞いて。海は、話しかけているわ。いつも話しかけているわ。海の声に、耳を傾けて。その声に耳を欹≪そばだ≫てれば、海はいつもあなたの味方よ。

 それがどういう意味なのか、アレクサにはよくわからない。

 私が海の巫女ではないからだろうか。

 リリアナなら、それがわかるだろうか。

 母は神殿の祭祀をしていたと聞く。巫女ほどではないにしろ、その能力があったのだろう。だから、私に才がないわかってさぞがっかりしただろう。この家は代々、海の巫女が多く出ている家系だから。お父様もそれを見越して、母と結婚したのだから。

 屋根裏に引き籠もって、三日目になった。食事も三日していないということになる。口にしたのは水だけだ。さすがにめまいがして、足元がぐらつく。

 このまま継母は自分を殺すつもりなのだろうかと頭のどこかで思っていた時、屋根裏部屋の入り口が開いてリリアナが入ってきた。

「お姉さま? 出ていらっしゃいよ」

 にやにやと笑いながら、日差しと共に彼女は言った。手には食事の乗った盆を持っていた。

「これ、お食事」

 かぐわしい香りが漂ってきた。とうもろこしを濾した濃いスープに、はちみつを塗ったパン、入れたてのオレンジの果汁に、今朝摘んだ野菜のサラダ。分厚いベーコンに、庭の鶏が生んだ卵の目玉焼き。

 そんな朝食は、ついぞお目にかかったことがなかった。

 思わず立ち上がると、リリアナはそれを目の前で床に叩きつけた。そして高笑いして階段を下りていくと、

「妾の子のくせに、なにを勘違いしたの? 片づけておいて。物置部屋に戻るのね」

 と行ってしまった。

「……」

 そうだった。私はなにを。空腹で判断力が迷ったのだ。

 ふらつく手で片づけをして、階下に戻る。うすいスープで腹を満たして、痛む頭を抱えてなんとか眠った。

 翌日からは、またいつもの日常が戻った。

 春になった。

 暖かくなると、空気が温む。アレクサの毎日も、ようやくほっとするものになろうとしていた。

 暇を見つけて、そっと棚から母の形見の櫛を取り出しては、海に出かけた。

 浜で櫛を透かして波間を見つめて、そうしてぼーっとしてなにもしないで時間を過ごして、また帰っていくのだ。

 アレクサには、母の形見が二つある。

 櫛と、晴れ着だ。

 櫛は棚に隠してある。晴れ着は、いつも掃除をしたりするには汚れてしまうので、クローゼットにしまってある。こんなきれいな服は私には着る機会はないけれど、この服を着たお母さんは記憶に残っている。碧色の服を着たお母さん。月夜に浮かぶ、碧色の服。ふわふわふわ、まるで精霊のようで、きれいだった。

 アレクサは母が恋しくなると扉を開けて、じっとその碧色の裾を握りしめる。そして亡き母の面影、もう忘れてしまいそうなあの儚げな顔だちを必死に思い出そうとするのである。

 それは五番目の月、甚三紅の月のことだった。

 いつものように昼食を終えて、自室へ戻ってきた時のことである。

「?」

 クローゼットの扉がわずかに開いているのに、アレクサは気がついた。いつもはぴたりと閉めているはずである。なぜだろう。なにか違和感がある。

 妙に思って、そっとそこを開けてみた。

「――」

 ない。

 母の形見の晴れ着が、ない。なくすはずも、ない。こんな狭い部屋である。どこにあるわけもない。

 アレクサは半狂乱になって、表に出た。誰かがやったんだ。そんなことをするのは、奥様だけだ。母を追い出した、あの奥方しかいない。

「奥様は?」

「お庭に」

 という声で、アレクサは庭に出た。

 継母は、確かに庭にいた。

 ごうごうと燃え盛る火の前で、彼女は立っていた。

 そして母の碧色の晴れ着は、もう燃え終わろうとしているところであった。

「奥……様」

「縁起が悪いったらないわ、前の妻の持ち物だなんて。ねえそうでしょうあなた」

「うん? まあな」

 めらめらめら、碧色の布が燃えて、天に舞い上がった。それを見て、アレクサはそこへぺたん、と座り込んだ。リリアナが面白そうにそれを見ている。

「せいせいしたわ。アレクサ、火の始末をしておいて。ちゃんと消すのよ」

「貧乏くさい服なんかなくなってよかったじゃない、お姉さま」

 家人が家のなかに入ってしまうと、アレクサは慌ててまだ燃える灰をかき回した。手が火傷するのも構わず、なにか残っていないかと探した。

 しかし、服はあろか、碧色のかけらすらもない。絶望的な思いで、アレクサはそこに立ち尽くした。

 部屋に戻って、我に返って棚を探した。

 あった。

 櫛はある。隠しておいたから、これだけは見つけられなかったものとみえる。これはこのまま、隠しておこう。

 翌日、リリアナが海のお告げを聞いたと言った。

「海が私に言いました。四日後、魚の群れが来ると。それは南からやってきて、五日後には去る。六日後、今度は北からやってきて、災いをなすだろうと」

 早速、それは神殿にもたらされた。

 四日後、魚の大群がやってきた。漁師たちはその恩恵に与かり、翌日になって群れはいなくなった。そして次の日、北からやってきた魚の大群によって船が沈み、人が一人亡くなった。

 この知らせで、ロレーナ中が大騒ぎになった。

 聞いたか。リリアナという娘のお告げが、ぴたりと当たったそうだ。これは、次の海の巫女はリリアナに決まりに違いない。

 そんな評判が立った。

 屋敷には、リリアナの姿を一目見ようと連日人が押しかけた。

 リリアナ様、腰が痛くて。治してもらえませんかのう。リリアナ様、咳が止まりませんのですじゃ。リリアナ様、孫が転んで膝を怪我して。リリアナ様。リリアナ様。

「追い返して」

 窓から人々を見下ろして、リリアナはぴしゃりと言った。

「冗談じゃないわ。私は海の巫女、気軽に人を助けたりする慈善家じゃないのよ」

 言うや彼女は自室に籠もり、食事の時以外出てこなくなってしまった。

「リリアナ様、国王陛下がぜひ直接お会いしてお話しなされたいと」

「頭が痛いのよ。お断りして」

「ですが」

「嫌だと言っているの」

 とうとう国王の誘いまでも拒んで、リリアナはその日も行ってしまった。屋敷は毎日、押し寄せる人々でごった返している。

 アレクサはそんな毎日で人疲れしてしまって、最近はよく海を見に行く。

 ザ……

 砂浜で一人でいると、悲しいことも忘れてしまう。母の櫛を取り出して、櫛の歯を透かしてその間から波間を覗く。

 リリアナ、海の巫女になるんだろうか。そうすると、公爵様のところにお嫁に行くということになる。

 アレクサは公爵のことはよく知らないが、なんでも氷の男と呼ばれた冷徹な男で、居並ぶ海の巫女候補でもある婚約者候補たちが行儀見習いとして彼の屋敷に行きはするものの、すべて蹴散らしてしまうのだそうな。この国の王子の幼馴染でもあり、代々の海の巫女を娶る家系でもあるという。

 そんな恐ろしい男の元へ行って、リリアナはやっていけるだろうか。

 そんなことを考えていた矢先のことである。

 突然、アレクサの座っていた地面が凄まじい勢いで揺れ始めた。

 地震だ。

 思わず立ち上がってしまうほどの、大きな揺れであった。

 アレクサは背後の市街を振り返った。

 屋根が落ちている。壁が崩れている。これは、大惨事だ。屋敷に帰らなければ。

 アレクサがそう思って砂浜を後にしようとした時、背後の海が大きく唸った。

「?」

 アレクサは見た。

 今の今まで凪いでいた海が、おおきくおおきくうねり、今しも自分も飲み込まんばかりに立ち上がっているのを。

「――」

 アレクサ。

 母の声がする。

 海の声を、聞いて。

 海はいつも、あなたに話しかけている。海の声を、聞いて。

 アレクサ。

 ――止まって。

 アレクサは咄嗟に、海に呼びかけた。

 お願い止まって。来ないで。街を、飲み込まないで。お願い。

 来ないで――!

 アレクサの全身がまばゆく光り輝いた。

 波が彼女に覆い被さり、アレクサを避ける。

 すると、その光に波が押し戻されるようにして下がっていく。

 少しずつ、少しずつ。

 アレクサの全身の光が、どんどん強くなっていく。

 それにつれて、波もまた下がっていく。少しずつ、少しずつ。

「なんだ……?」

「あの光はなんだ……?」

「津波が押し戻されていくぞ」

 民もまた、それを見た。

 そしてとうとう波が押し戻されされてしまうと――

 アレクサを覆う光もまた消えた。

 アレクサはその場に昏倒した。

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