悪徳令嬢と元剣聖の契約結婚 ~共通の敵は、勇者でした~
白金 レンガ
第0話「剣聖追放」
それは、急峻な岩山に囲まれた峡谷での戦いだった。
白い霧が立ち込め、足元の石も定かでない地形。視界は最悪で、地の利は完全に敵にあった。
「……っ、囲まれてる!」
誰かがそう叫ぶのと同時に、霧の向こうから幾つもの咆哮が轟いた。
出てきたのは、三頭の魔獣――“魂喰い”と呼ばれる、大型の魔物だ。
「アルヴィン、右から来るぞ!」
俺がそう叫んだとき、アルヴィンは一度頷いた。が、その直後――あいつの足が滑った。
「くっ……!」
あの馬鹿、なんであんな危ない足場に……!
バランスを崩したアルヴィンが、無防備な背中を魔獣にさらす形になった瞬間、魔獣の目がギラリと光った。
喉奥から地鳴りのような唸り。巨体が突進してくる。
――間に合え!
剣を手放す暇も惜しくて、俺は駆けた。
全身が軋み、足元の岩が崩れようとするのを無理やり踏み締める。
「下がれッ!!」
咄嗟に叫び、俺はアルヴィンに体当たりを食らわせるようにして突き飛ばした。
その瞬間、鈍く重い衝撃が肩口を襲った。
鋭い魔獣の爪が、鎧ごと俺の肩を切り裂いた。
骨までいった。視界が白く染まり、耳鳴りがした。
それでも倒れず、両手で爪を押し返す。死んでたまるか。ここで勇者アルヴィンを守れなきゃ、意味がない。
そして次に耳に入ったのは、信じがたい声だった。
「……余計なことを」
聞き間違いかと思った。けれど、そうじゃなかった。
あいつは俺を見もせず、ただ冷たい声でそう言った。
「お前が勝手に突っ込んだせいで、隊列が崩れた」
そのまま、背を向けて戦場へ戻っていった。礼の一言もなく。
俺は傷口を抑えながら、あの背中を睨みつけていた。
血が手のひらを濡らしていく。でも、それ以上に――胸の奥が、熱かった。
戦闘が終わったあと、左肩は焼けるように痛んだ。
止血はしたものの、筋までやられたのは確かだった。
「……動かないで、カイル……!」
駆け寄ってきたのは、パーティーの僧侶で――俺の幼馴染でもあるエリスだった。
その顔色は悪く、手が震えていた。治癒呪文を唱える声も、かすかに掠れていた。
「セラティオ……リューミナ……」
光の粒がエリスの手から零れて、俺の肩を包む。
その温かさに、少しだけ目を細めた。
「ッ……!」
「……ごめん、まだ痛むよね……でも、ちゃんと……癒すから……!」
涙声だった。
彼女の頬を、ぽろぽろと涙が伝っていくのがわかった。
「バカ……どうして、あなたはいつも無茶するの……!
小さい頃からずっとそう……」
言葉の端々に、俺を責めるより、自分を責めてるような響きがあった。
それでも、懸命に魔法を紡ぐ彼女の姿に、何も言えなかった。
ふと横目をやると――アルヴィンが、こっちを見ていた。
無表情。まるで、感情というものが存在しないかのような眼差し。
仲間が血を流していても、僧侶が涙を流していても、何も感じていない。
……心底、寒気がした。
治癒が終わり、ようやく体が動くようになって、俺はゆっくりと身を起こした。
「……ありがとう。助かった」
「ううん……当然のこと、だよ……っ」
エリスが微笑もうとしたが、その目元は真っ赤に染まったままだった。
俺はそっと、彼女の肩に手を置いた。
「無理するな。お前の魔力、だいぶ削れてる」
「……うん」
彼女の頷きに、俺はわずかに目を伏せた。
このままじゃいけない――そう強く思った。
俺たちの“勇者”は、何かが、決定的に“間違っている”。
村の宿屋。
簡素な木造の建物で、割り当てられた部屋は狭くて壁も薄い。
ベッドに横たわったまま、俺は何度も左肩をさすっていた。癒されたはずの傷が、まだうずく。
だけどそれ以上に――頭に残っていたのは、アルヴィンの態度だった。
(なぜ、あんな言い方をした……?)
命を救われて、あの反応か?
仲間に礼の一つも言えないどころか、癒してくれてるエリスにまで、冷ややかな視線を送っていた。
あいつは、もう“あの頃”のアルヴィンじゃなかった。
……そんなときだった。
廊下から足音がして、扉がバタンと乱暴に閉じられる音がした。
しばらくの沈黙のあと、聞こえてきたのは――
「……ひっく……っ、ぐ……!」
泣いてる声だ。
俺は即座に体を起こし、扉を開けて廊下へ飛び出した。
そこにいたのは――エリスだった。
髪は乱れ、襟元は歪み、頬には涙の跡。全身が震えていた。
「エリス……!?」
息を呑みながら駆け寄った瞬間、彼女は顔を隠すようにして言った。
「……だ、だめ、来ないで……っ!」
そのまま逃げるように走り出し、宿の階段を駆け下りていった。
「待て、エリス!」
俺は迷わず後を追う。階段を飛び降り、玄関の扉を開け放った。
夜風が頬を打つ。月明かりだけが照らす夜の村。静まり返ったその中で、遠ざかる影が見えた。
「エリス! 話せよ! 何があったんだ!」
叫んでも、彼女は振り返らなかった。
まるで、何かにすがるように、何かから逃げるように走っていく。
村外れの小さな川。
その土手の草道を下りたところで、ようやく彼女は足を止めた。
「っ、う……ぅ……!」
そのまま地面にしゃがみこみ、顔を覆って泣き始める。
川のせせらぎと月の光が、静かにその姿を包んでいた。
俺は少し距離を置いて、ゆっくりと近づく。
「……エリス、外は冷える。中に戻らないか?」
返事はない。ただ肩を震わせて、涙だけがこぼれていた。
彼女の隣に、そっと腰を下ろす。
「言いたくなけりゃ言わなくていい。でもな……」
言葉を選ぶように、低く続けた。
「俺は、お前がこんなふうに泣いてるのを、黙って見てるつもりはない」
その言葉に、彼女がゆっくりと顔を上げた。
濡れた頬が月明かりに照らされていた。
「わたし……カイルには、知られたくなかったの……」
「……どうしてだ?」
「だって……あなたは、ずっとまっすぐで……優しくて……
わたしを守ってくれて……そんなあなたに、こんな姿……見せたくなかった……」
俺は目を細め、ため息をひとつ吐いた。
「バカ野郎」
短く言って、彼女の方を見た。
「そういうときにこそ、俺が必要なんだろ? 違うか?」
エリスは唇を噛みしめて目を伏せたまま、小さな声で呟いた。
「……わたし、勇者様に……」
それ以上の言葉は続かなかった。
でも、それだけで十分だった。
俺の中で、何かがキレた。
拳が自然に握られていた。怒りが喉元まで迫って、身体が熱くなる。
「……エリス」
「やめて……カイル……お願いだから、何もしないで……!」
震える声。泣きながら縋る手を、俺は振りほどけなかった。
でも、怒りだけはどうしても抑えきれなかった。
「どうして……どうしてお前がこんな目に遭わなきゃならないんだよ……っ」
エリスは俺の袖を握りしめて、泣き続けていた。
俺は――この怒りを飲み込むことができなかった。
「……あんな野郎のせいで、お前がこんなに泣いてるのに、俺が黙ってられるわけない」
そのまま、彼女の肩に手を置いた。
彼女の涙は止まらなかったが――どこか、少しだけ穏やかになったように思えた。
村の中央、旅人用の酒場。
その灯りだけが、夜の村に浮かび上がっていた。
中に入れば、いつも通りの騒がしさ。
そして――その中心に、アルヴィンがいた。
銀髪に、柔らかな笑顔。
笑ってる。何食わぬ顔で、そこにいる。
俺の拳が、震えていた。
――木の扉を蹴り開ける。
「アルヴィンッ!!!!」
一瞬で、場の空気が凍りつく。
アルヴィンがゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
「……ああ、カイル。どうしたんだ、そんな怖い顔をして」
その言葉が――トドメだった。
俺の拳が、迷いなく振るわれた。
鈍い音とともに、奴の顔が跳ね上がり、椅子ごと吹き飛んだ。
グラスが割れ、酒がこぼれ、店内が静寂に包まれる。
「てめぇ……よくも……!」
怒鳴り声が自分でも驚くほど低くて、震えていた。
「仲間の信頼を踏みにじって……あの子に、何をしたッ!!」
剣に手をかけた瞬間――アルヴィンが顔を拭いながら立ち上がる。
「……この男を、捕まえろ」
その命令に、すぐに衛兵たちが雪崩れ込んできた。
「勇者に刃を向けた反逆者、カイル・グレイヴァルドを拘束する!」
「離せ!俺はこいつを――ッ!」
複数の衛兵に押さえ込まれ、膝をつかされる。
「お前だけは、絶対に、許さねぇ……ッ!」
血の気が引いていくのを感じながらも、俺はなお叫んだ。
左肩の傷が再び痛み、視界がにじんでいく。
アルヴィンは、平然とこう言い放った。
「こいつには、しっかり“尋問”してやるといい」
こうして、俺は――
かつて“英雄”と呼ばれた剣聖は、“反逆者”として連行された。
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