第2話「毒と剣、契約の杯を交わす夜」
夜のエルネスト邸は、昼間の貴族趣味を捨てたかのように、静けさと重厚さに包まれていた。
赤黒い絨毯、金の縁取りの額縁、蝋燭の灯りに照らされる広い廊下。整いすぎていて、息苦しくなる。
その一室――リシェル・ド・エルネストの私室に足を踏み入れたとき、俺は思わず目を細めた。
暗い赤を基調としたカーテンとソファ、壁には高価な油絵ではなく毒草の押し花が飾られている。
香水ではなく、どこか甘くも鋭い香の煙が漂い、まるで魔女の巣窟にでも足を踏み入れたような錯覚を覚えた。
ソファに座っていたリシェルは、変わらず余裕たっぷりの笑みを浮かべていた。
「いらっしゃい。王都一の落伍者さん」
嫌味たっぷりな一言に、俺は黙ってドアを閉めて向かいの椅子に腰を下ろす。
ドレスではなく、室内用のローブ姿。それでも、肌を多く見せていない分、毒気は余計に際立っていた。
「……言い方ってもんがあるだろ」
「あるわよ? でも、私が“普通の令嬢”だったら、あなたは来なかったでしょ?」
扇子で唇を隠しながら、彼女はくすりと笑った。
「そもそも、普通の令嬢は“契約結婚しましょう”なんて物騒な提案しないものよ。
――さ、始めましょうか。契約交渉の時間よ、剣聖さん」
俺は思わず鼻で笑った。
「お前、本気で言ってるのか? “契約結婚”なんて、冗談だと思ってた」
「冗談を言うときは、もっと上品に笑うわ。今の私は本気。……まあ、正確には“打算”だけどね」
そう言いながら、彼女は小箱から一枚の紙を取り出した。
婚姻契約書。間違いない。
「条件は簡単。“夫婦として、表向きに振る舞うこと”。それだけ。
愛も忠誠も求めないし、寝室も別々でいいわ。
代わりに――あなたには“剣”になってもらう」
「……剣、ね」
「ええ。兄の喉元に突き立てるための、“合法的な刃”。
私はあなたに、貴族の立場と情報を与える。あなたは私に、“正面から奴に挑める力”を貸して」
その口調には一切の感情がなかった。冷たく、計算され尽くした声音だった。
俺は契約書に目を落としながら口を開いた。
「……どうして俺なんだ? 他に貴族の家の男なんていくらでもいるだろ」
「あなたが“落ちぶれた英雄”だからよ」
その答えは、即答だった。
「この国で一度でも“光”を浴びた人間が、“地べた”に落ちたときに何を見るのか――
私は、それを知っている人間とだけ手を組みたいの」
扇子を揺らしながら、彼女はさらに続けた。
「他の貴族なんて、“私と結婚すれば出世できるかも”とか、“勇者の妹と関われる”なんて下心しかないの。
でもあなたは違う。すでにすべてを失っていて、それでも剣を捨てていない」
俺は視線を上げ、彼女をじっと見た。
「利用しやすい相手ってわけか」
「違うわ。“対等に手を組める唯一の男”だと思ってるの。
……褒めてるのよ?」
「皮肉と褒め言葉の境目が毒すぎて、わかんねぇな」
「毒こそ私の魅力でしょ?」
俺はふっと笑った。
しばらく黙ったあと、口を開く。
「――リシェル、お前は本当に兄を潰す気なのか?」
その問いに、彼女の微笑が初めて消えた。
「ええ。あの男は、自分の正義のために人を切り捨てる。
あなたも、私も、かつての仲間たちも……いずれ“都合の悪い存在”として処分される」
静かに紅茶を注ぎながら、彼女は続けた。
「私の人生は、彼の政治劇の小道具じゃない。
“悪徳令嬢”なんて呼ばれてもいいわ。でも、“飼われる妹”にはならない」
その目には、怒りも悲しみもなかった。ただ、静かに燃えるような強さがあった。
「私は、この婚姻によって“自由”を手に入れる。
あなたは、“剣”を取り戻す。
それで、十分でしょ?」
彼女が契約書をテーブルの中央に差し出す。
既に、リシェルの署名がそこにはあった。
俺はそれを見て、ゆっくりと腰の短剣を抜いた。
そして指先をかすかに切り、落ちた血を契約書に垂らす。
「……これが俺の答えだ。
形式より、こっちの方が性に合ってる」
リシェルが少しだけ目を見開き、そして笑った。
「やっぱり、あなたを選んで正解だったわ。
やっぱり私は、毒の香りがする男が好き」
悪徳令嬢は、今日も悪徳のまま。
だがその毒は、たしかに熱を孕んでいた。
今宵、偽りの契約が交わされた。
だがこれは、王都の仮面劇に風穴を開ける、“本当のはじまり”だった。
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