第1話「落ちた英雄、蛇の微笑と出会う」

 王都エルメス――人々の希望と野心が渦巻く、煌びやかな魔法都市。

 世界でも有数の経済と魔術の中心地であり、王族、貴族、冒険者、商人、ありとあらゆる立場の者が集う巨大都市だ。


 けれど、俺にとっては「戻りたくなかった地」でもある。


 背に剣を背負い、旅の塵をまとったまま、大通りを歩いた。

 かつて“剣聖”なんて呼ばれていた俺は、今じゃ髭の剃り残しとくたびれたローブがよく似合う男になっちまった。


(……変わらないな。町並みも、空気も。だが、俺の中身だけが変わってしまった)


 二年前――俺は、勇者アルヴィンを殴った。


 その事実だけが、王都中に知れ渡った。

 理由も、背景も、何も語られないままに。


 「剣聖が勇者に暴力を振るったらしい」

 「嫉妬したんだろう」

 「気に入らない命令に逆らって、暴走したんだって」


 尾鰭のついた噂は瞬く間に広がり、王都の格好の話の種となった。


 アルヴィンは、ただ一言、

 「これ以上、彼と共に歩くことはできない」とだけ言った。


 その瞬間、俺はパーティーから追放された。


 王国から与えられていた名誉、信用、肩書――

 それらはすべて、“勇者に手を上げた”という一点によって消し飛んだ。


 誰も理由を聞こうとはしなかった。

 誰も、真実を知ろうともしなかった。


 結果だけがすべてだった。

 俺が何を守るために拳を振るったのか、その問いに答えようとする者は一人もいなかった。


 この世界に、俺の居場所はどこにも残っていなかった。


 以前なら、道行く人々が「剣聖様!」なんて声を上げていたのにな。

 今じゃ、視線すら向けられやしない。名前すら忘れ去られてる。それが、追放された者の現実だ。


(……勇者様は、今頃どこで讃えられてるんだか)


 俺は皮肉を胸の奥で呟きながら、雑踏の中を歩いた。


 この町に戻った理由のひとつは“金”だ。

 剣の腕だけじゃ食っていけねぇ。魔物退治や盗賊狩りをしても、稼げるのはたかが知れてるし、後味も悪い。


 でも王都なら、情報も依頼も、そして――“復讐の糸口”も転がっている。


「……相変わらず、上流階級どもは派手にやってんな」


 通り沿いの屋敷じゃ、社交パーティーの準備が進んでいた。

 魔導照明の下、華やかなドレスを着た貴婦人たちが次々に馬車から降りてくる。


「入場は招待状が必要です。下がってください」


 衛兵に追い払われる浮浪者風の男。貴族の坊っちゃんと談笑する青年。まるで別世界だ。


 俺はそんな光景を横目に、広場のベンチに腰を下ろした。


 そのとき、視界の端に紅が差した。


 馬車から降りてきた一人の女。深紅のドレス、仮面越しの冷ややかな視線。

 そして――扇子の隙間から覗く、妖艶な微笑。


 彼女が現れた瞬間、場の空気が凍りついた。

 恐れでも、敬意でもない。まるで“腫れ物”に触れるような、妙な緊張感。


「……あれが、“悪徳令嬢”か」


 思わず口に出していた。


 王都で名を馳せる問題児、リシェル・ド・エルネスト。

 勇者アルヴィンの実妹にして、社交界の災厄。


 婚約破棄にスキャンダル、噂のネタに事欠かない彼女――のはずだったが。


は、ただのわがまま娘じゃないな)


 あの瞳は、裏切られることも、憎まれることも、操ることも、操られることも――すべてを知った女の、覚悟の光。


 貴族たちは皆、獲物を狙う獣だ。誰かが隙を見せれば、牙を剥き、喉元に噛みつく準備をしている。そんな社交界を生き抜いてきた目。


 扇子がぴたりと止まり、レース越しの視線がこちらを射抜く。


 一瞬だけ。だが確かに、俺と目が合った。


 そのまま何も言わずに、彼女は視線を外し、涼やかに踵を返した。


 俺を見たのか、試したのか。どっちにせよ、印象に残る女だった。


 俺は人混みを離れ、そのまま静かに姿を消した。




 ――王都エルメスの外れ、林の奥。かつて訓練に使っていた野営地に腰を下ろす。


 剣を根元に立てかけて、俺は深く息をついた。


(……まさか、あれが“悪徳令嬢”リシェル・ド・エルネストだとはな)


 巷の噂とはまるで違う。あの女は、空気を支配していた。

 媚びず、怯まず、何もかもを見透かしていた。


(あの目……久々に背筋が冷えた)


 ぼんやり空を眺めていたときだった。


 カサリと、落ち葉を踏む音。


 気配を殺していたが、俺の耳はごまかせない。


「……ずいぶん足音の小さいお客さんだな」


 木立から、藍色のドレスを着た少女が姿を現す。


 従者だ。あの女の使いか。


「カイル・グレイヴァルド様ですね。――お嬢様より、これをお預かりしております」


 差し出された封筒。重く、高級な紙。深紅のリボン、封蝋には公爵家の紋章。


「本日、月が高く昇った頃――

 エルネスト邸にて、お嬢様が貴方をお待ちしております。

 ご返事は不要です。お越しになるかどうかは……ご自由に」


 俺は手紙を受け取り、重さを確かめた。


「……妙に手回しがいいな。いつから俺を見ていた?」


「お答えできません。……ただ一つ、申し上げるとすれば――」


 少女は、かすかに微笑んだ。


「お嬢様は、貴方が王都に戻られることを“知っていた”ようです」


 一礼すると、風のようにその場から去っていった。


 残された俺は、しばらく封筒を見つめていた。


「……あの女、どこまでが本気なんだか」


 だがわかってる。

 今夜を逃せば、もう二度とこの誘いは来ない。

 これは“誘い”であり、“宣戦布告”でもある。


「面倒な女だ……だが――」


 俺は手紙を懐にしまい、ゆっくりと立ち上がった。

 夜の気配が、林を包み始めていた。


 再び剣を背に、俺は歩き出した。

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