第二話

 指差すと、ちづるもその人に気がついたようだ。顔が一瞬にして青ざめる。

 背すじに、冷たいものが走った。


 まさか。まさか……ね。


「ミーヤ、迂回しよ。あれヤバイって!」


「そ、そうだね。そうしよ」


 ――違う、よね。


 口裂け女だなんて、そんなのいるはずない。ホラーは好きだけど、現実との区別はつけている。あんなの、ただの創作物だ。


 でも、明らかに不審者ではあるし?


 下手に近づかない方が良さそうだし?


 あくまで念のため、ね。


 ゆっくりと後ずさりをして、距離をとる。慎重に、向こうに気づかれない内に……。


 ――あ。


 目が、合った。


 合って、しまった。


 ここから女の人までそこそこ距離がある。それに、顔は長い髪で覆われているようで、全く伺い知ることが出来ない。

 そのはずなのに、視線が合ったことははっきりと分かった。


 ヤバい。


「ちづる、走ろ!」


「うん!」


 早くここから離れなきゃ。


 そう思って振り返えると、女の人はすぐ目の前に立っていた。


「ヒッ!」


 ちづるがひきつった声をあげる。

 私は、その声すらも出なかった。喉に何か詰まったように、締め付けられるように息苦しい。


 その人は、明らかに異様だった。


 ダラリと力なく垂れている首。顔を覆う、艶のない黒髪。それから、生臭さと鉄臭さが混じったような、何とも言えない臭い。


 頭の中で、警鐘が鳴る。


 怖い。恐い。逃げろ。


 それなのに、足は動いてくれない。女を凝視することしか、出来ない。


「――私、綺麗?」


 地を這うような、しゃがれた声だった。


 とても、人間から出るような声とは思えない。


「私、綺麗?」


 何も答えない私たちに、女はもう一度聞いてくる。


「えっと……」


 なんて、答える?


 キレイ?


 キレイでいいのかな?


 でもそしたら口を裂かれる。


 かといって、否定したら――。


 頭は高速で動いている。それなのに、回答が浮かんでこない。底なし沼に落ちたみたいに、同じところを堂々巡りだ。


 あ、対処法!

 対処法があるじゃないか。ええっと確か……。


「ポ、ポマード!」


 ちづるが叫んだ。

 ああ。それだ。

 それを唱えれば逃げていくって、ネットに書いていた。有名な話じゃないか。


「私、綺麗?」


 再三、女は聞いてきた。


 いや、きっと始めから質問じゃなかったんだ。

 機械的に聞いてきてるだけ。

 だって、そういうものだから。


 大きく振り上げられた、赤い右腕をぼんやりと見上げる。その手には、何かが握られていた。太陽の光を反射してキラリと光るそれは、鎌だった。


 鋭い切っ先がちづるを捕え、振り下ろされる。乱れた髪の間から、女の顔が見えた。


 血走った眼。ざっくりと耳まで裂けて、爛れた口元。


 ころされる。


 理解したと同時に、身体が動いていた。


 肉に冷たいものが入り込む感覚。抉られる感覚。それから、痛烈な熱さが全身に走る。

 突き刺さった鎌が、私の右腕から無遠慮に引き抜かれた。


 鮮烈な《あか》緋色が、飛び散る。


 ――痛い。


 痛い。痛い。痛い。熱い。


「美夜!」 


 再び鎌が振り下ろされる直前、ちづるが私の手を引いて走り出した。


 手首を握るちづるの手は、冷たかった。


 それを頼りに、ただひたすらに足を動かす。後ろを見る余裕はない。

 切れる息と、だんだんと感覚がなくなってくる右腕。暗くなる景色。


 どこをどう走ったのかは、覚えていない。

 気がついたら、大通りに出ていた。


 私たち二人の様子は尋常ではなかったんだろう。行き交う人々の視線が、集まる。

 悲鳴も聞こえてくる。


 少しずつ大きくなる騒ぎと、人集り。


 腕に目をやると、制服の袖は破けて、血がドクドクと溢れ出ていた。腕を伝って、地面へと滴り落ちていく。


 ――あーあ。制服、ダメにしちゃった。


 お母さん、怒る、かな?


 私の記憶は、そこで途切れた。

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