いつか、飛ぶ鳥の先へ

鹿月天

いつかこの手を


 天高くとびが鳴く。飛鳥の空に赤々と映える山を見れば、紅葉もそろそろ見納めかと思う。古人ふるひとは小さく息をつくと、愛しい娘の名を呼んだ。

やまと

「なぁに父上」

「そろそろ帰ろう。風が冷えてくるよ」

「もう少し待って。今ね、魚が五匹なのよ。あと一匹増えないと入鹿いるかさんに負けちゃうの」

 列を生した魚の群れが悠々と水草に遊んでいた。川面を覗き込んでいた倭は「ね?」と隣の青年に笑いかける。蘇我の嫡男である彼が小首を傾げると、簪の垂れ飾りがチリッと鳴った。

「倭姫さまは運を使った遊びに強いのです。勘が鋭いのでしょう」

「何をしているのかと思えば賭け事かい?」

「父上も混ざりますか? 私、父上には負けない自信があるわ。父上はいつも間が悪いもの」

「それは少し傷つくな」

 素直であどけない言葉だった。まだ九つなのだから、年相応といえばそうである。しかし、この倭は思いのほかしっかりしている面がある。要領が良いと言えば良いか、はたまた自分をしっかり持っていると言えば良いか······。父である古人としては、そこは信頼しているところであった。

「倭。負けず嫌いなのは分かるけれど、風邪をひいては元も子もないよ。外で遊べなくなってしまう」

「それは嫌よ」

「なら冷える前に帰ろう」

「そうですよ、姫。お母上も心配します。また今度遊びましょう?」

「でも入鹿さんはいつも忙しいじゃない。私は毎日でも遊べるのに」

「そんなに暇ならお勉強でもするかい?」

「父上のいじわる」

 倭はわざとらしく頬をふくらませると水面から顔を離す。暮れ始めの空が色鮮やかに川を染めていた。

「仕方ないわ。今日は入鹿さんの勝ちね」

 せせらぎに倭の裾が翻る。魚たちは見送るように尾びれを振っていたが、突然散り散りに川底を走った。あっと声を上げた倭につられて見てみれば、川上の方から一回り大きな魚が滑り込んでくる。

「見て、六匹目の魚よ! 賭けは私の勝ちだわ!」

 倭が鈴を転がしたように笑う。彼女が小躍りしてはしゃいでいると、川上から「あー!」と声が飛んだ。

「やっぱり兄上と入鹿だ! このくらいの魚が泳いできませんでしたか!? 絶対仕留めたと思ったのに逃げられました!」

「なんだ葛城かつらぎか。魚なら来たぞ」

 忙しなく走ってきた異母弟は川を覗きながら足踏みをする。しかし、水中はすっかりもぬけの殻だった。

「くっそ、兄上見ました!? 大物だったでしょ!」

「はいはい、確かに大きかったな」

「でしょ! あーあ、食べがいがあると思ったのに」

「どうやって持ち帰る気だったんだよ」

「それはこう······、両手で抱えて!」

 相変わらずな彼にため息が出る。昔から、どうも自信家でやんちゃな弟だった。もう十四だというのに倭と同等にはしゃいでいる。

「中大兄皇子さま、伴もつれずにお出かけですか?」

 入鹿がもっともなことを言った。中大兄と呼ばれた葛城は「うーうん?」と言うと、自分が来た方を指さす。

「あいつら遅いから置いてきた。今走ってるぞ、ほら」

 確かに、ゆるやかな山々を背にして舎人とねりたちが駆け寄ってきている。彼らは本当に大変だ。これだけ猪突猛進な皇子が相手では振り回されてばかりだろう。

「舎人たちが遅いんじゃなくて葛城がちょこまかしているんだろう」

「主に着いてきてこその舎人ですよ、兄上」

「どうしようもないな、お前は」

 その嘆きを聞いていたのかいないのか、葛城は「お?」としゃがみこむ。視線の先にいたのはきょとんとこちらを見上げる倭だった。

「兄上の子?」

「そうだけど」

 まじまじを顔を見つめてきた葛城に、倭は少々気圧された様子だった。しかし直ぐに調子を取り戻すと、「倭と申します」と挨拶をしてみせる。

「この国と同じ名だ。大胆で良いな」

 葛城はにこにこと手を差し出す。

「俺、弟の葛城」

「まぁ彼のことは中大兄と呼びなさい」

「そういう兄上は俺のこと葛城って呼ぶじゃないですか」

「僕はそっちの方が慣れていたからね。でも倭は立場的にも別だろう」

 葛城はお堅いと言いたげに肩をすくめる。しかしすぐに倭へ向き直ると、「よろしく」と片手を差し出した。

「こちらこそ、よろしくお願い致します。中大兄皇子さま」

「ん、挨拶出来て偉いなー」

 よしよしと倭の頭を撫でる葛城は、魚のことなどすっかり忘れた様子である。その切り替えのはやさが羨ましくはあるが、同時に脳天気なやつだとも思う。

「さて、帰るのではなかったのですか?」

 静かに成り行きを見ていた入鹿が苦笑した。葛城は「もう帰るのか?」と言いながら足元についた草を払う。

「中大兄皇子さまも帰りましょう。そういえば珍しく大海人皇子おおあまのみこさまと一緒ではないのですね」

「この間大海人と散歩に行った時に擦り傷つくったからさ。また外行きたいって言っても母上許してくれなさそうじゃん? だから大海人に頼んで母上の目を逸らしてもらったんだ。その間に抜け出してきたってわけ」

「弟を利用するな」

「大海人も了承してますよ。喜んで引き受けてくれました」

「呆れての間違いではなく?」

「もー、兄上のいじわる」

 そんな掛け合いをしていたら、いつの間にか倭が入鹿に抱っこされている。こちらはこちらで気ままなようだ。疲れたと言いながら足をふらふらとゆらめかせている。

「中大兄皇子さまはお外が好きなのですか?」

「そう、外の方が好き」

「私はお外も好きだけれどおうちの中も好きよ」

 倭は葛城を見下ろすと楽しそうに笑う。

「今度一緒に賭けをしましょう。皇子さまのおかげで今日は私が勝ったのよ」

「んー? 俺のおかげ?」

「そう。川にいる魚の数を入鹿さんと賭けていたの。入鹿さんが五匹で私が六匹だったのだけど、初めは五匹しかいなかったのよ。でも、皇子さまが追いかけてたお魚がこっちにきたから六匹になって私の勝ち」

「あはは、良い仕事した。もっと褒めてくれてもいいぞ」

「ほら、申し上げたでしょう古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこさま。姫は運が強いのです」

 入鹿がくすくすと笑う。それに合わせて髪が揺れるものだから、抱き上げられている倭がくすぐったそうにはにかんだ。

「そうよ、入鹿さんに抱っこしてもらえるのも運が強いからよ。他の方は抱っこされているところを見たことがないもの」

蝦夷えみしが人を近づけさせないからじゃないか?」

「だからこそよ。心配性の大臣おおおみに許してもらえる私と父上は運が良いの。そう思わないですか?」

 突然問われた葛城が瞬きをする。しかし、すぐに「羨ましいな」と歯を見せて笑った。

「俺は入鹿に話しかけようとすると何故か徳多とこたに弾き飛ばされる」

「徳多も過保護すぎるんだ。蝦夷と二人揃って徹底しすぎだろう」

「入鹿は窮屈に思わねぇの? あの二人」

 巨勢徳多こせのとこたは時たま入鹿の護衛を頼まれている青年だった。どこで彼に惚れ込んだのか、最近はやたらと入鹿の傍に付き従っている。

「父上と徳多の気持ちを無下にはできませんから」

「未だに婚姻話もないもんな。入鹿だってもう二十······いくつだ?」

「二十四です」

「そーそ、二十四。普通なら跡継ぎがいておかしくないのにな。蝦夷はよっぽどだな」

 葛城は倭と手遊びをしながら秋風に揺れる草花を眺めた。旋回する鳶の影が我関せずと川辺に遊んでいる。

「俺なら早くお嫁さん欲しいな」

 そんな葛城の呟きを聞いて、倭がそっと入鹿を見上げた。父の話題を気まずそうに聞いていた入鹿は、視線に気づいて首を傾げる。

「私、入鹿さんにならお嫁に行ってもいいわ」

「えっ?」

 入鹿が素っ頓狂な声を上げる。一方の倭はからかうかのようにくすくすと肩を揺らしていた。ふと、入鹿の長い髪が風にとらわれ、柔らかく倭の顔を隠す。その時の倭がどんな表情をしていたのか。古人は見届けることが出来なかった。

「姫、あまり悪戯にそのようなことを言ってはいけませんよ」

「あら、本心よ?」

「······」

 入鹿は少々困ったように柳の眉を下げる。恋などと無縁な人生だったゆえ、照れと戸惑いが同時に押し寄せたようだった。どう返したら良いかと言いたげな視線が古人の元へとんでくる。古人はそんな二人に苦笑いすると、「倭、もう少し大きくなってから考えよう」と曖昧にかわしてやった。

「あとどのくらい大きくなればいいの」

「せめて十三は過ぎてから」

「まだまだじゃない」

「五年なんであっという間だよ」

「それは父上が大人だからよ。私からしたら五年はとっても長いの」

 倭は鳥のように唇を尖らせる。しかしすぐに胸を張ると、ませたように言ってみせた。

「でもそうね。蘇我大臣が許してくれるか分からないものね。五年のうちに説得してみせるわ」

「随分と難しい夢だな」

「夢はいくら抱いてもいいの。母上がそう言ってたもの」

 やれやれと空を見上げれば、高く薄い雲が羽衣のように流れてゆく。古人としては、特段断るような理由はない。自分の後ろ盾は蘇我であるし、何より入鹿のことは信頼していた。蝦夷に相談されたのならば、娘を預けて良いとさえ思う。しかし十六も歳が違うのだから、入鹿からみた娘が幼すぎるのではと懸念する。これまでの入鹿を見る限り、倭のことは妹のように見ているのだろう。

「······でも歳が離れてるんじゃないか?」

 心を見られたかのような言葉にドキリとした。見れば、葛城が少し膨れたように古人と入鹿を見ている。

「俺の遊び相手がいなくなるじゃん。兄上とも入鹿とも倭ちゃんとも話しづらくなる」

 人懐っこく、誰にでもにこやかに声をかける。そんな葛城だからこそ、一人置いていかれるのは寂しいのだろう。後を着いてきてはにこにこしていた幼い葛城の面影が見えて、少々胸にささるものがあった。

「大丈夫ですよ。中大兄皇子さまとなら皆が話してくれましょう」

「ほんとか? じゃあ今度の蹴鞠、お前も来いよ。蝦夷は説得するから」

「ええ、喜んで」

「二人だけずるいです。私も蹴鞠がしたい」

「倭は蹴鞠をしたことがないだろ」

「でもきっと出来るもの」

 こんなに溌剌とした子だっただろうかと笑みが漏れる。家の中では物静かにしていることが多いのだが、外へ出ると違うものなのだろうか。

「よーし、じゃあ倭ちゃんも今度おいで」

 葛城は嬉しそうに目を細めると、倭の手を握ったままぶんぶんと縦に揺らす。

「嬉しい! 中大兄皇子さまも好きよ」

「そうかそうか」

 葛城はすっかり得意げだ。しかし、はたと手を止めると意味ありげな視線を流してくる。

「何だったら、俺のお嫁さんになってもいいんだぞ」

 細められた目が古人をとらえる。悪戯を仕掛けた子供のような瞳は、いつもと変わらず眩しい光をたたえていた。きっと、深い意味などないのだ。入鹿に嫁ぎたいなどといった倭を受けて、冗談めかしに対抗しただけなのだろう。

 しかし、その視線が何故か目に焼き付いて仕方がない。その理由など古人には分からなかった。ただ、あの眩しい光が行き着く先に自分はいるのだろうかと、縁起でもないことが脳裏をよぎる。自分には少々眩しすぎるのだ。この弟の眼差しや声や、存在全てが······。

「え〜、迷っちゃう」

 倭がはしゃいだ声を上げる。まじまじと葛城の顔を見つめると、「悪くないわね」と小首を傾げてみせた。

「でも、父上に認めてもらってからよ?」

「それは大丈夫、俺の兄上なんだから」

「ふふ、振られてしまいましたね」

 入鹿が微笑ましそうに二人を見ている。その髪の揺らめきに呼応するように、風に舞った紅葉が辺りを包む。入鹿の首元を横切った葉が一枚、葛城の手に捕らえられた。

「では、五年後までにどちらを選ぶか兄上と相談しておいてくださいね」

 葛城は恭しく手を取り直すと、捕まえた紅葉を倭の髪に挿してやった。そしてあろうことか、きょとんとする倭を上目に見つめ、手の甲に唇を重ねてみせる。

「まあ」

「こ、こら葛城!」

 思わず漏れた戸惑いの声は、説教のようにも聞こえただろうか。葛城はニカニカと愉快そうにすると、「兄上〜、ちゃんと見てないとダメですよ」と眩しい笑顔を見せた。

「楽しみだな、五年後が」

 葛城が白い歯を見せて笑う。どこまでも真っ直ぐなこの男に、過ぎ去った夏を見た気がした。

「倭をもらいたいならまずはちゃんと勉強しろ。入鹿くらいに頭が良くないと認めないぞ」

「えー? 兄上はすぐ勉強勉強って言う」

「大丈夫ですよ。中大兄皇子さまならきっと直ぐに私を追い越してしまいます」

 入鹿が秋草の上に倭をおろす。倭はとことこと古人に近寄ると、定位置とでも言いたげに手を繋いできた。

「私も五年後が楽しみよ。中大兄皇子さまも入鹿さんも、他の方に奪われないようにしてくださいね」

 やはりませたことを言うようになった。子供の成長とはこんなにも早いものか。

 秋風に置いていかれた葉が自分のようにも思えてきて、少々寂しさが胸を打つ。しかし、まだ見ぬ未来を語る倭が愛おしいのも事実であった。

 五年後、一体世界はどうなっているのだろう。不安定な情勢を考えると心が締め付けられるが、またこうやって笑い合えるのならばそれ以上のことは無い。

「さて、今度こそ帰りましょうか。もうじき日が暮れます」

 入鹿が葛城を促しながら紅葉の中を歩いていく。清涼な秋の風の中、孤高の鳶が声高く鳴いた。

 いつか、この手を離す時が来るのだろうか。自らの手に添えられた倭の温もりを感じながら、前をゆく入鹿と葛城を見つめる。

 しかし、今はまだ共に居て良いのだ。この何でもない小さな幸せを噛み締めていれば良い。自分にそう言い聞かせると、夕日を纏った風の中で二人の背中を追いかけた。

 

           







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