第22話 宰相の妻は逃げられない


「キ、キキョウ! 大丈夫ですか!! されたのは頬へのキスだけですか!? ほ、他に何か嫌なことはされていませんか!?」


 リシャルト様は私のそばまで走ってくると、強く私の肩を掴んだ。顔をのぞき込んでくる。

 リシャルト様がこんなに慌てているのを初めて見た。

 ここまで慌てている人が目の前にいると、逆にこちらは冷静になるというものだ。


「だ、大丈夫ですよ。頬へキスされただけです。それに、エルウィン様にとっては挨拶なんだと思いますよ……?」


 多分。

 なんだかんだこの世界で暮らして16年。この国では、挨拶で頬へキスをする習慣はなかったように思うが、エルウィン様は仕事でよく外国へ行っているようだから、その影響とかもあるのかもしれない。多分。


「そんなわけはありません。エルウィン殿下は多分僕への当てつけで……!」


 リシャルト様は言いながら、ポケットからハンカチを取り出し私の頬を拭った。エルウィン様は軽く触れただけだし、汚れてなんていないのに……。


「僕だってまだ、キキョウの頬にキスしたことなんてないのに……!」


 ストレートに言われて、思わずかっと顔が熱くなった。


 ――リシャルト様は、私のこと……どう思っているんだろう。


 好意は、痛いほど伝わってくる。

 リシャルト様に『好き』だと言われたことがないけれど、今まで散々「幸せにしたい」だの「大切に思っている」だの言われてきた。

 向けられている好意を自惚れだと思うほどには鈍くないつもりだ。


 だけど、それは果たして恋愛的なものなのだろうか。

 私が昔リシャルト様の命を助けたから、恩を返したいと思ってくれているだけなんじゃないのか。

 求婚までされていると言うのに、好意を示す確定的な言葉を言われたことがないから、踏み切れない。


 ――ああ、私、踏み込みたいんだ。


 ようやく私は自覚した。

 私はやっぱり、リシャルト様のことが好きなんだ。

 それはもう、多分なんかじゃない。

 好きと言われたいし、この人の腕の中に迷うことなく飛び込みたいんだ。


「リシャルト様……。リシャルト様は私のこと、どう思っているんですか?」


 ――私、卑怯だ。


 好きなら好きだと、自分から言えばいい。

 だけれど、もしリシャルト様が恋愛的な『好き』じゃなかったら?

 ほんのわずかな恐怖が首をもたげるのだ。

 ついこの間、首筋にキスまでされたというのに、それでも怖いのだ。


「ど、どうしたのですか、突然。もちろん、とても大切ですよ」


 リシャルト様が当たり前だとでもいうように答えてくれる。

 少し前までは、その答えだけで嬉しかった。満足だった。

 だけど今は、それ以上がほしい。欲張りだ。

 

「それは私のことを、恋愛的な意味で『好き』ということですか?」


 リシャルト様を見上げる。思ってもいない一言だったのか、リシャルト様は私の言葉に一瞬驚いたようだった。


「そんなの――」

 

 勇気がほしい。

 勇気を出さなければ。

 エルウィン様だって言ってくれたじゃないか。

『本人に聞いてみるといいよ』と。


 リシャルト様が何かを言おうとしている。

 だけど、もう言葉を止められなかった。


「私は……リシャルト様のことを、好きになってしまったんです」


「……っ!?」


 リシャルト様が息を飲む。

 次の瞬間、私は近くにあった部屋の中に連れ込まれていた。


「きゃ……」


 リシャルト様に連れ込まれた部屋は、屋敷の庭に面した大きな窓が印象的な部屋だった。

 窓からは月の光が差し込んでいて、明かりのない部屋の中、リシャルト様の横顔を照らし出している。

 掴まれた手をそのまま横の壁に押し付けられ、バタンと扉が閉まる音がして、私はようやく我に返った。


「な、なに……っ」


 何を、という短い言葉すら上手く言えない。

 目の前のリシャルト様が、泣きそうな顔をしていたから。


「キキョウ」


「は、はい」


 名前を呼ばれる。

 何を言われるのか怖くて、私は身構えてしまう。


「僕があなたのことをどう思っているか、でしたっけ」


 話を本題に戻すリシャルト様の小さなつぶやきに、私はびくりと肩を震わせた。

 なんで、私は部屋に連れ込まれたんだろう。

 リシャルト様が何を考えているのか、私には分からないのだ。


「そんなの……。そんなの決まっているじゃないですか。僕はあなたのことが好きなんですよ。ずっと」


「……っ」


 初めて、はっきりと好意を伝える言葉を告げられる。

 ぎゅっ、と掴まれた右手に力を込められて、もうリシャルト様になんと言葉を返すのが正解なのか分からなかった。

 不安に思っていた私が愚かだったと思えるほどの気持ちが、リシャルト様と繋がった手から、泣きそうなリシャルト様の瞳から強く伝わってくる。


「あなたが僕のことを好きになってくれなくても、あなたが自由に過ごしてくれたら最悪それでいいと、そう思っていました。名目上だけでも、あなたの夫となれたらそれで、と」


「……っ」


 もしかしたら、だから私に無理やり気持ちを押し付けるようなことをしてこなかったのかもしれない。リシャルト様が、私が自由に過ごすことを第一に考えていたのなら。

 そのリシャルト様の優しさに思い至って、私まで涙が出そうになる。


「だけど、あなたが僕のことを好きだと言ってくれるなら、もう……遠慮できそうにありません」


 真っ直ぐに青い瞳を向けられて、一瞬呼吸が止まるかと思った。

 こんなにまで、誰かが自分のことを求めてくれるなんて、前世でも今世でも初めてだった。

 嬉しさと、困惑と、恥ずかしさ……。様々な感情がない混ぜになる。


「キキョウ、あなたに口付けてもよいでしょうか」


「……は、はい」


 私はもう思考がまとまらなくて、小さく返事をすることしか出来なかった。

 リシャルト様は私の手を掴む方とは反対の手で私の顎をすくった。リシャルト様の長い指先が少しひんやりとしていて、今これが現実なのだと伝えてくるようだった。


「僕は、あなたのことを……。『好き』なんて言葉じゃ生ぬるいほど、愛しています」


「……っ」


 ゆっくりと顔が近づいてきて、リシャルト様の唇がそっと私の唇に触れる。

 何度も口付けが繰り返されて、私は頭がふわふわとしてくるのを感じていた。


「リシャルト、さま……っ……!」


「あまり、僕に隙を見せてはいけませんよ」

 

 ほんの一瞬、名前を呼んだその隙に口付けが深められる。

 なになに!? なんなの、こんなの想定してない!!


 こちとら恋愛経験値はないに等しいのだ。

 刺激が強すぎてクラクラする。


 片手は壁に押し付けられているし、逃げ場はリシャルト様に封じられている。

 だがそもそも、この人に踏み込んで気持ちを告げたのは私だ。

 誰も責められない。

 それに決して嫌では無いのだ。むしろ――……。

 

 その後、部屋の外で私たちを探すハーバーさんの声が聞こえてくるまで、私はリシャルト様にキスをされ続けていた。

 

 

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