ep.12 治癒 (1)
雨はすっかり上がり、薄くなった雲は赤く染まり始めていた。
ユーフォリアは曲がった腕を反対の手で掴んで元の位置に戻すと、鈍い痛みに顔を顰めた。酷く腹が空き、濡れた身体が芯まで冷え切ったような感覚がある。もうはっきりと知覚できる、魔力が枯渇しかけた状態だった。
「……腕、それから切傷も、治らないのか?」
不意に声を掛けられて、ユーフォリアは重い首を上げてそれを横に振る。
「魔力、切れた。少し休んだら、治ると思う」
そう答えながら、ユーフォリアは自らの失態を理解していた。力や出自が暴かれるようなことになれば、アルベルトの立場まで危うくなると、屋敷で何度も念を押されたことを思い出す。
「口封じするか?」
真っ直ぐに視線を向けたままレオネルに問われ、ユーフォリアは少し悩んでから持ち上げかけた指先を下ろした。
今であれば目の前の男さえいなくなれば、事態を揉み消せるのではないだろうかと思う。しかし、どうにも良い手ではないような気がした。
黙って首を横に振るユーフォリアに、レオネルが頷く。
「懸命な判断だな。お前が思ってる以上に、王国騎士団の小隊長という立場は重い。ここで俺が消えたり、不審な死体が見つかってみろ。お前は国から追われる身になるぞ」
冷静な声でそう告げられ、ユーフォリアは困ったように眉を寄せた。
何かを考えるような素振りの彼女に、レオネルはため息を吐き、ふと視線を逸らせる。
「ここは上手く言っておいてやる。治療のために屋敷へ帰れ。騎士団長閣下の邸宅で世話になっているんだろう?」
「……レオネル」
「早くしろ。そろそろ、下がらせた隊士が様子を見に来る。その姿は目立つぞ、なるべく人に見られないようにしろ。いいな?」
低い声で早口で続けられた内容に、ユーフォリアは頷き、負傷していない方の手を胸に当てた。
「分かった……承知、致しました。レオネル小隊長」
そう言って一礼し、半分以上泥に沈みかけた剣を拾って、ユーフォリアは風のように姿を消した。
◇
屋敷へ戻り、いつもより重い扉を開けると、玄関ホールを掃除していたシキが悲鳴を上げた。
「お嬢様⁈ そ、そのお姿は……お手を失礼致します、ひとまずこちらへ」
なんとか狼狽を飲み込んで、シキはユーフォリアの手を引き、居室の一つへと身を滑らせる。
ここで少しだけ待つようにユーフォリアに告げると、素早く部屋から出ていった。
さほど経たずして帰ってきたシキの手には、湯や清潔な布、薬草といった治療のための道具があった。
砕けた鎧や破れた隊服を脱がせて、その下から現れた傷に顔を顰めてから、手早くそれらを清めて薬を塗り始める。
酷く疲労した様子のユーフォリアから手短に事情を聞き、最後に包帯を巻き上げてから、シキは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様。私の魔力を差し上げられれば良かったのですが、私の力は、普通の人間より大きく劣っております」
「? シキが謝ることじゃない。私が失敗した。剣だけで、上手く殺し切れなかった。ねえ、シキ。アルベルト、困る? 私のせいで、国を追われる?」
気落ちしたようにそう尋ねるユーフォリアに、シキは顔を上げて首を横に振る。
「お話を聞く限り、そのレオネルという男は多少信頼できる者かと存じます。しかし、もし万が一、この屋敷に住まうことが難しくなったとして、シキは今度こそ必ずお嬢様と共に在ります」
そうはっきりと言い切ってから、失礼します、とシキはユーフォリアの両手を取って強く握り締めた。
いつもよりも少し鋭さに欠ける金の瞳が、シキの顔をじっと見る。
「ひとまずは屋敷にてお身体をお休めください。騎士団の件は、アルベルト様に判断を仰ぐべきでしょう。グレア殿には話をしてありますので、軽くでもお食事をして頂きたく存じます。消化器官の損傷については、ほとんど治癒されていると拝見しましたが、食べられそうですか?」
「うん、お腹、空いた。でも……今日は、肉じゃないものがいい」
ユーフォリアが頷き、少し気怠そうな声で答えた時、お嬢様、という聞き慣れた声と共に居室の扉が叩かれた。
食事を乗せた盆を手にしたグレアに率いられ、シキに右半身を支えられながら、ユーフォリアは二階の自室へと辿り着く。
先程グレアが食事は部屋で取った方が良いだろうと提案したが、ここに来るまでに他の使用人とすれ違わなかったところをみると、それもきっと彼女が気を回してくれたのだろうとユーフォリアは思った。
「旦那様から連絡が、一時間後に帰宅されるそうです」
小さなテーブルへ、消化の良さそうなスープとカトラリーを並べながらグレアがそう告げる。
一言礼を言って、スプーンを手にしてから、ユーフォリアはまた少し肩を落とした。
「グレア、ごめん。何回も教えてくれたけど、私上手に騎士できなかった」
まずは食事を摂ってくれとシキに懇願され、ユーフォリアは返答がある前にスープを口へと運んだ。
恐らくは例の野菜と、それからいくつかの薬草が含まれた液体は、少し口内の傷に染みるが冷え切った身体を温めてくれるようだった。
いつもより血色の悪い頬に残された引っ掻き傷が、じわりと薄くなっていくことを確認してから、グレアは部屋の床へと両膝を付き、寝台に座ったユーフォリアと目線を合わせた。
「大変失礼ながら、先程居室の外よりお話を聞かせて頂きました。ユーフォリア様、何故、件の魔獣を引き付け、駆除しようとなさったのですか?」
「? だって、すごくお腹空かせてた。あの魔獣、魔力が多くてよく食べる。だから、あそこで殺さないと、レオネルたちも、それからグレアやシキたちも、市場の人間も、皆残さず全部食べられる。そしたら、アルベルトも、私も困る」
すぐに食事を終えたユーフォリアがスプーンを置き、酷く眠そうな顔で呟くように答える。
シキがその身体を寝台へと横たえて掛け物をかけた。グレアは立ち上がり、ぼんやりとした表情でこちらを見上げるユーフォリアに微笑みかける。
「それが、騎士というものだと思いますよ。それから、今がその機会かは分かりませんが、はっきりとお伝えしておきます。
私たちは、旦那様にお仕えすると同時に、ユーフォリア様のことも屋敷の主人と思っております。仮に国から処罰を受ける身になろうとも、ここを出て行かせるような真似は、断じてさせませんので、どうぞ覚えておいてください」
ゆっくりと子供に言い聞かせるような言葉に、シキが微かに肩を震わせた。彼女が先程の会話を受けて、シキに向かっても告げていることは明らかだった。
「どう、して……?」
「私たちも皆、ユーフォリア様のことを大切に思っているからですよ。お嬢様が私たちを、そう思ってくださっているように」
グレアが返答を返した時には既に、ユーフォリアの瞼は重く閉じられていた。
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