ep.7 剣の道 (1)
屋敷の敷地から外へと続く門を出て、城砦の方へと向かっていくアルベルトの背を見送りながら、ユーフォリアは大きなため息を吐いた。
「はあ……一昨日が新月だったから、アルベルト、また一週間くらい帰ってこないね」
「その間に、以前欲しがっていらっしゃった魔法生物に関する本をお読みになられてはいかがですか? ちょうど今朝方、届いておりましたよ」
グレアの慰めのような言葉に、うん、と頷いてから、ユーフォリアはもう一つため息を吐く。
彼女がこの屋敷に住むようになってから、半年の月日が経っていた。
この頃はアルベルトが屋敷に寝泊まりすることは月の半分もなく、勉強や調理などやることならば山のようにあったが、しかしユーフォリアは不満げに口を尖らせる。
「あのむずむずするやつ、すごく気持ち良いから、満月と新月だけじゃなくて毎晩やってくれたらいいのに」
「お嬢様! 以前にも申し上げましたが、魔力供給に関する話は公然で行うものではありません!」
途端、シキが眉を吊り上げて声を荒げた。
少しうるさそうに片耳を押さえて、ユーフォリアは苦いものを食べた時のような顔をする。
「シキ、グレアよりも『淑女の嗜み』にうるさくなった」
「当然です! お嬢様はアルベルト様の奥方となられるお方なのですから、ゆくゆくは社交に出られることもあるでしょう。もしも無作法に嘲笑を受けるようなことがあれば、このシキは首を切ってお詫びする前にその無礼なご息女方を仕留めねばなりませ――痛い!」
早口で捲し立てていたシキは、突如として頭頂部を襲った衝撃に、頭を抱えてその場に蹲った。
その向こう側から顔を現したグレアが、拳を握ったまま深いため息を吐く。
「あんたこそ、屋敷の使用人としての教養をいい加減に身に付けてほしいもんだね。そうやって毎度のように喧嘩されてきたんじゃ、いつまで経っても一人で買い出しも任せられやしない」
「グレア、グレア、私昨日アルベルトと買い物に行った時に、価格コーショーできたよ! 半分のお金で貰えた!」
買い出し、という単語に反応して、嬉々として成果を報告するユーフォリアに、弾かれたようにシキが立ち上がった。真っ青な顔でユーフォリアの両肩を掴み、首を大きく横に振る。
「お、お嬢様! よりによって旦那様がご一緒されている時に、そのようなことをされてはなりません!」
きょとんとした顔で首を傾げるユーフォリアに、グレアはシキの両手を外させてから、少し困ったように微笑んだ。
「申し訳ございませんが、本は、昼食の後に致しましょう。まずは私と市井へ降り、昨日訪れたという店を教えて頂けますか」
「……私もご一緒致します」
以前に一度、ユーフォリアの前で値切りを見せたことのあるシキが、顔を赤くして頭を下げた。
その日の夜、就寝すると言って自室へと向かっていたユーフォリアは、ふと途中で方向を変えて違う部屋へと身を滑り込ませた。
アルベルトの部屋には当然のことながら誰の姿も無く、しんとした室内は余計に広く思える。
静かに扉を閉めて、ユーフォリアは迷うことなく、執務室から続く寝室へと入った。
大きな寝台は綺麗に整えられ、使用者が不在中のため埃除けの布が掛けられている。それを一部分だけ捲ると、ユーフォリアは頭からもぞもぞと寝台へと潜り込んだ。
掛け物の下で、一つ大きな深呼吸をして、ユーフォリアは少し安心したような息を吐く。
アルベルトが連日屋敷を空ける時期の、特に最初の数日間は、彼女はいつもこのような行動に出ていた。
真っ暗で少し温かい空間の中で目を開けて、ユーフォリアは不満げにシーツを爪でがりがりと引っ掻く。
美しく滑らかに整えられた爪先は、最近は肌や布を裂くことはなかったが、この日はつい力を込めすぎたのか、微かな乾いた音と同時に指が半分ほど寝台に埋まった。
「わっ……」
ユーフォリアは慌てて指を引き抜き、掛け物を蹴り上げ剥がして、今し方音がした箇所を探す。
想像通りそこには指よりも少し太い穴が空いており、彼女はがっくりと肩を落とした。
「アルベルト、ごめん。でも、帰って来ないのが、悪い」
呟くように謝罪しながら、また沸々と湧き起こった不満をつい口に出す。
彼は、基本的に彼女の望むことは叶えてくれようとしたが、しかしこの騎士団の仕事に関しては別だった。
かつては殆ど無秩序だった治安維持部隊を、貴族の家を殆ど捨てるような形で出奔したアルベルトが、一代で今のような組織に作り変えたのだとシキに聞いたことがある。
グレアによると、王国騎士団の役割はやはり国の安全を守ることであり、ここ数年は随分と市井の方まで犯罪が少なくなったのだという。
ユーフォリアには、実に解せなかった。
己に降り掛かる危害を振り払うことは理解する。彼女にとって、アルベルトや、最近ではグレアやシキといった使用人たちも自分の縄張りの範疇であり、それを害するものがあれば迷わず排除するだろう。
しかし、それ以外の人間や動物は、つまり外界でしかなく、何故それらを守るためにアルベルトが家を空けなければいけないのかと思った。
以前に一度、直接彼に聞いたことがある。どうして自分以外の個体を守らなければならないのか、という問いに、アルベルトは、いずれ分かる時が来る、とそれだけを答えて笑った。
その時の会話を思い出し、ぼふ、と音を立ててユーフォリアは寝台に仰向けに転がった。
何故だか無性に胸の辺りが空になったような妙な感覚がする。
新月が近かっただろうかと思いかけて、つい一昨日の夜にこの寝台で供給を受けたことを思い出した。
「アルベルトー……早く帰って来たらいい……」
今度は胸の奥がざわついたような気がして、そのむず痒さに、ユーフォリアはごろごろと寝台の上を転がりながら彼の帰還を呟く。
ふと、すぐ側に置かれた机に置かれた書物が目に入った。
「? アルベルト、毎回これ持って行ってるのに……えっと、何だっけ、あ、『忘れ物』だ」
つい先日、シキがグレアに叱責を受けていた場面を思い出し、ユーフォリアは身を起こして少し考えるような素振りを見せる。
何の本かは知らないが、これを置いて行ったことで、アルベルトが誰かに怒られることは良くないことだと思った。
「道は分かる。前に忍び込んだ」
うん、と頷いて、書物を手に取り、彼の部屋を後にした。
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