ep.6 新月の夜
ユーフォリアがここに住むようになってから一ヶ月が経った。
初めのうちは常に屋敷にいたアルベルトは、日中は城砦の方へと出向いていることが多くなっていたが、それでも夕食の頃になると必ず帰ってきた。
昼間もいれば良いのに、とユーフォリアは思い、本人にもそう言ってみたことがある。彼は、すまない、とそれだけを答えて、彼女の頭をひと撫でしてからまた城の方へと向かっていった。
シキから一度、むしろ騎士とは基本的に詰所に寝泊まりするものであり、連日の帰宅はお嬢様のためなのだ、と説明されたが、ユーフォリアにはそれでは何故騎士になると自分の屋敷に住まないのか、その方が不思議だった。
シキが増えて、屋敷は少し賑やかになった。
彼女が調合したという洗髪料は、これまで使っていたものよりも匂いがなく、それでいて泡立てやすく、ユーフォリアはとても良いものだと思った。
最初は苦手だった湯浴みも、温かい湯に頭まで潜ることが気持ちがいいと気付いてからは、毎日の楽しみとなっている。
しかし時たま、グレアやシキがきちんと洗えているか抜き打ちで確認しに来るので、その度に湯船は泳ぐものではないと注意を受けた。
◇
この日もゆっくりと湯に浸かり、芯までほかほかと温まった身体で、ユーフォリアは自室の寝台へと上がる。
枕の下からアルベルトの手袋を引き出し、共に掛け物の中へと潜り込んだ。
以前に寝台の下に隠していた上着は、掃除の際にグレアに見つかり、洗濯に出すと言って回収されたきりだった。
その代わりに、アルベルトが彼の小物を幾つか渡してくれたため、ユーフォリアはそれを寝台の色々なところに隠しては、就寝の際に取り出して一緒に眠っている。
「……少し、寒い」
掛け布団の中で、ユーフォリアが呟く。
もぞもぞと頭を出して、窓の向こうが真っ暗であることを確認して、これが新月か、と得心したように頷いた。
一ヶ月前、彼女が城砦の執務室へ彼を暗殺しに行った夜、あの日も同じく新月だった。
随分と寒い夜だと思ったが、彼が言うには、それは魔力の枯渇状態なのだという。
腹が減った時のような、何とも物足りないような感覚、それはあの石牢に繋がれていた時も度々経験したものだった。
◇
四面と天井床を石で覆われた薄暗い空間は、ここ数年の彼女にとって狭く、両手足を伸ばして転がると、そのどちらか片方が壁に触れることが少し気に食わない。
外界へと繋がるのは、たまに飯が入れられたり、仕事のために引き摺り出されたりする正面の格子戸と、それから天井付近にある鉄格子の窓だけで、しばしば暇を持て余した彼女はその窓からぼうっと外を見ることが多かった。
昼、という明るい時間帯が過ぎれば、ほんのしばらくの間だけ外が赤紫になった後で、暗い夜が来る。
毎晩ではないが、たまに格子の隙間から、白く輝くものが石牢を照らしてくれた。
月、という名前は知らなかったが、その温かいような冷たいような独特の光が彼女は気に入っていた。
しかし、輝きが全く姿を見せない夜も多かった。
特に、時たまやってくるこの真っ暗な夜は、何故だかいつもよりも寒く感じ、腹の辺りが空っぽになるような気がする。
ふと、先日噛み殺した使用人の男が、最期に呟いた言葉を思い出した。
母さん、と彼はそう言って、冷たく濡れた部屋の血海の中で事切れた。
「かあ、さん」
冷え切った藁の中で、彼女はそう呟いた。
何ものかは知らないが、腹の辺りがほんの少しだけ温かくなったような気がしたので、きっと良いものなのだろうと思いながら静かに目を閉じた。
◇
「――、ユーフォリア」
身体を軽く揺すぶられる感覚に、ユーフォリアは自室の寝台の上で目を覚ます。
酷く重い瞼を持ち上げると、暗い室内に見慣れた顔が浮かんだ。
「アル、ベル、ト……さむい……おなか、すいた……」
「体内魔力の欠乏状態だ。就寝前に供給に来いと言ったろう」
「わすれ、てた……さ、むい……」
そう言ってまた瞼を閉じようとするユーフォリアの上体を、アルベルトがそっと抱き起こす。
彼女の身体は随分と冷え切り、すっかり魔力が枯渇していることが伺えた。
シキから聞いた限り、新月の影響で彼女が深刻な状態に陥ったことはなく、また先月の夜も、放出はできないまでも倒れるほどではなかったため、正直なところ事態を楽観視しているところがあった。
事態の急激な悪化に幾つか思い当たる要因はあったが、アルベルトはまずはこの状況をどうにかすることが先決だと、それらの思考を端へと追いやる。
そっと彼女の頬に手を添えて、数秒悩んでから声をかけた。
「ユーフォリア、私の魔力を吸い取れるか」
「や、だ……」
「心情は理解する、だがお前をこのままにはしておけない」
虚になりかけている金の瞳を見下ろし、アルベルトが首を横に振る。
他者への干渉自体は得意とするはずの彼女が、それを躊躇う理由も理解したが、握った手の氷のような冷たさに、彼はもはや迷わず、覆うようにして彼女の唇を塞いだ。
「んぅ――」
ほんの少しだけ彼女の唇に熱が戻ったかと思うと、次の瞬間には首の後ろに両腕が回され、アルベルトの身体は強い力で寝台の上へと引かれていた。
体内の熱の全てを持っていかれるのではないかという暴力的な魔力の流れに、アルベルトは片手を寝台につき、倒れ込むことを防ぎながら彼自身の力の制御に集中する。
表層に飽き足らず、奥底に封じ込めたものまで引き出され、魔力組織ごと書き換えられそうな感覚、それらに何とか抗いながら一度強い目眩を感じた時、不意にアルベルトの唇は解放された。
「っ……ぐ……」
大きくぐらついた視界に、彼は額を抑えて軽く被りを振る。
一度強く目を瞑り、開けると、白霞みしかけた視界は随分とクリアになった。
「アルベルト、ごめんなさい」
いつの間にか完全に身を起こし、寝台にぺたりと座ったユーフォリアが、気落ちしたような表情で肩を落としている。
その肩にそっと触れると、アルベルトは微かに笑いながら首を横に振った。
「問題無い。加減をしてもらえたことに礼を言おう」
「だって、アルベルトいなくなったら、こまる」
そう言って口を尖らせたユーフォリアに、アルベルトは、そうだな、と柔らかな声で答えながら彼女の身体を片腕で引き寄せる。
指を通しながら軽く撫でた髪は、屋敷に来た頃とは比べ物にならない程に艶を増し、この一月で背丈すらもだいぶん伸びた。
先日シキが『繁殖に利用されないために、苦肉の策で栄養状態を制限していた』と言っていたが、ここに来てからの彼女の食事量を見るに、成長を抑えられていた身体が在るべき姿に戻ろうとしているのだろうと思われた。
知識の吸収速度も尋常ではなく、少し前には文字すら読めなかったというのに、最近では調理法が書かれた本から買い出しの品を抜き出して記録することができるという。
その一方で、人間一人の喉など容易に握り潰せるであろう爪と握力、直接干渉するたびに熱を増していく底無しの魔力、それが普通の人間として擬態して生きていくことが、どれ程困難な道であるのか。
シキに指摘される前から、彼女を人間社会に引き込んだことへの責任は果たさねばならないと、アルベルトは理解していた。
「ユーフォリア、話がある」
寝台の横の床へと片膝をついて、彼女を少し見上げるようにしながらアルベルトは静かに告げる。
ユーフォリアはごそごそと寝台の上で身を滑らせ、両足を縁からぶら下げるようにして座り直した。
「うん、何?」
首を傾げるユーフォリアの手を掬うように取って、アルベルトは真っ直ぐに彼女と視線を合わせたまま、話の先を続けた。
「まずお前の体内魔力だが、恐らくは未だ発達途中にある。制御の術を学ばせてはいるが、しばらくはお前一人で抑え切ることは難しいだろう」
「分かった。アルベルトがやる?」
「そのつもりだったが、正直なところ次の満月は、先の方法では厳しいだろうと思っている」
ならば他の方法でやるのか、とそう聞いたユーフォリアに、アルベルトは数秒だけ言い淀み、少しだけ逸らした視線を再び彼女の目へと向ける。
細い手を握る力を僅かに強めて、彼は至極真剣な表情で告げた。
「お前の……肌に触れることを、許してもらえるだろうか」
「うん、分かった」
ユーフォリアが即座に、先と全く同じ調子で頷き、その様子を見たアルベルトは少し苦々しげに眉を寄せる。
恐らくはいざその時になったとして、何の疑問も持たずに行為に応じるのであろうことは容易に想像出来た。
無言で顔を顰めるアルベルトに、ユーフォリアが不思議そうな表情で首を傾げる。
彼女が何かを言う前に、アルベルトはその場に立ち上がり、寝台に座ったままの身体をそっと抱き寄せた。
「すまない。本来であればお前が、少なくとも婚姻の意思を示せるようになるまでは控えてやりたいと思っていた」
「こんいん? 分からないけど、アルベルトが決めたならいいよ」
「今すぐにではない。その時が来れば、私はお前に求婚する。だが、忘れるな。お前は、お前にとって不快なものを拒む権利がある。私や、この屋敷を不快に思ったのであれば――」
そう言いかけて、アルベルトは少し苦々しげに口を噤む。
それを拒んだところで、彼女に行く宛がある筈もなく、もはや脅迫に等しいと思った。
またもや黙り込んだ彼を怪訝に思い、もぞもぞと腕の中で身を捩って顔を出し、強く眉を寄せるアルベルトの顔をじっと見上げて、ユーフォリアが首を傾げる。
「? アルベルト、魔力足りない? あげる?」
「いや……すまないな、出来る限りお前が幸福に過ごせるよう努める」
強く抱き締めていた腕から彼女を解放し、その頬を指先でそっとなぞって、アルベルトはそう言って苦笑した。
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