『ジューンブライドと赤いリボン』

スナコ

『ジューンブライドと赤いリボン』

鹿の子のリボンは万能。目隠しにもなるし、手も縛れるし、猿轡にもなるし、××××にだってなれちゃうの!


六月、梅雨真っ只中。夜中から降り続く雨によって外で遊ぶという選択肢を奪われ、一人小さな家に閉じ込められて。少女、葡萄鹿の子は、暇を持て余していた。

家にあるおもちゃというおもちゃはとっくのとうに遊び尽くしてしまったし、下の兄弟である砂宕と猪の子は雨の日特有の強い眠気によって二人仲良く夢の中。一番のおもちゃ・・・もとい、遊び相手である兄の真砂は買い出しに出ていて、いつ帰るかはわからない。

ふーむ、困った。やる事がない。学校の宿題も終わらせてしまったし、だからといって予習の気分ではない。あんまり頭を使わずにできる、わくわくできる楽しい事がしたいのだが・・・。

「んーぬ、しょうがないか」

背中から倒れ込み大の字になって天井を見上げていた体を起こし、ぐるりと体を反転させ手を使ってずるるっと下半身を引き摺りながら移動する。なめくじのように。ちょうどその状態での目線の位置にある黒い台の上に置いてあった分厚い板状の機械を手に取りボタンを押すと、ぶちっと空気を震わせる音に数秒おくれて、わっ!と賑やかな人の声が溢れ出した。動かずに頭に刺激を与えてくれる、一方的な暇潰しにはうってつけの代表格、テレビである。

襖を隔てたすぐ隣で寝ている弟妹達を起こしてしまわないように、慌てて音量を絞ったせいであまり聞こえはしないけれど。音はなくとも、流れていく映像と、字幕があるから大体の流れはわかる。

ポチ、・・・・・・・・・ポチ、・・・・・・・・・ポチ。時刻は平日の午後四時過ぎ。ドラマにもバラエティにもまだ早く、チャンネルボタンを押しても押してもニュースか子供向けの番組しかやっていない。しかも教育番組のチャンネルで流れているのは子供は子供でも、末っ子である四歳の猪の子が喜ぶような、乳幼児に近い歳の子を視聴層にしたものだった。鹿の子は十一歳、さすがに幼児番組で手を叩いて喜べるような精神年齢はしていない。

しょうがない、ニュースで我慢するか。自分にも関係があるからと、ちょうど天気予報の時間だったチャンネルでザッピングの手を止める。

布団の剥がされた炬燵に両肘をつき、その頭頂で組んだ指と指の間に顎を乗せて、楽な体勢になると。流れる映像を目で追い始めた。

明日も朝から雨だと、気象予報士の解説と共に現れた東日の地図の上いっぱいに散らばる、雨粒を受けている傘のマークに少々げんなりした気持ちになる。きつい癖っ毛が湿気を吸って膨張し、水に濡れると四方八方に広がって収集がつかなくなるため雨の日を嫌がるすぐ上の姉と違い、鹿の子は雨は嫌いではない。髪質はストレートに近いからあまり湿気の影響を受ける事はないし、水溜まりを踏んで歩くのは楽しくて好きだ。

ただ、こう何日も続けば飽きてしまう。そろそろ公園のブランコで風を切る感覚が恋しい。

うぶー、と不満に頬を膨らませている内に、画面をくるくると忙しなく移動していた指示棒が下ろされ、気象予報士が頭を下げ、その隣でぴょこぴょこ動いていたマスコットの着ぐるみが短い手を振った。天気予報の終わりの合図だ。

再び、やれトラックが通学中の小学生の列に突っ込んだだ、どこの家が全焼しただ、どの会社の役員が横領しただ・・・自分には関係のない遠い世界の、しかし確かなる不幸ばかりが、淡々と感情のこもらない記号的な情報として流れていく。

やっぱりつまんないなぁ、別のにするかぁ、と再びリモコンにかけられた手は、

「続いては、特集のコーナーです。六月といえばの、結婚業界一のロマンチックなイベント!ジューンブライドについてです」

結婚。その四文字の響きが持つ、幸せで希望に満ちたイメージに、リモコンを持ち上げ宙に浮かせた鹿の子の手はぴたりと止まり。興味をなくして部屋の四方に散っていた視線も、自然と吸い寄せられた。

ジューンブライド。なんとなくは聞いた事があるような気がする・・・季の子おねぇちゃんが言ってたんだっけ?恋物語と、運命の出会いだったり前世からの絆だったりってロマンチックな話が大好きなおねぇちゃんが話してたって事は何か、そういう事なんだろう。

今以上に子供で恋愛に欠片程の興味もなかった当時の自分には、正直覚える優先度が低かったのだろう。話の内容は記憶の地層に埋もれてしまって、ほり起こせそうにはない・・・が。

今は、違う。あの時とは違い、自分は恋を知った。知ってしまった。

から。恋の先にある、愛の結実の証明である結婚にも、興味を引かれるようになった。

「恋は人を変えるんだって!」、兄弟一物静かで自分の考えを口に出さない・・・正確には、酷い怯え癖に邪魔されてあまり出せない季の子が、顔を上気させ、目を輝かせて、大切にしていた恋愛小説を胸に抱きながらよく語っていたのを思い出す。あの時はそういうものかと、海を隔てた遠い国の出来事のように聞いていたけれど。今なら、「そうだね」と、実感を込めて頷いてあげる事ができる。残念ながら、彼女も大分前に家を出ていってしまったから、それは叶わないけれど。

頭の片隅でそんな事を考えながら、目はテレビの画面に浮かぶ文字と映像を追う。ジューンブライドの成り立ち、意味、いつから日本に広まったか、結婚についての今時の世間の考え方・・・たっぷり二十分程組まれた特集を、見終える。それによると、こうだ。

「六月に結婚した花嫁は、幸せになれる」。

なぜ花嫁だけなのか、とちらりと疑問もよぎったけれども。単にイメージの問題じゃあるまいか、と鹿の子は勝手に結論付けた。結婚といえば真っ先に浮かぶのはウェディングドレスを着た綺麗な女の人だ。結婚と聞いてすぐに黒いタキシードを着た男性が浮かぶ人は少数派だろう。

結婚とは愛し合う二人がするもので、だから花婿の方だって幸せじゃないはずがないので。よって正確には、「六月に結婚したカップルは幸せになれる」が正しいのだろう。

テレビの特集は、他にも大事な事を教えてくれた。「結婚指輪を交換する意味」。

指輪はその名の通り、輪であり円。円には「完璧な物」、「永遠」の意味があり、それを交換する事で永遠の愛を誓うのだ、と。

左手の薬指に嵌めるのは、そこが心臓に直結し、愛情の静脈があると信じられていたから。

小指に結ばれた運命の赤い糸を手繰って出会い、愛を司る部位である左の薬指に相手から受け取った指輪を嵌める事で、二人の繋がりを永遠のものにする。

解説役である若い女性のアナウンサーにも、恋慕う相手がいるのだろうか。「とてもロマンチックで、素敵な風習ですよね」と、恋する者特有の熱に浮かされたようなふわふわ定まらぬ、それでいて星のようにきらきら輝く目をして用意された台本の言葉に自分の考えを繋げた。

新しく得たそれらの情報を元に、鹿の子の思考はゆるりと動き出した。

運命の赤い糸は、左手の小指に結ばれているもの。結婚指輪は、同じく左手の薬指に嵌めるもの。

組んでいた指をほどき、自由になった左手を目の前に翳してみる。

「・・・」

じ、と、睨むように強く見つめてみても、そこに広がるのは白に近い肌色ばかり。愛に燃える赤色も、永遠にきらめき続ける銀色も、ない。

「・・・むーう・・・」

不満だ。納得いかない。自分の胸にはこんなにも、今にも溢れそうな程の愛が詰まっているというのに、それを証明できる物がないなんて。

赤い糸は天が授ける物であるし、指輪は・・・頑張ればなんとかできなくはない、が、指輪は宝石の一種。宝石がとんでもなく高価であるのは、子供でも知っている世界の常識。

今の自分は十一歳。働きに出られるようになるのは高校生からで、小学生はどこに行っても雇ってもらえない事くらい、世間知らずの自分でも知っている。

すぐ上の姉のように、自衛隊なら兵士として子供でも使ってもらえるようだが、それも十二歳限定で、それより上はまだしも下は全くの対象外なのらしい。一番の近道でさえも、あと一年待つ必要がある。掌を開いた両手をぱっと上げるジェスチャーを取る。手詰まりだ。

正直な所、自分は恵まれている・・・濁さずはっきり言うなら、たくさんの人達から愛されている自覚がある。それはもう、世界そのものに愛されているのではないかなどと錯覚してしまう程に。自分が望めば、大抵の物は手に入ってしまう。両親、兄姉達、近所の知り合いの大人達・・・ねだらずとも、軽い気持ちであれいいなぁと口にしただけで、誰かしらが与えてくれてしまうからだ。

だが、指輪。単なるアクセサリーならともかく、「結婚」指輪・・・こればかりはさすがに、人にねだって手に入れる物ではないだろうと、思う。

永遠の愛の象徴、愛し合う二人の結びつきを意味する・・・愛とは自力で勝ち取り、自分で育てていくものだ。そこに他人が介入するのは、他人の手を借りるのは、絶対に違う。

まだ子供であっても、・・・いや、逆にまだ子供だからこそだろうか。鹿の子は自分が抱える愛に対して、真摯で誠実であろうとする気持ちが強かった。

ちょうど今は六月。指輪、指輪さえあれば。正式な結婚はまだ無理にしても、真似事だけなら、できる。幸せな結婚・・・彼を、幸せに、できる。可哀想な彼を、幸せに。自分が、笑顔にさせてやれる。

ぴしっとした黒いタキシードに身を包んで、自分が嵌めてやった指輪を手に、喜びの涙を滲ませて笑うあの人。その想像に、頭の中の彼が自分に向ける笑みに。鹿の子は目を逸らすようにぱっと俯いて、昂揚に熱くなった頬を両手で押さえた。

この夢を、自分の手で現実にできるなんて。なんて素敵で、甘美で、素晴らしい事だろう?

小学生の自分はもちろん、想い人である彼もまだ結婚できる最低年齢には届いていないため、・・・だけでは、なく。もうひとつ、大きな理由のせいで、法的な効力を持つ結婚ができる日はいつになるかは全くわからない・・・下手すれば、一生こないかもしれない。

けれど、いや、だからこそ。

「結婚、したい・・・」

夫婦という関係ではなくても、自分達はほとんどの時間を誰よりも近い場所で過ごせている。正直な所、結婚できたとしてもできないままでも、生活自体は今とそうあまり変わる事はないと思われる。

今の状態だって、確かに幸せではあるけれど。二人で、愛し合う二人だけでしか育てられない、特別な幸せを手に入れたい。誰かを愛したならば、当然の願望だと思う。

世間からの承認は必要ない。ただ、概念としてだけでも、自分達のために目に見える確かな形としての証明がほしい。

そのためには、やはり指輪を手に入れるのが一番。・・・しかし、今の自分にはそれを用意できる程の蓄えも、力もない・・・。

ぐるぐる、思考が同じ結論に至ってはまた当初の問題に立ち返り、同じ所を回ってループする。ウロボロスみたいだと、昔一番上の兄からもらったカードに描かれて(えがかれて)いた蛇のモンスターの姿を鹿の子が幻視していると、


がららん、がぢっ、ごもも・・・がっ、ぢゃん


鹿の子から見て右側、玄関の向こうから、大きな鈴が鳴るくぐもった音が聞こえた。次いで何か固い金属質の物同士がぶつかりこすれ合う重い音、がしたと理解した次の瞬間、

「うひー、ちっかれた~」

ぐばっ!と大きく玄関のドアが開く(あく)と同時に、湿気に満ちた重く生ぬるい空気と、大きな人影がひとつ家の中に入ってきた。

声につられて顔を向ければ、思った通りのよく見知った姿。鹿の子の一番の遊び相手にして十一年の人生において最高のおもちゃ、二番目の兄である真砂の帰還である。

指先しか出ていないだぶついた袖にくるまれた両腕には、家族六人分の食料やら日用品やらがぎっちり詰まった大きな手下げのビニール袋がいくつも通されていて。彼の紫色の服に痛々しい程に食い込み、縛られたチャーシューのような有り様になっていた。

彼は子供達の半数以上が巣立った葡萄家において、今現在最も年嵩の子供である。その上に、男性で力が強く体力が有り余っている事を見込まれ(正確には目を付けられ)、今では買い出しはすっかり彼の仕事だ。

大量の荷物をぶら下げながら傘を差すのは少々難しかったのだろうか。服の両肩と前面はしっとりと濡れて無事な部分と比べて明らかに濃い色に染まって、髪には細かな水の粒がついていて、蛍光灯の光を受けてきらきらと光っている。

歩く度にじゃんしゃんと荷物がぶつかりビニールがこすれ合う音を鳴らしながらこちらへ、正確には鹿の子がいる居間を通り隣にある台所へと向かってくる兄の姿を、睨んでいた手から目を離して見守っていると。その視線に気づいた真砂が、おや?という表情をしながら小さく首を傾げた。

「どしたぁ姫さん?んな静かに難しー顔して、腹でも壊したか?」

いつもにこにこ、笑顔が常。怒哀が薄く、喜楽の発露ばかりが目立つ彼女が笑み以外の表情を浮かべている事は稀であり、それこそ体のどこかが悪い時くらいしか険しい顔は見た事がない。

よって、心配して声をかけた真砂に対して、

「えー?鹿の子、そんなすごい顔してた?」

空っぽの指を睨んでいたままの顔を彼に向けていた事に気づいて。完全に意識の範囲外で浮かんでいた表情を、慌てて繕い、ぱっ!と。鹿の子はいつも通り、・・・いや。真砂の心配と彼の中に残る数秒前の記憶を掻き消そうと、いつも以上に明るい笑顔を咲かせてみせた。

鹿の子の笑顔には力がある。にこにこしたままなんでもないよ~?ととぼけてみせれば、

「そっか?ならいいんだ」

真砂は信じた様子で、にっと笑い返し。右腕に下げていた荷物をその場にどしゃっと置いて、鹿の子の頭を軽く一撫ですると、買ってきた食料をしまうべく再び荷物を手にして彼女から離れた。「また痛くなったら早く言えよ?」と、気遣いの言葉を残して。

「・・・」

みしみしと畳を軋ませながら台所に向かう彼の、後ろ姿を見送る。歩く度にばさばさと背で跳ねる、狐の尻尾のように太い纏め髪が、可愛いと思う。

自分の様子がいつもと違うのを心配し、わざわざ自分の頭を撫でるためだけに足を止め、荷物を下ろした。その気遣いが嬉しいし、そういう事をする心根が、好きだと思う。

手ぇ洗わんきゃーとひとりごちながら洗面所に向かいがてら上半身の服を脱ぎ、露わになったみしっと締まった上半身に、抱き締められたいと思う。

可愛い。好き。愛してる。自分が結婚するなら、隣に立つ相手は彼以外ありえないと、思う。

そう、鹿の子の想い人とは、彼。葡萄家四子であり、鹿の子と六つ違いの二番目の兄、葡萄真砂なのだ。

血の繋がった、兄。兄弟同士では、結婚できない。昔から続く、世界の決まりらしい。

けれど、それがなんだというのだろう。愛はこの世で一番尊ばれるべき、うつくしい物。それもまた、世界の常識ではないか。

他人なら許されて、家族とは許されないなんて。それこそ許されてはいけないはずだ。

人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ。とてもいい言葉だと思う。例え神様であっても、この恋を止める権利なんてないと、思う。

ふと、気づく。日付が気になり、壁にかかっているカレンダーを見やる。今日は水曜日だから・・・二十二日。

ざわりと、胸が焦りに気持ち悪くさざめく。六月は三十日までしかない、から、あと十日もない。

この機会を逃したら、次の六月まで一年も待たなくてはならない。一年。大人と比べて時間の進みが格段にゆっくり流れて感じられる子供である鹿の子にとって、それはあまりに、あまりに長すぎる期間だった。

いいや、指輪を手に入れる代金を貯めるためには時間がかかるのだから、むしろ都合はいいのかもしれない。だが、鹿の子には不安があった。一年もの間、彼になんのアプローチもせずにいる内に、誰かが彼に手を出してしまったらどうしよう、と。

構われたがりで、愛されたがりで、極端な淋しがり屋。頭も正直、そこまでよくはない・・・ほんの少し甘い言葉をかけられたら、対した警戒心も抱かない(いだかない)まま、ころりとそちらに靡いてしまいかねない。

自分がもたもたしている内に、知らない女が兄の可愛さに気づいて、言い寄りでもしたら?

「ッ、うげぇっ・・・!」

頭の中の仮説に、自分が生み出した実在しない想像に過ぎないにも関わらず、焼けるどころか胸が爛れそうな程の熱い熱い熱い熱い黒い気持ちが一瞬にして広がり。火事の煙のように濃密で真っ黒なもやの塊が喉を塞ぐ苦しさに、鹿の子は舌を限界まで出して呼吸を取り戻そうと試みたが、うまくいかずにえずいてしまった。

喉に詰まった塊をうまく吐き出せずに苦しんでいる内に、悪い想像はアメーバが増殖するような早さで見る間に広がり、連鎖的に更なる地獄を連れてくる。

胸の大きな、露出度の高い服を着た、いかにもな大人の女が。真っ赤な口紅を塗ったきたならしい口で、真砂に安っぽい誘い文句を垂れ流している。

真砂はといえば。女のわざとらしい色香にすっかりやられて盛ってしまい、ただでさえ締まりのない表情筋を限界まで緩めきり、だらしのない最悪な顔を晒している・・・。

ガンッ!

想像にしたってあんまりな、世界で一番存在してはならない光景をぶち壊すべく、鹿の子は裏拳で自分の額を激しく打ちつける事でなんとかそれ以上心にダメージを負う事を回避した。

じわりと生まれた涙で目の前が滲むのは、顔を打たれる痛みという慣れない感覚を味わったから、・・・それ以上に、胸を焼き尽くそうとする、緑色に燃える嫉妬の業火による苦しみのせいだった。

嫌だ、嫌だ。おにぃちゃんは鹿の子のだ、誰にもあげない。

家族であるたかにぃちゃんに泣かされるのだけでもあんなに面白くなくて、なのにあろう事か、どこの馬の骨ともわかんない知らない女に?おにぃちゃんが、誘惑・・・

ぎりりっ!と頭蓋骨を震わせた鈍い音と振動に驚いて、思考が中断される。音の発生源は何かと首を巡らせて探すも、原因らしきものは見当たらず。しかしふと、いやに左の歯が鈍い痛みを訴えているような気がして。さっきの音は怒りのあまり無意識に行った(おこなった)歯軋りによるものだと気づく。

怒りに我を忘れるという今までにない反応に、体と心が自分のコントロールを離れて勝手に動く感覚に。自分の想いがどれ程までに強く深いかを実感する。恋とは、誰かを愛する想いとは、人をこうまで狂わせてしまうのだと。恐ろしさと誇らしさが、鹿の子の胸の片隅に生まれたけれど。それ以上に心を占める別の思考によってパニックを起こしかけている彼女に、それを自覚する余裕はなかった。

早く、早く結婚しなくちゃ、おにぃちゃんを誰かに取られちゃう。

衝動に気持ちは急くものの、しかしどうすればいいのかいい方法が見つけられないまま、焦りばかりが空回り。幼い故の無力さに、鹿の子の目に強い悔しさから生まれた涙が滲む。

何かないか、何か。もうこの際おもちゃでもいい、本物でなくても、とりあえず指輪として生まれた物なら。本当ならきちんとした物を用意して、全ての舞台を整えて、最高の状態でずっと思い出に残るプロポーズにしたいけれども。形ばかり気にして本質を逃しては、なんの意味もない。

ぐるぐる、首を回してみるも、目に映るのは雑然とした部屋に溢れるどうでもいい物ばかり。

ごちゃごちゃたくさんある癖に、肝心な物はひとつもない。その事実に、泣き出してしまいそうな気持ちに衝き動かされて、一縷の望みを賭けて代々兄弟で共有してきたおもちゃが詰まった箱に駆け寄ろうと腰を浮かせかけた。

が。

「、」

ふと目に入った、母のドレッサー。その脇の一角を占めている、自分のとある持ち物に、その形状に。活路を見出だした鹿の子の目は、大きく見開かれた。

そうだ。赤い糸も、指輪も用意できないけれど。自分には、これがあるじゃないか。

今は輪っかではない、ないけれど。少し手を加えれば、輪っかに「してやる」事はできる。

それに、これならば。もうひとつの言い伝えも、同時に再現できる!

「・・・」

頭に手をやり、その存在を確かめる。撫でる指先から伝わるつるりとした感触に、鹿の子はぐっと覚悟に口を引き結んで。固い決意を胸に抱いた(いだいた)。

そうと決まれば、行動あるのみ。鹿の子は立ち上がり、居間から出て台所に足を向ける。

「おにぃちゃん」

手を洗い終え、洗面所から戻り。冷蔵庫の前で、買ってきた食料をしまうべく袋に手を突っ込んでいる真砂の背に、声を投げる。と、「んー?」と魚のパックを右手に持ちながら真砂は振り返った。

何気ない風に向けられた、なんの感情も浮かんでいない、無防備な表情に。どきりと、酷く胸が高鳴って、ああ、

(好きだなぁ)

と、思う。ただ振り返っただけで、視線が自分に向けられているだけで。心臓がうるさく騒いで、胸が細い糸に締められるように苦しくなって、理由のわからない涙が生まれて目の奥が燃えるように熱くなる。

訳もなく抱きついてしまいたくなるし、胸に顔を導いて抱き締めてやりたくなるし、・・・守ってやりたいと、思う。彼を泣かせる、悲しませる、全てから。自分の全てをかけて、自分の全てと引き換えにしてでも、幸せにしてやりたいと、思う。

これが恋で、愛でないのなら。一体なんだというのだろう?

「・・・好きだよぅ、おにぃちゃん」

にこ。泣きたくなるような気持ちを必死に抑えつけて、崩れてしまいそうになる表情筋を必死に引き上げて。放つ言葉にふさわしいと作った笑顔は、無理矢理の形成に弱々しいものになってしまったけれど。

言えた、伝えられた。「好き」。兄弟として、遊び相手として、・・・時には、恋慕う相手として。暇さえあればしょっちゅう口に出して伝えているその二文字に、これまでにない深く、熱い想いを込めて。重たい、舌の上で鉛のような存在感を有するそれを、投げる事ができた。

兄は、どう返してくるのか。人によって違う最上の反応を引き出すために人間観察を欠かさず、心の機微に聡い彼の事だから、もしかしたら言葉にこめた想いも全て汲み取ってもらえるかもしれない。

余す事なく、全部全部が伝わってほしい、・・・そう願う一方で、伝わった上で、受け取る事を拒まれたら・・・その可能性を考えると、恐怖で泣き出してしまいそうな程に心が震える。

恐い、なんて。夜中のトイレだって電気を点けないまま普通に行ける自分には、きっと一生縁のない感情だと、ずっと思っていたのに。季の子の言った通り、恋は人を変える。強くなった一方で、自分はこんなにも弱くなってしまった。

「?」

やはり、いつもと様子が違う事に気づいたのらしい。軽く首を傾げてこちらを窺う事数秒・・・けれど、こういった種類の好意を向けられるのは初めてだから、分析しきれなかったのだろうか。真砂は少しばかり当惑を滲ませ、頭上にはてなを浮かべているのが見えるような顔をしながら、

「えー?んだよー嬉しい事言ってくれんじゃん。真砂も好きだぜ」

とりあえず「好き」と言われている以上、悪感情はないと判断したのか。好意には好意で返すものと、真砂はいつものように軽い口調で、「自分もお前が好きだよ」と返した。返して、くれた!

「え、・・・ッ!」

んぱっ!と。怯えと緊張に強張っていた顔が、見る間に輝いていくのが鏡を見ずともわかる。まるで今正に咲かんとする花になった気分だ、顔中に力と光が満ちていく。

わかってる、ちゃんとわかっている。真砂の言う「好き」は自分の放ったそれとは違い、単なる兄弟愛の範疇に収まってしまう類いの物。

けれど、「好き」には違いない・・・今は、いい。これで。

まだまだ、自分達にはたっぷりの時間が、未来がある。これから変わっていけばいい。いっぱいいっぱい愛をぶつけて、いつしか。自分のと同じ「好き」になってくれればいい。

だから、これはそのための一歩。

「おにぃちゃん、手ー出して。左の手」

「?ほい」

言われるがままに、ふらり。魚を冷蔵庫にしまうために、冷蔵庫を開けようと扉にかけていた左手を、真砂が体を反転させながら差し出すと。

しゅるり。鹿の子はおもむろに、カチューシャ状に頭頂を通り、うなじの後ろに結び目を作っていたリボンをほどいて。差し出された真砂の手を取ると、纏めた薬指と小指に真っ赤なそれをきゅっと結わえつけた。

リボン結び。鹿の子に握られたまま、可愛らしい小さな結び目が乗った自分の手を、真砂は不思議そうに見下ろして首を傾げながら、

「、?何を」

してるんだ?と続けようとした真砂の言葉は、

「へへ・・・結婚、指輪」

照れっ、と。無垢で無邪気な彼女にしては珍しい、とても珍しい、照れの混じった笑顔で一言呟くと、

「六月に結婚するとね、幸せになれるんだって」

リボンの結び目を、愛おしげな眼差しで、慈しむように見つめて、言葉を続けた。

小指に巻かれる運命の赤い糸と、薬指に嵌められる結婚指輪。そのふたつを自分の赤いリボンで代用する事で、ふたつの言い伝えを文字通り纏めて現実のものとする事ができるという寸法だ。

鹿の子はリボンの巻かれた真砂の手を、両手で包むようにして握って、

「結婚しよ、おにぃちゃん」

一世一代の、プロポーズ。頬を上気させ、恋情の熱で潤んだ目で真砂の目をまっすぐに射抜いて。どうかこの想いを受け取ってくれと、訴える。

冗談なんかではない、心からの本気だという事がわかる至極真面目な声音と眼差しに、貫かれて。

予想を大きく超えた展開に、真砂は鹿の子が全てを言い終えた後も、しばらくの間固まったまま動けずにいた。

兄弟は、結婚できない。遥か昔から決まっている、覆ってはならない、言葉通り不幸を生む世界の不文律。

言うべきだ、断るべきだ。その想いは、受け取ってやれないと。はっきり拒んで、正しい道に導いてやるのが、兄である自分の役目だ。

目の前のこの子が大事だからこそ、女性とは見れなくても、妹として愛しているからこそ。例え今は傷つける事になったとしても、そういう優しさだって存在するのだからと。告げるために、口を開く。

けれど、

「鹿の子が、幸せにしてあげるからね」

なんて、雨上がりの虹よりも、綺麗な笑顔で言うもんだから。

「お、・・・お、う・・・」

鹿の子の笑顔には、力がある。その笑みの前では、倫理も、正論も。全てが無力に頭(こうべ)を垂れて。真砂は、舌に乗せた拒否の言葉を、肉親としての優しさを。逡巡の末・・・飲み込んで、しまった。

同じようにしてくれと乞われ、いいのだろうかと迷いながらも、笑顔を崩す事を恐れる気持ちが勝ってしまい。鹿の子の左手にもリボンを結わえてやると、

「ッ・・・!」

感極まった様子で体を震わせ、目にはうっすらと涙の膜が張って。ぎゅっ、と。大事そうに、宝物にするように。真砂の手によってリボンを結ばれた左手を、胸に押しつけて抱き締めた。

「次は、ちゃんとしたきれーな指輪をあげるからね!絶対絶対、鹿の子以外の誰にもここ、あげちゃ駄目だからね!」

目に見える所有の証に、心から嬉しそうに、鹿の子はきゃっきゃと無邪気に笑い。想いの成就と結実を、喜んでいるその一方で。

鹿の子がはしゃいで動く度に二人の間でたわんで揺れる、手と手を繋ぐ、真っ赤なリボン。二人を繋いで、結びつける・・・それは、単なる指輪の交換よりも。ずっと深い意味を持つように、真砂には感じられて。

運命そのものを、絡ませて結びつけた。そんなイメージに、真砂は、

「ッ・・・!」

いけない事、と、わかっているのに。顔に熱が集まる感覚を、落ち着きをなくしてうるさく跳ねる心臓を、・・・嬉しい、と、思ってしまうのを。止められ、ない。

「た・・・」

助けてくれ。残された自由な右手で顔を覆い、おそらく真っ赤に染まっているであろうそれをなんとか隠しながら。けして踏み入れてはならない道の入り口に立ってしまった事を自覚して、真砂はその顔色と浮わつく胸とは真逆の底冷えするような絶望を頭で味わいながら。絞り出すような声で、一言呻いたのだった。


「今日のリボンは~みっどり~色~」

朝の身支度の時間。母のドレッサーの脇に専用のスペースを作る事を唯一許された鹿の子が、きちんと等間隔に並べ掛けてある自分用のリボンを歌いながら選んでいると。既に身支度を終え、共に登校する姉である彼女を待つ形で見ていた砂宕がある事に気づき、「あれ?」と不思議そうな声を上げた。

「そういえば姉さん、最近赤いリボンしてないね?」

一番似合って可愛いねって真砂兄さんに褒められてからずっと毎日着けていたくらいお気に入りだったのに。置き場にもないし、どうしたの?と。軽い気持ちで、そこまで深い意図はなく、ふと浮かんだ疑問をそのまま投げてみると。

「あぁ、あれはね、」

手慣れた動きでリボンを結び終わり、返事のために振り返った鹿の子の顔に浮かんでいたのは、

「、え、」

んにぃ、と。深く深く吊り上がった口と、甘ぁい色にとろけた、ふたつの目。

まだ八歳と、性の目覚めには早い砂宕の本能をも揺さぶり呼び覚ましかける程に。淫蕩で、いやらしく、女としての色香に溢れた・・・しかし、それだけではない。どこかとても、とても尊い、あたたかい「何か」を、満面に湛えた笑顔で。

まだあどけない顔に、大人の女の表情。そのアンバランスさに目が離せず、理解が追いつかず。目の前の人物は、本当に八年間傍で一緒に育ってきた姉なのかと、混乱している内に。

「・・・やっぱなーいしょ!なごにはおーしえないっ」

ふひっ、と鹿の子が噴き出すと同時に。見慣れぬ「女」の顔は水鏡が割れるように崩れ去り、いつもの「鹿の子」の、少女らしく無邪気で透明な笑みが浮かび上がるようにして現れたけれども。

ただやはり、どこか。いたずらめいたその表情の中には、今までにない不思議な感情が混じって、彼女を少しばかり大人っぽく見せているような気がして。

「・・・?」

一体、何があったんだろうと。自分よりも精神は幼かったはずの姉を、一歩大人たらしめた原因はなんなのだろうかと、砂宕は首を傾げるのだった。

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