第一幕

第1話

 犬が歩いていた。


「え、え?」


 あの種類はゴールデンレトリバーだろうか。犬特有の笑ったような顔は実に愛嬌があり、ふさふさの毛皮は温かそうだ。しかし大切なのはそこではない。ここは病院、動物を見かけるような場所ではないのである。

 通りすがりに二度見した男、瀬尾悠太せおゆうたは呆気に取られて立ち尽くしていた。手にはちょうどタブを起こしたばかりの缶コーヒーを持ったまま、「関係者以外立入禁止」の立札の向こうに顔だけ向けて、ついでにちょっと猫背という体勢で停止中である。

 犬は普通の首輪とリードからして盲導犬などではないようだった。犬を連れている人物を見ると、女性看護師と談笑しつつ、裏口に向かって歩いている。後ろ姿では男性というくらいしか分からなかった。


「良い毛艶してますね」

「分かります? 最近シャンプー変えたんすよ。リンスインのお手軽タイプはやめて、シャンプーとコンディショナー別々のやつに」


犬とお揃いの金髪をガシガシと掻く。北欧系の透き通るような金髪ではなく、黒髪を無理に染めた感じの微妙な色だった。


「いや、あなたじゃなくてワンちゃんの」


「ですよね、あはは!」


遠ざかる声が通路を曲がって行った。病院公認の犬とは、不思議なこともあるものだ。


「犬、だよな」


ようやく動き出した瀬尾は手の中のコーヒーを思い出し、ほとんど一気飲みの勢いで流し込んだ。さて、先ほど受けた検査結果が出るまで、まだ少し時間を潰さなければならない。


 冬至を過ぎていよいよ日は短く、外はすでに夜の景色だった。建物から漏れる光が明るいせいで、病院の入り口から外門までの駐車場がやけに暗く感じる。


「はぁ」


流れ出るのは本日何十回目の溜息だろうか。昼間の災難が頭から離れない。

 ふと何かの気配に顔を上げると、門の近くに人影が見えた。ここから数十メートルほど離れているだろうか。顔はよく見えないが、これでもかと積んだ段ボールを台車で運んでいることは動作で分かる。どんな会社でも安全衛生基準に引っかかりそうだ。

 興味も無く視線を外そうとした瀬尾だが、一瞬の後、考えるより先に体が飛び出していた。


「危ない!」


門付近までの距離を二歩で突っ切り、台車の頂上から落下した箱を両手で挟み込むようにキャッチする。地面まで数センチの距離だった。


「セーフ……じゃないし!」


瀬尾の両手が段ボールを突き破り、中の発泡スチロールまで砕いていた。崩れた白い破片がぽろぽろと地面に落ちているし、見えない箱の中では細かい破片が手にまとわりついている感触がある。荷物を救ったどころか壊してしまったようだ。


「あの、すみません。もし壊れてたら」

「大丈夫みたいだよ」


その声に顔を上げると、台車を押していた人物の風変わりな姿が目に入った。白い髪、水色の涙を描いた頬、紫のベストに黒い手袋、赤いズボン。


「受け止めてくれてありがとう。これが壊れたら、今日の仕事ができなくなるところだったよ」


涼しげな声が心地よい。思わず聞き入ってしまう柔らかな喋り方だった。


「あの距離飛んできてくれたの? すごいね」


その言葉に我に返った。これ以上突っ込まれるとまずい。


「君、もしかしてさ」

「失礼します!」


瀬尾は数十メートルを、またしても二歩で逃走したのだった。

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