聖女に滅ぼされた国

歩芽川ゆい

第1話 聖女降臨

とある国の昔の話。この国は聖女によって呪われている。


 ある日、突然違う世界からやってきたと思われる者が現れる。しかも彼、彼女たちは『国に何らかの危機が起こる前』に現れ、実際にしばらくすると国に危機が起きる。それを解決するのは彼らの知識だった。それゆえ彼らは女性は聖女、男性は聖人と呼ばれ、国で大切に扱われていた。


 だがある貴族の令嬢の一言で、それが一変した。


『国に危機が起こると聖女が現れる、というのなら、聖女がいなければ危機も起こらないのではないか?』


 そして運悪くも現れてしまった聖女は、地下牢に閉じ込められ、悲劇的な運命をたどる事となる。


****


 初代の異世界人は男性で、川まで水を汲みに行く人々を見て、「井戸」を作り、それはこの国だけでなく全大陸の多くの命を救った。この国の中で日照りが起き川の水が少なくなっても、井戸の水の量は少なくても確保できた。おかげで水が行き渡っただけでなく、この技術を隣国に売り込むことで友好条約も結べて戦争が激減したからだ。ここから彼は『聖人』と呼ばれるようになった。


 次に来た聖人は、この国に生息していた魔物と呼ばれる、狂暴な獣たちとの棲み分けを実行した。小型の魔物でも狂暴で被害が出るのに、大型魔物では集落が滅ぼされることもあった。それを、彼らの苦手な植物を突き止め、それらを彼らの住む森と集落の間に植えることで、彼らが人里に来にくい環境を作った。さらにその植物を増やし、少しずつだが人の活動域を増やしてくれた。これにより農作物が安定して作られるようになった。


 次の異世界人女性は、それまで食べられなかった「ジャガイモ」を食用にしてくれた。掘り上げても毒があるからと放置していたものを、日に当ててはいけないのだと教えてくれた。おかげでこの年は他の農作物が大不作だったにもかかわらず、次の春までの食糧に困る事は無かったし、彼女が教えてくれたジャガイモ料理はこの国の名物ともなった。彼女は女性なので聖女、と呼ばれるようになった。


 次の聖女は、食中毒の多さに注目した。そこで山の中にあった、魚も住めない何にも使えない湖から『塩』というものを作り出した。おかげで食材を日持ちさせることもできるようになったし、何よりも食材に味が付いた。

 毎年、全大陸で多くの食中毒が出ていたのが、これで激減した。この技術を他国に売り出したおかげで友好国も増えたし、技術を教える手数料を取る事にしたので、財政も潤った。


 次に現れた聖人は、この国に水害が多い事を指摘して、川に堤防というものを作り、護岸工事も行った。おかげでそれが出来た直後に起きた、大雨の長雨にさらされても、まったく洪水は起きなかった。毎回川の氾濫で農作物や集落に被害が出ていたのに、堤防が作られて以来、ほとんど起きていない。


 その後も香辛料や学校教育、浄水施設、温泉施設、石鹸などを広めてくれたおかげで、他国で不衛生からくる疫病が流行った時もこの国は被害が少なかったし、その技術を売る事で輸出業などでも国は潤い、人々と他国にも感謝もされ、この国に戦争を仕掛けてくる国も無くなり、平和が続いている。


 その上、彼ら聖人聖女はおごることなく、王都に近い町に国から賜った土地で慎ましく暮らしていた。もちろん衣食住とそれにかかわる費用は国持ちなのだが、頼り切りは申し訳ないと自分で働いてもいたし、周りとも仲良く過ごした。

 そんな彼らの生き方は国民から好意的に迎えられ、ある者は知り合った庶民と結婚し、ある者は独身のまま養子を迎えたり迎えなかったりしながら、おおむね幸せな人生を終えた。

 そして彼女たちの亡骸は、その地に周りの人々と国によって手厚く葬られている。


 そんな平和な生活を300年ほど繰り返していた時のことだ。

 

 それが一変する出来事が起きる。

 

 きっかけはある令嬢の一言だった。


『国に危機が起こる前に聖人聖女が現れる、というのなら、彼らがいなければ危機も起こらないのではないか?』


 普通に考えれば、危機が起こるから彼女たちが現れるわけで、彼女たちを排除しても意味がない事はわかりそうなものだが、その令嬢と親しかった令息たちが大勢同調してしまった。その中には第2王子エリオットも混ざっていた。


 それには聖女の存在が、王家や貴族にとっては面白くない存在であるという背景がある。


 どれだけまじめに政治を行ってきても、ひとたび彼女が現れれば、その時代の多くの功績を彼女が持って行ってしまう。 

 彼女たちにその気がなくても、歴史として後世に語り継がれるのは、彼女たちの政策を右往左往しながらも必死に成功させたときの王族・貴族ではなく、すべて聖女たちの手柄なのだから。

 それでも国民を第一に考えていた王族と貴族は今まで文句を言うことなく、国が良ければすべて良しとしてきた。だがそれに不満を持つものは、確かにいたのだ。それが令嬢の一言で、若者の間で一気に噴き出した。


 そんな中、ちょうど聖女が現れたのだ。

 街はずれの草原の中に現れた彼女は、偶然そこで乗馬を楽しんでいた第2王子エリオットと、聖女反対派の令息たち、王子の関係者のみが発見したため、極秘裏に保護された。そして火のついてしまった若い連中は、エリオット王子にも内緒で『国のため』と聖女を地下牢に監禁してしまった。


 この国に飛ばされたばかりで全く状況も分かっていない聖女は、冷たい部屋に閉じ込められることになった。


 この国に現れる聖人聖女は、今まで最年少が32歳、最年長の聖人で56歳と社会にもまれてきた人が多かった。王族との結婚を求めないのも、その年齢のせいもあったのだろう。この国の適齢期は男性23歳前後、女性が20歳前後なのだから。

 この時に現れた聖女は、まだ22歳だった。彼女曰く、『大学』に向かっていたらいきなり深い穴に落ちて、気が付いたらこの世界にいた、という事だった。

 

 彼女が適齢期であったことも、聖女が美しかったことも、令嬢の感情をいらだたせた一因でもあっただろう。しかも今まで自分をちやほやしていた令息たちが、聖女をうっとりした目で見つめていたのも面白くなかったのだろう。


 当初、エリオット王子に連れていかれた屋敷の地下の部屋に『ここにしばらくいてもらうだけだ。乱暴な事はしない。食事も提供するから』という言葉を信じておとなしくしていた聖女だが、令嬢はそれすら面白くなかった。

 貴族にしてみたら考えられないほどの狭い、質素な部屋でおつきの者すらいない屈辱的な状態なのに、文句も言わずに微笑んでいるというのが理解できなかったのだ。さらにその様子を見、彼女と話をして『やはり聖女の知識は素晴らしい!』『なのに奢っているところがない!』『もしかして、俺たちの考えは間違っていたのでは……』などと言う令息たちも気に入らなかった。

 あんなしおらしいふりをして、令息たちを誘惑して、自分の位置を、エリオット王子の婚約者の座を狙っているのではないか。そんな風に考え、思い込んでしまい、もともと憎たらしい聖女が、さらに憎く、排除しなければならないと思った。


 令嬢は仲間の令息たちに、聖女の話し相手に選ばれた事を良い事に、聖女の悪口をこれでもかと伝えた。わざと自分の服を汚し、泣きながら仲間の元へ行き、『聖女にやられた』と訴えた。

 その一方で聖女には嘘のマナーを教えた。食べ物はすべての皿から半分以上残す、足を組む、男性とは目を合わせない、口も利かない、など。すべて令嬢としてあり得ないマナーを教えた。

 聖女は言われたとおりにし、令息たちはそれを見て眉を顰め、令嬢の言い分が正しいのではと思い始め、足を見せつけるなどと言う下品な態度で口を利かない聖女に、やはりこの国に不要な存在なのではと思い直し始めた。

 そのうちに令息の誰かが、俺たちの令嬢を虐めるような聖女は、牢屋に閉じ込めてやろうと言い出し、面白半分に本当に犯罪者用の牢屋に閉じ込めてしまった。

 

 警察組織ではなく、貴族令息たちが直接連れてきたことに看守たちは疑問を持ったが、令嬢は牢屋の看守にも嘘を吹き込んだ。曰く、この女は聖女を名乗り、王子や令息たちを誘惑しようとして、それがバレた極悪人だと。聖女を名乗っている以上、表ざたにすると面倒なことになるから、秘密裏に連れてきたのだと。


 一方聖女は全く訳が分からないまま、それでもさすがにこれはおかしいと気が付いたので、看守に事情を訴えた。自分は他の世界から来た、よくわからないうちにこんなことになっている、どうか助けてほしいと。それが令嬢の思うつぼだともわからずに。


 偽聖女だと聞かされていた看守は、少々単純かつ短気だったので、とうとう自分をも懐柔しに来たかと激怒した。そして令嬢に聞かされていた、聖女の悪行をののしり始めた。もちろん聖女は全く身に覚えもないから、そんな事はしていないと反論する。それにまた看守は激怒し、ののしりながら食事を与えないなどの嫌がらせを始めた。


 それがいつの間にかエスカレートしていった。元々が、偽の聖女だと思い込んでいるから、本物の聖女の言葉は届かない。

 最初は髪を引っ張ったり、食事を聖女の目の前で落とし、パンなどを踏みつぶしてから牢屋の中に投げ込み、水はぶっかけた。そんなものは食べられないと拒否する聖女に、看守はそれを拾い集めて聖女の口に押し込み、顔に髪に塗りつけた。

 そうして反撃するすべを持たず、地べたに這いつくばる汚れた聖女を見せられた令息たちは、コレは居てはいけない存在であり、排除すべき者だから、これは正しい行為なのだとビリキーナにもそそのかされ、聖女への虐待に加わり始めた。

 

 結果的に何も知らない若い聖女は、エスカレートした彼らにありとあらゆる暴力を受け、食事も満足にとる事が出来ず、エリオット王子がひと月半ぶりに様子を見に来た時には、すでに虫の息だった。

 

 エリオット王子は聖女を保護した後、父親である国王や兄弟たちに、少しずつ聖女不要論を説いていた。聖女を不要とまでは言わないが、『聖女が現れなければ、異変は起きない』と。国王と兄である第1王子ロベールは聞く耳を持たなかったが、弟の第3王子ジャンは話を真剣に聞いてくれた。

 極秘に聖女を匿っているのだ、バレた時のために少しでも聖女不要論を広めたかった。それが無理なら、聖女を他国に極秘のうちに追放したいと、いろいろ手を回していた。それらを通常業務の空き時間に行っていたため、忙しさに忙殺されていた。


 聖女の動向は、反聖人聖女仲間から報告を受けていた。わがまま放題ではあるが、何とかなだめながら生活してもらっている、と聞いていた。しかもあの聖女は、男を誘惑するタイプだから、王子はなるべく会わないほうが良いとも言われていた。

 そういう事ならお前たちに任せるとエリオットは言った。面倒ごとから少しでも逃げたかったのだ。

 しかしそうそう放置もしていられないと、ひと月半ほど経ってから自分が幽閉を命じた屋敷の地下室へ向かった。

 だがそこには誰もいなかった。部屋を使っていた形跡もない。世話を命じていた使用人を呼び出せば、すぐに必要ないと任を解かれたという。慌てて連絡役の令息を呼び出し、のらりくらりと返答をかわすさまを見て、これはまずいことが起きているようだと気が付き、力ずくで聞き出して、すぐさま移されたという牢屋に急行した。


 そこで見た光景は衝撃的なものだった。狭い牢屋に令息たちが入り込み、今まさに暴行している最中だったのだ。


 目の前の光景に茫然自失としたものの、エリオットはすぐに聖女から離れろと命令を下し、王子登場に仰天した令息たちは、すぐさま彼女から離れた。

 どうしてこんなことをと叫ぶエリオットに令息たちは、聖女は災害を呼ぶ、悪魔のような存在なのだから、このくらいは当然の扱いだと、エリオットから顔をそらしながら言った。エリオットが現れたことで、自分たちがやりすぎたと気が付いたのだが、今更認めるわけにもいかず、そんな態度になった。


 いくら何でもやりすぎだとエリオットはぐったりしている聖女を急いで牢屋から出し、屋敷に運び、医者を呼んだことで隠しきれなくなり事件が発覚た。聖女は王城の医務室に運ばれて手厚い看護を受けたが、すでに命の炎は消えかけていた。


 報告を聞いて驚愕して駆けつけてきた国王夫妻と第1王子ロベールらは、聖女の状態を見てさらに驚愕した。すぐさま意識も薄い聖女に申し訳なかったと頭を下げる国王夫妻と、彼らに頭を踏みつけられて土下座をするエリオット王子に、聖女は最後の気力を振り絞って、物凄い目つきで彼らをにらみつけて一言だけ残し、絶命した。


「お前たちを、この国を、呪い続けてやる」


 この国において『呪い』という言葉はそれまで存在せず、ゆれにそれが何なのか彼らには正確にはわからなかったが、それでも聖女の激しい怒りは伝わり、国王は聖女への不当な扱いに少しでも加わった貴族と関係者に厳しい処分を下した。


 一つだけ、この国にとって ─というか国王たちにとって─ 幸運だったことは、聖女が降臨したことがまだ国中には伝わっていなかったことだ。

 しかし降臨していないはずの聖女だ。それがすでに降臨していた上に『聖女に危害を加えて殺害した』などと発表すれば、国民に不安と王家に対する不信を与えてしまう。それゆえ加害者たちを大っぴらに処分することが出来なくなった。結局、危害を加えた令息、令嬢が処刑されることはなかった。


 令嬢への罰として、令嬢の家─伯爵家─の敷地内に聖女の墓を建てさせ、令嬢本人に聖女の体を綺麗に清めさせ、美しく着飾らせ、埋葬させることとした。

 聖女が虐待されている時は横で笑っていた令嬢は、遺体を前にすると何度も吐き、何度も気絶しながらも、王城から派遣された監視兼世話係に叱咤されながらなんとかなし終えた。その過程で少しでも反省してくれればという王の配慮だったが、それが伝わったかどうか。

 

 その他令息家は秘密裏に膨大な罰金を取られ、令息たち本人も普通は貴族が関わらないような奉仕作業に死ぬまで駆り出されるという罰を受けた。第2王子エリオットは継承権をはく奪され、領地の端に飛ばされることとなった。


 それで彼らは、聖女に対する贖罪と責任を果たしたと考えていた。


 それが崩壊の始まりとも知らずに。


****


 聖女を迫害した令嬢は、トラスチェンドラ伯爵令嬢ビリキーナという。ごく普通で、ごく平凡な伯爵令嬢だった。

 この国では王家の第1子だけが早くに婚姻を結ぶが、それ以外は自由恋愛を基本としている。

 貴族が一般市民と結婚することは難しいが、貴族同士であれば身分の問題はさほどない。そんな中で、彼女も社交界にデビューして様々な茶会や舞踏会に出席して見分を広めてきた。

 そこで他の令嬢と話をしているうちに、彼女たちと同じように、歳の近い第2王子エリオット、第3皇子ジャンたちとの結婚を夢見るようになったが、同時に自分より優秀な令嬢たちをたくさん目にして焦りが生まれた。

 何か他よりも秀でたものがなければ、お目当ての王子どころか、外の令息たちからも相手にされなくなってしまう。どうしようかと思っている時に参加した舞踏会で、令息たちが集まっている近くで聞いたのだ。聖女についての不満を。


『聖女伝説を知っているか?』

『ああもちろん。しかしいつ現れるかわからないんだろう? 俺たちがいる間に降臨してくれたらお目にかかれるんだけどな』

『しかし聖女が現れると国が乱れるのだろう?』

『おいおい、逆だろう? 国が乱れるから、聖女が現れて正してくれるんだよ』

『いや、あながちそれも考えられるな。確かに聖女は危機を救ってくれるけど、そのあと、聖女を巡って他国同士が争いになった例もある。』

『それに彼女が現れると、迷惑するのは実は俺らだしな』

『そうそう。聖女が出した無理難題を実際にやるのは俺らになる。上手くできて当たり前、失敗したらオレらのせい。聖女様がせっかく提案してくださったのにと。それでいて上手く言った時の手柄は聖女が持っていくんだ。やってられないよ』


 それを聞いてビリキーナは考えた。聖女? そんな凄い相手がいたら、自分などもっと相手にされなくなってしまう。それに家にも迷惑がかかるですって? そんなの、どこかの国の言葉でいうところの『疫病神』じゃないの。

 

 自分のためにも国のためにも、聖女は排除したほうがいい。


 その考えを彼女は自分なりにまとめて、自宅屋敷での夕飯時に、両親にそれとなく、できる限りマイルドな表現で伝えてみた。最初、目を丸くして聞いていた両親は、しばらくは沈黙していたものの、やがて微笑んでいった。


「それは、ビリキーナが誰かに聞いた話なのかな?」


 ビリキーナはむっとして答えた。


「いいえ、自分で考えました」 


 確かにその話題を聞いたものの、それをまとめた自分の考えだ。そんな事を思いもつかない娘だと思われていたのかと、馬鹿にされたように感じたビリキーナはツンと横を向いた。そんな彼女に、父親は苦笑していった。


「そうか。そんな面白い事を考えるようになったとは、君も私が知らないうちに立派な大人になっていたんだね」

「面白い考え、ですか?」

「うん。聖女に関しては昔から議論があったんだ。どこから、どうしてこの国に来るのかがわからないからね。それが聖女がいるから争いが起きる、か。逆の発想とは実に面白い」


 そう笑いながらワインをビリキーナに傾けた。


 これでビリキーナは舞い上がった。自分の考えは間違っていないし、褒められるような考えなのだ。

 父親は決して他所では言わないように、と口止めしたが、舞い上がっていたビリキーナは聞き流していた。そして参加した舞踏会で一緒に踊った令息に、踊りながらそれとなく考えを披露してみた。

 

 これが偶然にも、あの時聖女不要論を話していた令息だった。彼は非常に驚き、喜んだ。


「まさかこんな聡明な令嬢にお会いできるなんて! 僕はなんて幸運なんだろう!」


 これがきっかけで彼らは仲良くなり、令息は自分の友人に彼女を紹介して回った。

 聖女不要論者の中でビリキーナの考えは絶賛され、人生初のモテ機到来に浮足経つビリキーナは、念願の第2王子エリオットにも仲間を通して紹介され、さらに過激な聖女不要論者に育っていった。


 この時点では、ビリキーナはそれで満足していた。みんなの聖女への愚痴を聞いて、令嬢としては過激という程度に同意していれば、王子たちも令息たちもちやほやしてくれる。これで王子と恋愛に発展すれば一番の望み通りだが、このころ、最初に自分の話を肯定してくれた令息、ツィオダーノ伯爵家のマテンツィオと恋仲になりつつあった。同じ伯爵家という身分も、彼らを近づけやすい環境にあった。

 王子は憧れの存在で、もし望まれればもちろん王子と結婚するが、ビリキーナの理性の現実的な部分が、話も身分も合うマテンツィオを選んだほうが良いと理解していた。


 そんな環境に半年も置かれていた時、まさに聖女が降臨したのだ。

 

 彼女を一目見た時、王子はその思想に反し聖女に魅かれたのを、ビリキーナは間近で見ていた。エリオット王子だけでなく、反聖女の急先鋒だったはずのマテンツィオまでが。


 嫉妬心でビリキーナは我を忘れ、何としてでも聖女を排除しなくてはと思い、そして集団の心理も働き、暴走した結果、あのような凶行に至ってしまった。

 

 あの後ビリキーナは、両親にもひどく怒られたし、名も知らぬ聖女の遺体を清めさせられてたが、一切反省することはなかった。


 だって、彼女さえいなければこんなことにはならなかったのだから。

降臨してきた聖女が悪いのだ。彼女さえ来なければ、みんなで楽しく不要論で盛り上がっていられたのに。それなのに本当に現れるから。しかも自分たちの目の前に。


***


 マテンツィオとの婚約はそのままだったが、王家には二度と近づかないよう、王命が下っている。

 第2王子エリオットは自分が愚かだった、とビリキーナたちを責めるようなことは一切せずに自分たちの元を去っていったが、こんな騒動を起こしては、ビリキーナの社交界復帰は絶望的な状況だった。


 ビリキーナの聖女不要論を喜んでくれたはずの両親は、事件発覚後、ビリキーナを自室に閉じ込めた。それは彼女を世間と体裁から守るためでもあったが、ビリキーナはそうは思わなかった。そうして令嬢にあるまじき、他人の遺体の世話をさせられたという屈辱から王家を恨み、両親を恨み、聖女を恨み、自分をけしかけた連中を恨んで部屋で暴れては泣いていた、そんなある日のことだった。


 泣きながらふて寝した彼女は、夜中に風を感じてふと目を覚ました。


 ベッドの上で体を起こし、満月の月明かりでほの暗い室内であたりを見回すと、窓からではない細い光が差し込んでいるのに気が付いた、どうしたことか。扉が細く開いている。世話役のメイドがきちんと閉めなかったのだろうか。それに部屋から出ないようにと扉の外には警備兵もいたはずなのだが、どうしたのだろう。

 どちらにしても都合がいい。ビリキーナはベッドから抜け出した。就寝前に暴れてそのままふて寝したから、部屋着のドレスのままだ。これなら部屋の外だって歩き回れる。

 ビリキーナは衣擦れの音もしないように気を付けながら部屋履きでそっとそっと絨毯を歩き、廊下を覗き込んだ。


 誰もいない。


 満月のおかげか、ところどころに灯りはあっても薄暗いはずの廊下が先の方まで見えている。ビリキーナは微笑んで、自分では開けたことがない重い扉を初めて開けて、部屋の外に出た。


 部屋を出たところで行くところはない。行きたい所もない。このままおとなしくしていれば、マテンツィオと結婚できるのだ。一瞬でも聖女に目を奪われていたのは許せないが、もう彼以外に自分を娶ってくれる人はいない。

 それに自分が言う通りに聖女を痛めつけてくれた。共犯でもあるが、彼の弱みを握ってもいるので対等でいられる。今の自分にとって最適な相手である。

 だから家から抜け出そうとかは全く考えないが、いくら不自由がなくても部屋から出られないというのは窮屈なものだ。だからちょっと、息抜きをしたっていいじゃない?


 ビリキーナは部屋を抜け出した。


 満月に照らされた廊下は、目が暗闇になれたのもあってか、うすぼんやりと明るかった。先までは見えないけれど歩くのには問題がない。

 ビリキーナはどこへ行こうか、と歩きながら考えた。屋敷の外に出るのは論外だ。夜中で何も見えないし、危険すぎる。その気もないが。

 ヘタな場所に行こうものならせっかくの縁談も無くなってしまう。これ以上自分の人生を壊すわけにはいかない。

 かといって廊下を行ったり来たりでは面白くない。庭くらいは出てみようか。こんな夜中なら、使用人もほとんどが寝ているだろう。玄関を出られるかは疑問だが、見に行ってみて誰もいなければ堂々とそこから。もしくは来賓室の外へ出られる扉でもいい。

 屋敷周りをぐるりと回って、花でも摘んで部屋に戻ろう。外に出られた証明にもなる。気晴らしにもなるだろうし。


 ウキウキとでも静寂の中で音を立てないようにビリキーナは廊下を歩いた。階段を下りて、2階に着いて周りを見回しても誰もいない。少しばかり怖くなったが、何故か疑問には思わずにそのまま少し先にある階段に向かった。

 シン、とした薄暗がりの屋敷に、部屋履きで絨毯を歩く自分の足音だけがかすかに聞こえる。

 部屋履きで自室以外を歩くなんて、生まれて初めてだ。ビリキーナは楽しくなって、その感触を楽しみながら階段にたどり着き、下を伺う。


 誰もいない。明かりもついていない。今のうちに、と速足で階段を降り、さらに周りを見回して玄関扉に走り寄って開けようとした。


 ガチ、と音がして、まったく動かない。鍵がかかっている。でも暗くて鍵がどこかわからないし、何よりこの扉を自分で開けたことがないから、鍵があるのかすら知らない。


「まあ鍵ぐらい閉まっているわよね」


 小さくつぶやいたが、屋敷が静まり返っているので大きく聞こえた。慌てて口を押えて周りを見る。


 誰もいない。


 それならここから一番近い来賓室から出よう、とビリキーナは移動した。そしてそこの扉はやはり鍵がかかっていたが、月あかりもあってすぐに鍵が見つかる。単純なかんぬき式だ。扉に棒が横に刺さっているだけ。簡単に抜くことが出来て、初めて自分で開けた扉は重かったけれど、それさえ楽しくビリキーナは外に出た。


 夜の庭はひんやりとした空気が美味しかった。やはり部屋に閉じこもっていてはいけない。来賓室からは庭が綺麗に見えるようになっているので、まっすぐに出れば庭師が手入れをしている花畑に出る。何の花だか知らないけれど、目の前に咲いているそれを一本長めに手折った。


 満足したビリキーナは、すぐに出てきた部屋に戻った。閂も元通りに掛ける。

 花を手に自室に戻るべく、階段を上がった。誰にも気が付かれずにここまでできた事がまずは面白いし楽しい。これで自室まで誰にも見つからずに戻れたら、自分の勝ちだ。鼻歌を歌いたくなるが、さすがにそれはまずいと止めておく。しかし足取りも軽く階段を上がっていった。



 おかしい。階段が長すぎる。息が上がったことでビリキーナは気が付いた。


 1階の玄関からみて少し右側から階段は始まる。10段ほど登ると一度踊り場があり、直角に曲がってさらに10段で2階だ。毎日使っているが、息切れなどしたことはない。まあ降りて来てすぐに上る事がないからかもしれないが。


 何度目かになる気がする踊り場で息を整えて、ビリキーナはまた登り始めた。一段、二段、と数えていくと10段目でようやく2階に着いた。もう一度息を整える。10段で付いたという事は、やはり気のせいか。

 ここから左に曲がって廊下を進むと、3階への階段だ。なんか足が疲れたのは部屋履きのせいかしら、と思いながら廊下を進む。

 こんなに廊下って長かったかしらと思いながら廊下を進むと、ようやく階段が出てきた。もうフラフラだ。夜で暗いからそう思うのか。それとも降りてすぐに上っているからそう思うのか。こんな事なら怒られてもいいから、1階の奥にあるはずの厨房へ寄って、使用人に茶でも入れさせるんだった。

 ふうふう言いながら階段を上る。踊り場に出るたびに休憩をしているが、本当にこんなに階段長かったかしらと思いながら、部屋履きを引きずるように階段を上る。

 足が楽で良いわと思った部屋履き、靴のようには足に密着しないから階段には不向きだった。ヘタをすると滑るし。

 お父様にこの長い階段、なんとかして貰うように言おうかしら。少なくとも結婚したらこんな長い階段は嫌だとマテンツィオにいうくらいは良いわよね。


 ようやく3階に着いた時には汗だくだった。もう最悪。すぐにでも風呂に入らなきゃいけない。服も汗で気持ち悪い。なんだってこのわたくしがこんな目に合わなきゃならないの。

 そりゃ、部屋から出たのはわたくしよ。気分転換したいと思ったのもわたくしよ。だけれども往復がこんなに大変だとは思わないじゃない。それに警備がいないのもいけないのよ。いたら部屋から出ようとは思わなかったし。その前に扉が開いていたから目が覚めたのよ。使用人に文句を言わなきゃいけないわね。ああもう、部屋に戻ったら怒られてもいいから使用人呼んでお茶と風呂だわ。


 疲れた足を引きずるように部屋に向かう。だが行けども行けども廊下しかない。もう面倒だから途中の部屋に入っちゃおうかしらと思って気が付いた。

 

 片側が窓なのは当然だが、反対側は壁しかない。どこにも扉がないのだ。


 ちょっと待って。なにこれ? どこにも部屋がないんだけど?? 


 焦って壁を触るように進んでみるが、壁しかない。怖くなったビリキーナは大きな声を出した。


「ちょっと、誰かいないの?」


 返事はない。


「ちょっと! 誰か来なさいよ! わたくしが呼んでいるのよ!」


 耳に痛いほどの沈黙が、ビリキーナに返る。


 ちょっと、何なのよこれ。どうして誰もいないの? 部屋がないの? っていうか、そういえば階段。踊り場は各階1か所だけのはずなのに。


「わたくし、踊り場で何回休んだかしら……?」


 そうよ。何度も休んだわ。それだけ何度も階段を上ったのだから。


 気が付いてゾッとする。そんなわけがない。異常に疲れたのはやっぱり、階段の数がおかしかったからじゃないのか。


 もしかして使用人用の階段を使ってしまったのだろうか。1階は間違えていないはずだ。玄関を横目に見た記憶がある。

 でもそうだ。2階から3階に上がる階段。あそこで廊下が異様に長かった。もしかすると、いつもの階段を通り過ぎてしまって、使用人用の階段を上ってしまったのかもしれない。そうすると、ここは使用人エリアという事になる。

 

 3階は基本的に家族用だが、おつきの者たちの部屋は近くにないと呼ばれたときに駆け付けられないから、家族棟からは少し離れたところにあるはずだ。行ったことはないけれど。

もしかするとそこに迷い込んでしまったのかもしれない。


 「わたくしよ! ビリキーナよ! 誰か! 来て頂戴!」


 シン、とした沈黙だけが返ってくる。


 恐ろしくなったビリキーナは、疲れも忘れて走り出した。走るなんて令嬢にあるまじき行為だが、それどころではない。少しでも早く部屋に戻りたかった。

 迷い込んだ場所は分からないけれど、この廊下のどこかにビリキーナの部屋があるはずだ。その手前には両親の部屋もある。廊下を端から端まで歩いた事など無いけれど、すぐに出てくるはずだ。


 だが行けども行けども廊下が終わらない。確かに走って進んでいるはずなのに、窓も壁も全く変わらない。


 ビリキーナは恐れと疲れでその場にしゃがみこんだ。


 これだけ静まり返った中で走っているのだ。音は確実にしている。それなのに誰も出てこない。


 「なんなのよこれ。なんなのよぅ!!」


 怖くて怖くて、少しでも早く部屋に戻りたかった。体力が回復するとすぐに廊下を歩き始めた。走り出したいけれど体力がない。壁を触りながら進んでいく。


「だれか、誰かいないの!? お父様、お母さま!」


 髪を振り乱し、汗だくのビリキーナは、さらに泣きながら声を上げ歩いた。




 ハッと目が覚めた。カーテンの隙間から明るい光が漏れている。夜は明けてしばらく経っているようだ。一瞬ここはどこだろうと思ったが、ベッドに横になっているらしい。上半身を起こしてみると、果たしてそこは自室のベッドの中だった。


「夢……?」


 妙に安堵した。あんなことが現実に起きるわけがない。そうか、夢だったのか。ビリキーナは深く安どのため息をついた。だが夢でも怖かったのは確かだ。汗で寝巻が気持ち悪い。

ビリキーナは枕元の鈴を鳴らして使用人を呼んだ。チリンチリン、と音が響く。ふと鈴を持つ手の反対を見る。


「なに、これ……!」


 ビキリーナの片手には、しおれた花が握られていた。それは昨晩、庭で手折ったもので。


「ヒッ!」


 ビリキーナは思わず手を振り払い、ベッド下に花を落とした。


 夢じゃなかったのか? でもそれなら自分はどうやってこの部屋に帰ってきたのか。


「き、きっと、庭に出たまでは本当なのよ。ちゃんと部屋に戻ってきて寝てしまったんだわ」


 その後の事は夢だったに違いない。

 そう納得して、ビリキーナはベッドから降りようとして気が付いた。使用人が来ない。もう一度ベッドサイドの鈴を何度も鳴らすが、やはり使用人は来ない。


「ああもう!!」


 汗でべたつくのは夢も今も変わらない。着替えたいし風呂にも入りたいのに! その前にトイレに行っておくか。その間には使用人も来るだろう。来たらその顔を叩いて呼ばれたらすぐ来るようにしつけ直さなくては。


 いまだ現れない使用人に憤りながらビリキーナは部屋の奥にあるトイレに立った。


 用を足して戻ってきても使用人はいない。腹を立てて扉を開けて怒鳴りつけることにした。さすがに朝なら警備兵もいるだろうから、誰かすぐに来るだろう。

 まったく令嬢自ら扉を開けるなんて、なんてこと! そう思いながら思い切り扉を押した。


 ガチッ!!


 だが扉が開かない。引いてみても開かない。いや昨晩は押して開けた。今まで使用人達も押していたはずだ。だが何度やっても開かない。ビリキーナは扉をドンドンと叩いた。


「ちょっと! 誰か来なさいよ! 着替えの手伝いをしなさい!」


 しかし返事はない。分厚い扉だからか弱い令嬢の叩く音など聞こえないのかもしれない。

 それにおなかも空いた。イライラしてきて、鈴なら聞こえるのだろうから、この場で鈴を思い切り振ってやろうと部屋に振り返って、勢いよく歩き出そうと上げた足を、そのまま止めた。


 ワゴンが置いてある。いつの間にか使用人が入ってきたようだ。ワゴンの上には金属製の食器の覆い─クローシュ─が置いてある。


「なによ、いつの間に……。わたくしに声も掛けずに、食事だけ置いていったの? 着替えとお風呂は!?」


 そうは言ってみたが、クローシュを見たとたんに空腹を思い出した。昨日も夜中に出歩いたからか、もう空腹は限界だ。給仕もせずにおいていくとはいい度胸だわと思いながら、ワゴンが置かれている脇のテーブル席に進んで、仕方がなく自分でクローシュをどける。


「……スープとパンだけ!?」


 いつもなら卵料理とハムと野菜が綺麗に添えられているのに、それしかない。パンにいたっては丸パンが一つだけだ。クローシュの脇にはティーポットとカップが置かれている。これも自分でやれという事か。


「昨日、部屋から抜け出したのがバレて、その罰なのかしら。まあ良いわ、お茶くらい入れられるし!」


 危なっかしい動作で何とかワゴンからテーブルに料理を移し、ティーポットからカップに茶を入れて、カップをテーブルに置いた。

 カトラリーはスプーン一つしかついていない。ビリキーナはブツブツと文句を言いながらスープをすくって口に入れた。


「まずっ!! なんなのこの不味いスープは! 味がないじゃない!!」


 この国の料理は、非常に美味しいというのがこの大陸の共通認識であるほどに、この国の食事は美味しいものだ。もちろんビリキーナも昨日まで、その恩恵にあずかっていた。

 なのにこのスープは食べられたものじゃない。まるで水で野菜を煮ただけじゃないか。


「ダシはどうしたの! 塩は! スパイスは! こんなの不味くて飲めるわけないじゃない!!」


 癇癪を起してスープボウルを扉に投げつける。斜めになって飛んだ皿から中身がドボドボと絨毯に落ちて、扉に届かずに落ちた。

 怒りに任せて握ったパンの硬さにも驚いた。石なんじゃないかと思うくらいに硬い。試しに扉に向かって思い切り投げたら、扉に届いてゴン! と音がした。


 あんなもの食べられるものじゃない。怒りで上がった息をふうふうと意識して整えて、椅子に腰かけ直して茶を飲む。


「渋い!!!!」


 入れ方のせいか、もともとの味なのか、エグさしかない。こんなもの飲めない! テーブルの上のソーサーごとはたき落とした。幸い絨毯が毛足が長いので、割れることなく落ちただけだ。


 もう一度扉の前に行き、パンを拾って扉にガンガンと打ち付ける。


「誰か! 来なさいよ! なんなのこの嫌がらせの数々は! ちょっと! 聞いているの!?」


 ガンガンとパンをぶつけているうちに、パンは崩れてなくなってしまった。そして外からは相変わらず物音ひとつしない。

 これはもしかして、ビリキーナが昨晩部屋を抜け出したことを、父親が本気で怒っているからではないか。そうとしか考えられない。だから使用人は来ないし、返事もないのだろう。


「……仕方がないわね」


 ちょっと抜け出しただけなのに。家の外に出たわけでもないのに。こんなに怒らなくたって。食事まで嫌がらせしなくたっていいじゃないか。

 そう思いながらビリキーナはベッドに戻った。部屋から出られないのならふて寝でもしてやる。そして夕飯を持ってきた時には着替えを手伝わせるし、こんな食事を出した文句も言ってや

る。やりすぎだと。


 そう思いながらビリキーナは目を閉じた。

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