冷たい涙

正縁信治

第1話 獅子は我が子を千尋の谷に落とす

アユムはひざを曲げ、腰を下ろして、左手のこぶしを黒い土の上にゆっくりと乗せた。アユムの目の前には、アユムの父が両腕を軽く開き、中腰でアユムを待ち受けていた。


アユムは


「ヨーイ」


と低い声を出し


「ハッケヨイ!」


と叫んで、父のお腹の辺りに、全力を振り絞って突っ込んだ。


父はびくとも動かなかった。


「そんなもんか」


と、父は言い捨て、右腕でアユムの脇の下を思い切り降り下ろして、アユムを地面に叩きつけた。


アユムは腹這いになり


「くそ……、これで10連敗か……」


と、つぶやき、立ち上がる気力もなくなって、うつ伏せになり、呼吸が収まるのを待った。すると


「あなた、たまには負けてあげなさいよ」


という、母の声が縁側の方から聞こえた。母は続けて、父に言った。


「なに幼稚園児を相手にムキになってるの?オットットとか言って倒れてあげると良いのよ」


すると


「獅子は我が子を千尋の谷に落とす、だ」


という父の声がアユムにも聞こえた。


「それはそうと、もうお風呂を沸かしましたよ。お父さんから入ってください。アユムは手と腕を洗って着替えてね」


アユムは、いいだくだくと母の指示に従うことにした。

父はサンダルを脱いで縁側に入り、母の横を通って風呂場の方へ姿を消した。アユムは流しで手と前腕を洗い、自室へ行って服を着替えてから、食堂へ行った。


テーブルにはもう食事が並べられていて、母は自分の席に座っていた。アユムも自分の席に座った。アユムは日頃、疑問に思っていることを母に尋ねた。


「どうして僕達はお父さんが風呂から上がるのを待っているの?」


母は


「私が専業主婦だからよ。お父さんの稼ぎが良いもの。アユムも昭和1桁世代という言葉を覚えれば良いわ」


「昭和1桁世代?」


「そう、とにかく威張ってるの」


「お母さんはそれで満足なの?」


アユムの質問に、母は遠い目をした。


「もしかしたら、私は小説家になっていたかもしれないわね。でも、私にはそんな才能はないと思って諦めたの」


アユムはびっくりした。


「すごい!頑張って小説家になったら良かったのに」


母はクスリと笑った。


「そうしたら、私はお父さんと結婚していなかったかもしれないし、アユムも生まれてなかったかもしれないわよ」


アユムは首を振った。


「お母さんが小説家になるんだったら、僕は生まれてこなくてもいいよ」


その時、風呂場の方から父が出てくる音が聞こえた。母は慌てて


「今の話は、お父さんには内緒ね」


そう言って、母は自分の人差し指を唇の前に立てた。

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