契り

◇◇◇


 寝室用の和室で、客用布団の上でチリを眠らせた。箪笥が一つと、その上に結子と両親の家族写真が置いてあるだけの潔い部屋。そんな部屋にチリが大の字でぐーぐー寝ていると命の火を感じる。もこもこした寝間着を着た結子は、チリが眠る布団のすぐ隣に自分の布団を敷いた。


「んー」


 結子が布団を整えていると、チリが寝ぞろを言いながら寝がえりを打った。


「ふふっ、チリくんの存在感抜群だね。生命力に漲ってる」


 結子は微笑みながら大胆な寝相のチリに掛布団をかけ直す。結子の横顔が子どもが可愛いと語る。結子が自分の布団に座り直したのを見計らって、我は隣に移動した。結子が我を見て首を傾げる。


「どうしたのツクモ君」

「対価の話だが」


 結子は居ずまいを正して正座し直した。きゅっと緊張した彼女の唇に和む。


「結子にひとつ、我の魅了をかけたい」


 結子はこてんと首を傾げて、目をぱちくりさせた。


「えーと、魅了っていうのは支配する力ってことだよね。どんな魅了?」


 結子の疑問は当然のものだが、この力は先に話すと効力を失ってしまう。我が首を横に振ると結子は察したようだ。


「言えない感じなんだ。うーんじゃあね、私が人に迷惑をかけたり、犯罪を犯したりしないならいいよ?」


 結子の軽々しい返答にはため息が出る。おっとりした結子は一事が万事、この調子だ。まあそこが、気に入りなのだが。


「魅了は操る力だ。我は結子が思うより、ずっと恐ろしいことができるのだが?」

「でもツクモ君は私に嫌なことしたことがないから、大丈夫だと思う。チリくんのこと、ツクモ君にいっぱいお世話になっちゃった。だからツクモ君の好きにしていいよ!」


 結子は明るく微笑んでそれ以上何も聞かずに、布団に潜り込んでしまった。疲れていたのだろう結子は、我が部屋から出ていく前に寝息を立て始めた。


「結子の言うように……あの日からずっと。結子が我に寄せる情を、裏切る気にはならんな」


 我は安らかに寝息を立てる結子に魅了をかける前に、健やかな寝顔を見ながら、結子との始まりの日を思い返す。



 世界最古と謳われる翡翠石に宿る我は、長く世と共にある。我は最古の付喪神だ。今もかの地の奥深くに祀られ、崇められる我の本体のほんのヒトカケラが結子の持つ翡翠の指輪。我のカケラは日本中に様々な形で在るのだ。


 我が操る魅了の力は、我が望めばすべてを支配する。我が望めば世界を狂わせ、消すことさえできる。だが、我はそれを欲したことはない。


 我が顔を晒し続けると、勝手に皆が我に従ってしまう。自らに顔を隠す縛りを設け、我は魅了の力を抑えてきた。


 我は我の力に操られぬ、自由な人の営みを眺めるのを好むからだ。翡翠石の周りで起こる人間がもたらす物語と共に、空に揺蕩い、傍観する。


 乳飲み子が死のうが、殺し合おうが、助けを求められようが、ただ彼らの近く、空に揺蕩い物語を眺めた。人は狂い、戦い、過ちを犯し、憎み合う。それを見るのは興味深い。そしてどんな苦難に立たされようとも、愛とやらを信念に立ち向かうのも人間の側面だ。


 我は人間を眺めるのを好む。


 我の力をもってすれば、人に起こる不幸や悲劇を避けることは可能だ。だが我は他者のために力を奮うことはなかった。


 我は、我が世に干渉することを好まない。ごく稀に我の世話をする眷属を増やしたくらいだ。最も長く我の眷属であるナギは、我の行いを情がないと断ずる。それにも特に感慨はない。


 人間は眺め、興のあるものだ。

 

 そうやって空気のように人の側で随分長く存在してきた。なのに、あの冬、どうしてか、結子の声だけは聞き逃せなかった。


 汚れた川の中で泣く幼い結子の声に、捕まってしまった。


 我は我の本体である翡翠石のカケラを使った物の周りで起こる全てを知覚している。カケラの周りで起こるいくつもの声が常時聞こえているのだ。


 我の頭の中は何場面もが常に行き来している。今の世に合わせて言えば、我の頭では映画が何十本も同時に流れている。どこに意識を割くかは我の気まぐれだ。


 そんな無数の中で、結子の声だけがなぜか耳にこびりついた。


 翡翠の指輪に付喪神の身体さえ寄せて、つい現場に結子を見に行ってしまった。浅く淀んだ冷え込む川で我を探す様に魅入って仕方なかったのだ。


 塵が沈殿した川に沈んだ小さな指輪を見つけるのは人には不可能だった。それでも結子は諦めなかった。学生服のまま、素足で川に入って、腕まくりした細い手で川の中を漁っては、結子は泣いた。それでも彼女は次の日にまた現れて同じことを繰り返す。


 懸命に我を探す姿に、つい口角が上がった。


 寒さが増した師走の日も、我は空に揺蕩いながら結子を見ていた。ついに希望を失って、川の中に倒れ込んでしまった結子の真上に我は浮かんでいた。絶望を前にして、彼女がどうするのか近くで見たかった。


 結子は泣いて、それでも足掻いた。紫色になった唇で震えながら、天を仰いだ彼女は、空に揺蕩う我をまっすぐに射抜いた。


「私を全部あげるから。お願い……帰って来て」


 開いた口が塞がらないという体験をした。我は数多の人間に崇め奉られ、願いをかけられてきた。私を全部捧ぐから願いを叶えて、と言われたことは数えきれない。


 だが、その身と引き換えの望みは常に、我以外の誰かのために向いていた。


 私を全部あげるから、あの人を助けてといった具合だ。至極当然だろう。我は崇められる対象だからだ。だが、結子は人間の身と引き換えに、我個人を求むと言う。


「ふっ……アハハハハ!豪胆だな娘」


 結子の懇願を受けて、我は顔を片手で押さえて派手に笑ってしまった。こんなに笑ったのは長く生きて初めてだ。


 人間の小さな身一つで、この最古の付喪神を欲しがるとは。彼女は身の程知らずの強欲だ。だが、我自身を求められたのがひどく滑稽で楽しく、存外に胸が弾んでしまった。


 我は小さな我の欠片である指輪を光らせて我の居場所を教えた。奇跡だと喜んだ結子の泣き顔が、我の胸を高鳴らせたのは忘れない。


 我を連れて帰った結子が熱を出して寝込むのを真上から眺めて、緩む頬を抑えきれなかった。数えきれないほど生きてきて初めて、我は一人の人間に、特別に憑りついてしまった。


 だが、その熱のせいで結子は我との契りを忘れてしまったのだ。口惜しいことだ。

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