小花ちゃん
新作カカオニブドーナツを食べた日から、さっちゃんはグリーンのソファ席から動くようになった。ツクモ君の着物の裾に隠れてみたり、カウンターに乗って私がドーナツを作るのを眺めたりして活動を始めてくれた。
毎日カカオニブドーナツをリクエストするさっちゃんは、ゆっくりと笑顔を取り戻していった。
私はさっちゃんの実体である白兎の土人形をカウンターの上に飾る。麻で編んだコースターの上に鎮座させて、店のオブジェになってもらうことにしたのだ。
もし、土人形を気に入った人がいたら、さっちゃんの持ち主になってもらうためだ。さっちゃんはすっかり私に気を許してくれて、私の肩の上でほかほか発熱していた。
「さっちゃん、次の持ち主と仲良くするって千鶴ちゃんと約束したけど……できるかな」
「大丈夫です。さっちゃんが少しでも嫌だと思ったなら、私が渡しません。私がさっちゃんを守りますから」
「うん、ありがとう。結子ちゃん」
肩に乗ったさっちゃんが頬ずりしてくれるので、私も頬を擦り返した。ふわふわのさっちゃんはほかほかあったかい。
「お邪魔するでー!」
「するでー!」
店の引き戸がカラカラ開いて、松浪姉さん親子が入店する。来客に驚いたさっちゃんは私の肩から飛び降りて、グリーンのソファ席に走って行った。私は松浪親子を笑顔で出迎える。
「いらっしゃいませ、松浪姉さん。小花ちゃん」
三和土で靴を脱いで店に上がった小花ちゃんが、風のように木目張りの店の中を走り回った。ツクモ君は今日も定位置で肘をついている。小花ちゃんが横を掠めようが微動だにせず蔵面で私を見ていた。ツクモ君は今日も平常運転。
「こら、小花!走ったらあかん!」
「小花、ゆいこちゃんのお店好きー!いっつもだれもいないからひろーい!」
「こら!ホンマのこと言うな!この店はこれからや!」
「……親子ですね」
親子そろって歯に衣着せぬところが、松浪親子らしくて私は笑ってしまった。
新作ドーナツの試食んおために呼んだ松浪姉さんに、カウンター席でカカオニブドーナツを試食してもらう。小花ちゃんには苦すぎるのでお昼に作った非売品、和栗練り込み米粉ドーナツとほうじ茶をソファ席で食べてもらった。
小花ちゃんが大きな口でドーナツを食べるのを、さっちゃんがじっくり眺めている。カカオニブドーナツを齧った松浪姉さんが、唸った。
「結子ちゃん、これはまたすごいもん作ったなぁ」
「苦すぎるでしょうか」
「いや、ええ感じや。四十代、五十代には甘い物苦手やけど、ほんのり甘さは欲しいっていうワガママ層があるんや。これは刺さるで。私にもドストライクや。結子ちゃん若いのに……こう、苦いだけでも甘いだけでもない味に人生を感じるなぁ。苦労してるもんなぁ」
松浪姉さんが天井の梁を見上げて目頭を指でつまみ上げてクーッ!と唸っている。人の苦労を想ってジンと来てくれる松浪姉さんの情の厚さが好きだ。涙を引っ込めた松浪姉さんは、バンと両手でカウンターを叩いた。
「結子ちゃん、言わせてもらうけどな」
「は、はい」
きた。松浪姉さんの米粉ドーナツで素直になっちゃう現象。私は身構えた。
「この新作、美味いもんフェスティバルに出し!お姉様方の心、鷲掴み間違いなしや!」
松浪姉さんが断言してくれて、私はホッと胸を撫でおろした。松浪姉さんは商品に厳しい人だ。お世辞は言わない。
「新作フレーバーは出したくないって言うてたのに!勇気出したんやな!えらいで、結子ちゃん!」
「ありがとうございます!」
私は松浪姉さんと握手してから、ソファ席でお茶を零しそうになる小花ちゃんをハラハラ見守るさっちゃんをチラリと見た。新作ドーナツができたのはさっちゃんのおかげだ。
一歩先に喪失を経験した私の姿は、さっちゃんの道しるべになる。怯えていないで。まーるいご縁に従って。前に進んでかなくては。
私はもう、怖がらない。
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