お母さんのコーヒー

 南大阪郡にある神ノ郷村は、三方を山に囲まれ、残った一方を線路が区切る小さな村だ。村のどこにいても山と水田と青空の景観が目に美しい。


 この神ノ郷村で小さなドーナツ屋さんを開店したのが一週間前のこと。まだお客様はゼロという厳しい状況だ。


 私はこの神ノ郷村に知り合いがほぼいない。東京生まれの東京育ち。ここ南大阪に私自身の縁は薄かった。神ノ郷村は、お母さんが幼少時代を過ごした場所なのだ。


 お父さんを喪って、第二の人生を歩もうとしたお母さんは、心機一転この懐かしい村に帰りたがった。店を開くために神ノ郷村を選んだことに後悔はない。お母さんはここが良いと言ったから、ここで良い。


 小さなドーナツ屋さんを開くために古民家を改修リノベーションするとお母さんは決めた。平屋造りの購入費用、古民家のリノベーションも高額だ。けれど、お母さんは怯まなかった。


 お父さんが死んでから「あの世にはお金も物も持っていけない。使い切る方がいい」と言い始め、気前よく使った。私は大賛成。小さなドーナツ屋さん計画はお母さんの生きがいになった。


 また活き活きし始めたお母さんの姿が嬉しくて、私は喜んで一緒に夢を追った。

 開店資金はお父さんの生命保険金、お父さんが亡くなってローンが消えた持ち家の売却金で大方は賄えた。残りはお母さんがローンを組んだ。


 だが、お母さんが亡くなった。

 ──またローンは消え、完済だ。


 私は古民家を手に入れて日々生き抜くお金を細々と稼げばいいだけの気楽で、孤独な身となった。元気なお母さんと一緒に苦労しながらローンを支払っていく方がずっと、幸せだった。


 お母さんとの夢の店。潰すわけにはいかないのだ。あまりに乏しい客足にため息が出る。


「今日も誰も来ないのかなぁ……開店お知らせのチラシ配ったのになぁ……」


 古民家小さなドーナツ屋さんのキッチンで、私は若草色のエプロンをつけて髪を一纏めにした清潔感を守った店員の装いだ。この姿をお客様に見てもらったことはまだ一度もない。


 キッチンでお湯を沸かしながら、私はコーヒーを淹れるためにドリッパーをセッティングする。大ため息を吸い込んで一呼吸した。


「ツクモ君、私に一言お願いします!」

「コーヒーにきちんと向き合いなさい、結子」


 美味しいコーヒーを淹れるために修行を積んでいた時に、よくお母さんに言われた言葉だ。今日も和服スタイルが決まっているツクモ君に言ってもらう。私が依頼したツクモ君のお仕事である。


「はい、がんばります!」


 自分に喝を入れ、両手で顔をパンパンと軽く叩いて切り替える。集中しないとお母さんの味が再現できない。


 すでに挽いた後のコーヒー豆をスケールでミリ単位まで丁寧に計量した。常に同じ味を出すために、綿密な計量は必須だ。


 豆の重さ、お湯の重さ、抽出時間、温度、注ぎ方。


 全てが整ってこそ至福の一杯にたどり着く。私は静かに全ての手順を完璧に踏んだ。感覚を研ぎ澄まし、お湯を注ぐ水音が店の吹き抜けに響くのを感じ入る。


 茶道も厳しい手順ががちがちに決められているからこその境地があると聞く。コーヒーにも通じるものがある。お湯を注ぎ終わるとふっと集中が途切れる。淹れたばかりのコーヒーからアロマが立ち上がった。


「良い香り……」


 ドーナツとコーヒー。お母さんが大好きな組み合わせを作り上げるために、私は腕を磨いてきた。商品には自信がある。


 でもそういえば、ドーナツとコーヒーの腕ばかり磨いて経営について学んでなかった。美味しいものを作っていれば客が来る。なんて繊細な時代ではないと、どこかで聞いた。


 コーヒーを淹れる一時は飛んでいった不安がまた膨らみ始めた。


 息をついて、キッチンの背面にある棚を振り向く。木製の飾り棚に、お母さんがこだわって集めた和食器のコーヒーカップとソーサーをセットで一つずつ並べている。


 紫色を帯びた暗い上品な青色、金青と呼ばれる色の和カップを選び、コーヒーを注いだ。金青のカップはツクモ君用だ。


「米粉ドーナツと中深煎りコーヒーのセットです。ツクモ君、どうぞ」

「大儀だった」

「お言葉痛み入ります、付喪神の王様」


 ツクモ君との王様ごっこは毎日のちょっとした遊びだ。


 カウンター最奥席に座るツクモ君だけが、毎日私の作った最高傑作を食べてくれている。私も米粉ドーナツとコーヒーを持って、ツクモ君とL字の位置、カウンター席に座った。


 私はお母さんのコーヒーを再現した味をゆっくりとすする。程よい苦みが広がり、悩みがふっと消えるような深い息。コーヒーはこの一瞬の幸福のためにある。


 米粉ドーナツをかじり、コーヒーを飲む。コーヒーと米粉ドーナツのコンビネーションの良さに解されて、私はつい口が軽くなる。


 美味しいものに心が緩むと、話しにくい本音が素直に出るものだ。


「どうしようツクモ君。このまま誰もお客さん来なかったら、お店が潰れちゃう」


 私が食いつなげるだけのお金も稼げないならば、さすがに店を閉めざるを得ない。コーヒーを一口、弱音を吐いて、またドーナツを続けた。


「高校生の時にね、友だちから『画伯だね』って私の画力は大評判だったの。画伯の画力を活かして、手描きのチラシをご近所に配って歩いたのに……何が悪かったんだろう。画伯って呼ばれてたんだよ?」

「……結子の絵は、前衛的だった」


 ちょっともの言いたげにツクモ君の右手がカウンターの上に乗った。コーヒーもドーナツもすっかりなくなるまで、私はツクモ君に壁打ちの弱音を吐いた。ツクモ君が私の話を遮ることはない。多少スッキリした。


「我は二人きりのこの店が気に入りだが?」


 ツクモ君の慰めに私は大ため息をつく。


「ツクモ君に食べてもらうのももちろん嬉しいけど、ツクモ君は家族だから。お客さんにも食べて欲しいの」

「……そうだな。我は結子の家族だ」


 ツクモ君の声には嬉しそうな色が乗っていた。ツクモ君とはひとつ屋根の下で寝て起きて一緒にドーナツの暮らしを共にしているのだ。家族に間違いない。


 ふとツクモ君を見ると、金青のカップは空っぽ。ドーナツも完食だ。これは何度見てもにまりと笑ってしまう。私は目線をあげて漆黒の蔵面を見つめた。ツクモ君の視線に呼ばれたような気がしたからだ。


「客が来るのが結子の望みなのだな?」


 ツクモ君の蔵面が窓の外の新緑の桜木を見つめる。ツクモ君の手が軽く蔵面に触れ、少しだけ捲ると顎の先がチラリと覗く。桜木の枝にとまっていた二匹の雀が明るい青空に向けて飛び立った。


「我が呼ぼう」

「ツクモ君のその気持ちだけ受け取っておくね……ありがとう」


 あやかしのツクモ君に集客は無理だ。ツクモ君は偉そうだけど、いつも優しい。

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