とても広い世界の君と僕
京野 薫
天体観測
天気図を横切り前線は伸びる。
そんな歌詞の一節が何の脈絡もなく頭に浮かぶ。
名古屋の夏は全国でも特に過ごしにくいらしい。
特に今みたいな夜の時間体は特に。
まるで生ぬるい水の繭に包まれているような不快感を感じるとそれもそうかもしれないと納得してしまう。
でも僕は夏が好きだ。
こういうと周囲には変人扱いされるのだが、夏の空気は全ての物の輪郭をクッキリとしてくれるような気がするから。
そんな事を考えながら、僕は去年引っ越したアパートのドアを開ける。
すると中から味噌汁に中近東のスパイスを混ぜたような不思議な香りと共に、軽やかな鈴の音のような声が聞こえてきた。
「お帰りなさい。お仕事お疲れ様でした」
僕は声の主……エマ・ミランに向かって返事をする。
「ただいま。それ……君の世界の料理?」
エマはニコニコとしながら頷く。
「はい。山鳥とブタねずみのシチューなんですよ。と、言ってもそれらは無かったんで、冷蔵庫の中にあった鶏肉を……」
僕の表情を見たのだろうか、エマは不安げに言う。
「えっと……変な……匂いでしたか?」
「いや、いい香りだよ。……ちょっと個性的だけど……ありがとう」
エマはホッとしたように微笑むと、また鼻歌を歌いながら料理に戻る。
僕も彼女の価値観に慣れてあげないとな……
何せ、異世界から来た魔法使いって……
今でこそこの奇天烈な事実を受け入れているが、彼女と始めて会ったときはとても信じられなかった。
彼女……エマと始めて会ったのは、車を走らせて一人、海にやってきた時だった。
車を停めて、海岸の岩に腰をかけてボンヤリとしていた僕の目にふと海岸の向こうのほうに倒れている人影が見えた。
急いで駆け寄ると、そこには見た事もない不思議な異国の服装をしている少女が気を失っていたのだ。
そして、僕のめは彼女の耳に釘付けになった。
尖ってる!?
焦りながらも必死に起こして救急車を呼ぼうとすると、少女は急に目覚めてパニックになった。
そんな彼女を必死に宥めて、やっと落ち着きを取り戻した少女は自らをエマ・ミランと名乗り、周囲の景色を見て混乱しているようだった。
様子は明らかにおかしかったが、身体は元気だった彼女を見て救急車よりは警察かな……と思ったが、次に彼女が話した言葉を聞いて耳を疑った。
彼女の言葉によると、自分はエルドアと言うエルフ族の国の王宮魔導師だと言うのだ。
そして、王国を脅かす敵国からの刺客との戦闘中に、突然発生した光によって意識を失い、気がついたらこの海岸に倒れていた、と。
混乱している彼女を見ながら堪らなく笑えて来た。
まさかこんな狂言に巻き込まれるとは……
娘を失って死に場所を探してここに来た自分が。
僕は目の前の少女が娘……
国籍も顔立ちも全然違うのに……
そして、僕は混乱する少女の話をそのまま半日は聞いていた。
いや、それ以上かも知れない。
ただ、ぼんやりと海を見ながら。
話の最後のほうで、少しづつ自らの置かれた状況を理解したのだろう。
エマは大声で泣き出すと、これからどうしよう、とつぶやいた。
それを聞いて、自分の最後の役目なのかもな、と思った。
彼女の言う事が本当でも嘘でもどっちでもいい。
彼女をどうにかしてあげることが自分の最後の役目だ。
「信じても信じなくてもどっちでもいいよ。良かったら帰る方法が見つかるまで家に来る?」
そう言いながら彼女が乗るとは思えなかったが、驚いたことにエマは着いてきた。
後に分かったことだが、彼女は魔法で僕の心を覗いていたらしい。
それで悪人ではないと思ったのだとか。
そして僕らの共同生活が始まって三ヶ月になった。
●○●○●○●○●○●○●○●○
「すいません。この世界の味付けももっと勉強します」
「いや、いいよ。君にとって故郷の味なんだろ? 僕が慣れるよ」
そう言うとエマはペコリと頭を下げて、テレビをつけた。
王宮魔道師というだけあって彼女は頭脳明晰で好奇心も旺盛だった。
そのせいか、この世界の様々なことにも少しづつだが対応し始めている。
もっとも、異世界人の彼女は仕事をする事が出来ず、一日中部屋に篭っているのでテレビやネットばかりを見ているので、知識を吸収する時間がたっぷりある事も功を奏しているのだろう。
外を自由に歩かせてやりたいが、彼女はこの世界の事をまだあまり分かってない。
危険も多いし、何よりあの尖った耳を何かの拍子に見られでもしたら……
だけどいつまでもこんな生活じゃ彼女も参ってしまう。
早く元の世界に帰してやりたいが……
「ごめん、ずっと不自由で……早く元の世界に帰してやりたいけど……」
「いいえ、ご主人は凄く良くしてくれるじゃないですか。私、本当に感謝してるんです。実は私……このお家に来た時はちょっと覚悟してたんです……色々と。魔法もこっちの世界に来て殆ど使えなくなってるから、抵抗も出来ないし……でも、ご主人は私をそんな目で見ることも無く、誠実に接して下さっている」
嬉しそうな笑顔で話すその姿に、むしろこっちが恥ずかしくなる。
彼女を家に連れてきて、何くれと無く面倒を見ているのは、僕が善人だからじゃない。
そうじゃなくて、僕が殺したも同然の人。
娘の美也への罪滅ぼしがしたかったんだ……
今度こそは守りたい。
ただ、それだけなんだ……
僕は彼女から目を逸らして、何気なく窓の外を見た。
夏の夜空に星が見える。
ここは名古屋の中でも郊外に近いので、高いビルも電線も少なく、そのせいか夜空の星がよく見えるのだ。
僕は少し緊張しながら、おずおずとエマに言った。
「あの……良かったらなんだけど……星でも見ないかな?」
異世界の魔法使いなら、空の星などもっと綺麗なものを嫌と言うほど見てるだろう。
こんな淀んだ空の星なんて、彼女からしたら失笑ものなのではないか……
だが、エマは表情をほころばせると、小さくコクコクと頷いた。
「ぜひ! 楽しみです」
●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
部屋の押し入れから、美也に買ってあげた天体望遠鏡を引っ張り出す。
もう使う事も無いとは思ってたけど。
あの子は夜空の星を見るのが大好きだった。
エマに自分勝手に娘の影を重ねている事に、胸の奥がジンワリと痛む。
その後ろめたさを隠すように、彼女を連れて車に乗り込むと、近くの山にある公園に来た。
ここは夜は人もあまり来ない小さな公園だが、念の為に彼女には美也が使っていたニット帽を被せて、耳を隠したのだ。
「ここで良いかな……」
僕は天体望遠鏡を置くと、調整して覗き込んでみた。
ボンヤリとしてるけど、それなりに見えている。
「あの……それは」
エマがおずおずと尋ねるので、僕は笑顔で彼女を見て答えた。
「これは天体望遠鏡と言うんだ。空の星が近くで見てるように見えるんだよ」
「へえ……」
「じゃあ見てみようか。ここに目を当ててみて。軽くね……押しつけすぎると目が痛いよ」
「は、はい……」
エマはおっかなびっくり、と言う感じで僕の指で示したファインダーに目を当てると、すぐに目を大きく見開いて「ふわあ……」と声を漏らした。
そして、目を離すと紅潮した顔で言う。
「あれ……星なんですか? 星が……あんなに大きく見える」
「そんなに高級品じゃないし、君の居た所ほど星は綺麗じゃないと思うから、申し訳無いけど……」
「そんな事無いです。これって……魔法ですか!? ご主人のよく乗ってる『車』といい、魔法使いなんて居ないはずなのに、魔法の世界みたい……」
そう言って彼女は何回もファインダーに目を付けたり離したりしていた。
「私、星って大好きなんです。どんなに辛い時でも星はただ、そこにある。変わらず輝いてる。離れちゃった人の事を思い出して辛くなった時でも『あの人も同じ星を見てるんだろうな……』って思うと、寂しさが紛れるので」
「そうか……」
僕は彼女の泣き笑いのような表情を見ながら、何も言わずに横のベンチに座った。
彼女がまた大好きな人達と同じ星を見ることが出来るんだろうか。
いつかそう出来たらな。
そうしたら美也、僕も君の所に行けるかな。
早く行きたい……この世界は一人で居るには広すぎるんだ。
エマを元の世界に早く帰して、君への罪滅ぼしをしたらすぐに追いかけるよ。
ちょっと寄り道しちゃったけど必ず。
だから、もう少しだけ待ってて欲しい。
君に何故か雰囲気が似てる不思議な女の子。
この子を助けてあげたいんだ。
君をたすけられなかったお詫びに……
だから、もうちょっとだけ待っててくれないか?
「ふわあ……」「ええっ!?」と素っ頓狂な声をあげるエマを見ながら、僕はそんな事を考えていた。
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