第2話 ここは、あなたのお家よ。

 草原には、静かな風が吹き抜けていた。


 それは肌を撫でるというより、魂の奥をそっと撫でていくような風だった。

 光に溶けるような緑がどこまでも続いていて、草は柔らかく揺れ、遠くの空は水色と白の混ざった霞のような色をしていた。


 その中心に、立っている気がした。

 足元には風が遊び、まるで自分の存在を確かめるように、何度も何度も裾を揺らしていく。


 どれくらいそこに立ち尽くしていたのか、わからなかった。ただ、その風が心地よいとどこかで思っていた。そして、どこか懐かしい香りに包まれていた。


 ふいに、声がした。


「――アン!」


 振り返ったわけでもないのに、その声が誰のものか、なぜか心の奥が震えた。

 呼ばれた名前。それは、きっと私の名前だ。

 その瞬間、胸の中に微かに火が灯ったような気がして――「起きなくちゃ」と、そう思った。


 だがその瞬間、風が止まり、草原の全てが白く、眩い光に包まれていく。

 まるで、景色ごと、夢の幕が降りていくように。

 視界は白に染まり、音も色も、ふたたび遠ざかっていった。


 ……あたたかい。


 まず、そう思った。


 柔らかな感触が、身体の下から包み込んでいる。

 触れているのは、布団。ふわふわとしていて、ほんのりとぬくもりがある。

 まぶたを開くと、窓から差し込む陽の光が、やさしく頬を照らした。


 見慣れない天井。

 木の香りがする部屋。遠くで、鳥のさえずりが小さく聞こえている。


 ゆっくりと手を持ち上げて見つめると手は、小さかった。

 細い腕、小さな足、皮膚は滑らかで細くて、まるで別人のようだった。

 胸も、肩も、全体的に華奢で幼い印象だった。


 声を、出してみようとした。喉の奥に意識を向ける。


 「……こ……れ、私……?」


 耳に届いたのは、澄んだ、幼い声。

 自分のものとは思えなかった。けれど、確かに自分の口から出た声だった。


 戸惑いと、ほんの少しの息苦しさに眉を寄せたそのとき、

 ふわりと、部屋の扉が開いた。


 そこに立っていたのは、栗色の髪を結った優しげな女性だった。

 白いエプロンの上に籠を抱え、中には焼きたてのパンと、湯気を立てるスープがあった。

 その後ろから、高校生くらいの年齢の少女と小学生くらいの年齢の少年が、心配そうにこちらを見つめていた。


 家族。――たぶん。


 「アン、身体は大丈夫?」


 女性が、やわらかく声をかける。


 杏奈……アンは、少しだけ躊躇いながら口を開いた。


 「……ここは、……どこ?」


 その問いかけに、女性はにこりと微笑んで、まるで当たり前のことを告げるように、言った。

 

 「ここは、あなたのお家よ。アン。」


 言葉が、部屋の空気に溶け込んでいくようだった。

 それは現実よりも夢のようで、けれど確かに、温度を持っていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る