愛を知らずに転生した私は、異世界で心を取り戻し、ゆっくりと豊かな世界に変えていく
白河 隼
第1話 草原に立つ少女
若草の匂いがするような風が、ふわりと髪を撫でていた。
空は高く、淡い陽光が彼女の肌を包みこむ。
けれど、杏奈の身体は何も感じなかった。
風も、草の感触も、あたたかさも
――全て、頭の中で「きっと、そうなのだろう」と理解するだけだった。
この風景は、本来なら安心できるものなのだろう。
柔らかで、優しくて、心を撫でてくれるような、そんな場所のはずなのだろう。
けれど、杏奈の胸の奥には、何一つとして波が立たなかった。
何も感じない、身体も何も動かない。
果てしない無の感情が、心の底に静かに積もり重なり、もうすぐすべてを埋め尽くそうとしていた。
そのとき、不意に、一筋の光が差し込んだ。
目だった。
目に刺すような刺激が走ったかと思うと、杏奈の両目から、大粒の涙がとめどなく溢れた。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、涙腺が勝手に流しはじめたかのように、ぽろぽろと、こぼれていく。
「……あん……」
遠くから、誰かが彼女の名を呼んだ。
そして――目が覚めた。
視界の先には、変わり映えのしない、くすんだ天井。
耳に届くのは、遠くで揺れるカーテンが壁に擦れる、かすかな音。
空はまだ暗く、外は冷えていた。目蓋を開けたはずなのに、世界はどこか霞がかかったように、色が薄かった。
「……あんたは、一体いつまで寝てんのよ。仕事も勉強もロクにやらないんだから、せめて家のことくらいやったら?」
母の声が、耳の奥にめり込むように響いた。
それはもう、ただの生活の騒音の一部のように聞こえた。
繰り返される呪詛。鼓膜がそれを受け取っても、心はもう微動だにしない。胸の奥にあったはずの“痛み”という感情の装置が、とうの昔に壊れてしまったようだった。
杏奈は、息を吐くように、身体を持ち上げようとした。
だが、それはひどく難しかった。
関節という関節が錆びついていた。指先は冷たく、足は鉛のように重い。
思考が命じても、身体が反応しない。
ようやくの思いで立ち上がると、視界がわずかに揺れて、息が浅くなった。
ゆっくり、無音の足取りで台所へ向かう。
冷蔵庫を開け、手の甲で擦れた感触だけでレトルトのおかゆを探し当てる。
パウチを力なく引き出して、電子レンジに投げ込んだ。
「ピッ……、ピッ…………」
加熱の音すら、妙に遠く感じる。
温められたおかゆの袋を裂き、無言で器に注ぎ込むと、白い湯気が上がる。
その湯気を見ても、あたたかさは感じない。
スプーンを掴む手に力が入らず、少しだけ手が震えた。何とか口元に運ぶ。
――喉が、拒絶した。
粘ついたそれが舌の上を滑ると、即座に胃の奥が反応する。
吐き気。咽せる寸前の、奥底から這い上がる感覚。
杏奈は目を閉じ、ただ、唾を飲み込むようにおかゆを流し込んだ。
何の味もしない。砂利を流すような喉越し。飲み込むたび、喉がきしむ。
――今日も、普段通りの悪夢が始まっていく。
会社へ向かう道、視線は地面のアスファルトをただ追っていた。
視線を上げる必要がなかった。誰とも目を合わせたくないのではない。
そこに“他人”という存在がいることすら、気に留まらなかった。
職場のドアをくぐる。空気が冷たい。
杏奈が入ってきた瞬間、周囲の空気がわずかに変わったのがわかる。
「お前さ、昨日の資料のミスで取引先から連絡来てんだけど。何回同じこと言わせんの?」
上司の声。低くて、乾いていて、怒りのエッジがない。
それが余計に冷たかった。
杏奈は、口を開こうとしたが――開けなかった。
唇を動かすための筋肉が、まるで凍りついていた。言葉が、出ない。
だから、頭を下げる。ただそれだけ。何も考えず、感情もなく。
背後で笑い声がした。
「今日もやっば……ほんと病院で頭診て貰った方がいいんじゃないの……?」
「というか、もう辞めてくれた方が……ね」
その声も、遠かった。耳は聞いているのに、心が拒んでいた。
耳に穴が空いていて、そこから声がすり抜けていくだけだった。
生きている理由は、ただ一つ。
――死ぬのが怖いから。
それは感情なのか、本能なのか。ただそれだけ、まだ自分の中に辛うじて残っている気がした。
会社からの帰り道、空の色は夕暮れにもならず、ただ灰色に沈んでいた。
杏奈は、今日の天気が晴れだったか雨だったかさえ、思い出せなかった。
家の扉を開ける。玄関に置かれたスリッパの向きが少しずれている。
それを直す気力もないまま部屋に戻ろうとすると、台所からまた、声が飛んできた。
「あんたは残業の一つもしてこないのね?そんなだから、中途半端なのよ。隣の真理ちゃんは婚約したらしいわよ。あんたはなに?同じ小学校通ってたのに、毎日ボロ雑巾みたいな顔して……恥ずかしくないわけ?」
杏奈は、壁の模様をぼんやり見つめながら、それを聞いていた。
母の言葉も、ただの“音”だった。
心に刺さらない。反論も、怒りも、悲しみも湧かない。
ただ、真っ白な無音の水槽の中で、泡のように言葉が弾けていくのを眺めているだけだった。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
視線は、ぼんやりと天井へと向かう。だが焦点は合っていなかった。
――死後の世界って、どんな世界なんだろう。
今の自分なら、ようやく、死んだとしても、きっと何も感じない気がした。
苦しみも、悲しみも、後悔も、感情の輪郭がすでに消えかかっている。
指先は、触れても温度を感じず、胸の奥は真空のようだった。
ゆっくりと、思考が沈んでいく。
底のない沼に脚を取られて、音も立てずに飲み込まれていく。
視界が揺れて、色が抜けていく。
理性の膜が破れ、現実が、淡く溶けていった。
けれど――その刹那。
また、光が差し込んだ。
昨日と同じ草原。どこまでも続く、柔らかな風。
自分がそこにいることも、なぜ涙が流れているのかも、わからなかった。
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