Memoria

椿谷零

「Memoria」

ざわめきが、遠くから鼓膜を震わせる。それは、真新しい制服にまだ馴染まない身体をぎこちなく動かす、無数の高校1年生たちの声。期待と不安が奇妙な斑模様を描きながら混じり合い、体育館の高い天井に吸い込まれては、反響となって降り注いでくる。私、菊池佳音(きくち かのん)には、その喧騒がまるで分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のように、どこか他人事のように感じられた。ひんやりとした体育館の床材の感触が、薄いスカートを通して直接肌に伝わってくる。その冷たさだけが、今、私がここにいるという唯一の確かな感覚だった。視線は自ずと壇上へ向かうけれど、焦点は結ばれない。ただぼんやりと、そこに掲げられた「入学式」という大きな看板と、左右に飾られた生花の白々しいほどの鮮やかさを見つめている。人生で何度目かの、新しい始まりを告げる日。けれど、私の心臓のあたりには、まるで鉛の塊が鎮座しているかのように重く、未来への期待などという軽やかな感情は、一欠片も浮かんでこなかった。

 

私は、今日からこの県立高校の生徒。クラスは1年B組。自己紹介をするなら、いわゆる「陰キャ」というカテゴリーに分類される人間だろう。中学時代は、少ない友人との繋がりを求めてクイズ研究会に所属していた。知識欲は人並み以上にあったつもりだし、ペーパーテストではそれなりの成績を残せた。けれど、致命的な欠点があった。早押しボタンを押す、その瞬間的な判断力と反射神経が、絶望的に鈍かったのだ。頭の中で答えが閃いても、指がボタンに届く前に、いつも他の誰かのランプが点灯した。私のせいで、チームは一度も例会で勝ち残る喜びを味わえなかった。焦りと罪悪感だけが募り、最後は部室に行くことすら苦痛になった。だから、高校では迷わず帰宅部を選んだ。もう、誰かの足を引っ張り、劣等感に苛まれるのはごめんだと思った。

 

私の家族は、少しお調子者で明るい父の隼人(はやと)、しっかり者で優しい母の鈴(すず)、そしてこの春、私と同じように新しい制服に身を包み、中学に入学したばかりの弟、麗音(れおん)。食卓はいつも賑やかで、笑い声が絶えない。けれど、私は幼い頃から、その輪の中心にいるよりも、少し離れた場所で一人、本を読んだり絵を描いたりしている方が落ち着いた。家族が嫌いなわけではない。ただ、自分のペースで、静かに思考を巡らせる時間が必要だった。

 

そういえば、私たちの家族には少し変わった経歴がある。小学校に入学する少し前の4歳から、8歳になるまでの4年間、父の仕事の都合でフランスのパリ近郊に住んでいたのだ。もう7年以上も前のこと。当時の記憶は、古いアルバムの写真のように色褪せて、ほとんど残っていない。セーヌ川の岸辺の風景、アパルトマンの窓から見えたマロニエの並木、パン屋さんの甘い匂い。そんな断片的なイメージが、時折、夢の残滓のように脳裏をよぎるだけ。そして、ふとした瞬間に、懐かしさからか口をついて出るフランス語の単語。「Bonjour」とか「Merci」とか、そんな簡単なものばかりだけれど。遠い日の、朧げな記憶の欠片だ。

 

新しいクラスの名簿が、入学式のしおりと共に配られた。自分の名前を探す。菊池佳音。その響きが、なんだか自分のものではないように感じられる。出席番号は15番。全体としては真ん中より少し前ほどだろうか。指で名前をなぞると、一つ前の14番に「柏木大地(かしわぎ だいち)」という名前があるのが目に入った。男子生徒だろう。知らない名前だ。入学式の間、周囲を見渡してみたけれど、どの顔が柏木大地なのか、見当もつかなかった。きっと、彼も私と同じように、この喧騒の中で息を潜め、目立たないように体育館の隅の方で、硬い床の冷たさに耐えていたのだろう。そんな想像をしてみた。

 

高校生活が始まって、数週間が瞬く間に過ぎ去った。授業のスピードは中学とは比べ物にならないほど速く、予習と復習に追われる毎日。特に数学と物理は、教科書を開いただけで眩暈がしそうだった。それでも、中学時代のクイズ研究会のような、結果を出さなければならないというプレッシャーがない分、精神的には遥かに楽になっていた。昼休みは、いつも一人。賑わう食堂や教室を避け、購買部で買ったメロンパンとパックの牛乳を手に、校舎の隅にある、あまり使われていないベンチに座るのが日課になった。そこからは、中庭で楽しそうに談笑するクラスメイトたちの姿が遠くに見えた。彼らの弾けるような笑い声や、身振り手振りを交えた会話は、まるで遠い異国の出来事のように感じられた。羨ましいとか、輪に入りたいとか、そういう気持ちはもう、あまり湧いてこなかった。ただ、透明な壁一枚を隔てて、違う世界を眺めているような感覚。それが、私の日常だった。

 

何日かが経ったある日の午後、五限目の古典の授業でのことだった。平安時代の流麗な、しかし私にとっては難解な文章が綴られた教科書。うとうとしかけた意識を、先生の凛とした声が引き戻した。

「はい、では次の段落。どなたかに読んでもらいましょうか」

先生は教卓の上で名簿をパラパラとめくりながら、教室全体を見渡した。今日は15日。私の心臓が、不意にドクンと大きく跳ねた。背筋に冷たいものが走り、顔が一気に熱くなるのを感じる。まさか、私が当たるはずがない。そう自分に言い聞かせながらも、無意識のうちに身体は縮こまり、視線は手元の教科書に落ちた。どうか、私の名前が呼ばれませんように。ただひたすらに、そう祈った。教室に満ちる、わずかな緊張感を含んだ静寂が、やけに長く感じられた。

「――では、15番の菊池さん、お願いします」

やはり、というべきか。私の名前が、静かな教室に響き渡った。逃れられない現実を突きつけられ、私は観念して顔を上げた。クラスメイトたちの視線が、一斉に私に集まるのを感じる。それが痛いほどだった。震える手で、教科書の該当箇所を開く。指先が、自分の意思とは関係なく小刻みに震えている。深呼吸を一つ。意を決して、小さな、か細い声で文章を読み始めた。

「む、紫のゆかりを……」

声が、思った以上に掠れて、震えていた。喉がカラカラに渇いている。途中、何度か言葉に詰まり、アクセントがおかしくなり、声が裏返りそうになるのを必死で堪えた。早く終わってほしい。この注目から解放されたい。その一心で、顔を真っ赤にしながら、なんとか最後まで読み終えた。読み終えた瞬間、全身から力が抜けるような感覚と共に、深い安堵感が押し寄せた。

「はい、結構です」

先生の淡々とした声を聞きながら、私は俯き加減に席に戻った。心臓はまだバクバクと音を立てていて、耳鳴りまでしている気がした。

 

席に着き、まだ頬の火照りが引かないのを感じながら、そっと息をついた、その時だった。

「……大丈夫だった?」

小さな声がかけられた。驚いて顔を上げると、そこにいたのは、前の席の男子生徒――柏木大地だった。彼は、少しだけ心配そうな、それでいて優しい眼差しで私を見つめていた。整った顔立ちに、少し癖のある柔らかそうな髪。クラスの中でも目立つタイプではないけれど、清潔感があって、穏やかな雰囲気を纏っている。

「あ、は、はい。すみません、ちょっと、緊張してしまって……」

私の声は、自分でも驚くほど小さく、蚊の鳴くような声だったと思う。彼は、私の返事を聞くと、ふっと表情を和らげた。

「気にしなくていいよ。俺も、ああいうの苦手だし」

そう言って、彼はにかっと笑った。太陽のような、というよりは、曇り空から差し込む柔らかな陽光のような、温かい笑顔だった。そして、すぐに前を向いて、再び授業に意識を戻した。

それが、私と彼、柏木大地が初めて言葉を交わした瞬間だった。ほんの短い、他愛のないやり取り。けれど、私の心の中に、小さな波紋が広がったのを、確かに感じた。

 

その日を境にして、彼は時々、私に話しかけてくれるようになった。授業で配布されたプリントが足りなかった時に「これ、余ってる?」と尋ねてくれたり、私が難しい顔をして数学の問題と睨めっこしていると、「そこ、分からなかったら教えようか?」と声をかけてくれたり。先生が話した面白い雑学を、「今の聞いた? 面白かったね」と共有してくれたりもした。彼は、誰に対しても分け隔てなく接する、明るくて、根っから優しい性格のようだった。彼と話していると、私の周りに張り巡らされていた見えない壁が、少しだけ薄くなるような気がした。心が、ほんの少しだけ軽くなる。そんな感覚があった。

 

でも、同時に、私は彼とこれ以上親しくなるのが怖かった。どうせ、すぐに本当の私――根暗で、反応が鈍くて、つまらない人間に気づいて、彼は離れていってしまうだろう。中学時代の記憶が、苦い後味とともに蘇る。クイズ研究会に入ったばかりの頃、優しく声をかけてくれた先輩や同級生たちがいた。けれど、私が全く早押しで役に立たない、チームの足を引っ張る存在だと分かると、彼らの態度は露骨に変わっていった。視線は冷たくなり、会話も減り、次第に私は部室の中で孤立していった。あの時の、胸が締め付けられるような孤独感と自己嫌悪。私は、もう二度と同じ経験をしたくなかった。だから、柏木くんの優しさを受け止めながらも、心のどこかで壁を作り、一定の距離を保とうとしていた。彼が近づいてくれば来るほど、いつか来るであろう拒絶の瞬間を想像して、怯えていたのだ。

 

季節は移ろい、校庭の桜はすっかり葉桜となり、夏の強い日差しが照りつける日々を経て、やがて秋が深まり始めた。街路樹の葉が、赤や黄色に鮮やかに色づき、空は高く澄み渡るようになった頃。文化祭の準備で、クラス全体がどこか浮き足立っているような雰囲気に包まれていた。そんなある日の放課後、教室で一人、明日の授業の予習をしていると、彼が私の席にやってきた。

「菊池さん、明後日さ、文化祭、一緒に回らない?」

予期せぬ誘いの言葉に、私の思考は一瞬停止した。彼が、私を? 文化祭に? 断る理由は、いくらでも考えられた。人混みは苦手だし、何を話せばいいか分からないし、きっと彼を退屈させてしまう。けれど、彼の少し照れたような、でも真っ直ぐな瞳に見つめられると、断る言葉が出てこなかった。迷った末に、私は小さく頷いた。

「……うん、いいよ」

彼の表情が、ぱっと明るくなったのが分かった。

 

文化祭当日。指定された待ち合わせ場所である校門の前に着くと、彼は少し緊張した面持ちで、そわそわと辺りを見回しながら立っていた。いつもの制服ではなく、ラフなパーカー姿の彼は、少しだけ大人びて見えた。

「ごめん、遅くなった?」

私が声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げて、「ううん、全然。俺も今来たとこ。待ってた」と、いつもの優しい笑顔で笑った。その笑顔に、私の緊張も少しだけ解けていくのを感じた。

 

彼と一緒に回る文化祭は、私が想像していたよりも、ずっとずっと楽しかった。模擬店が立ち並び、食べ物の匂いと生徒たちの熱気が渦巻く喧騒の中を、彼は私の少し前を歩きながら、「あっち、面白そうだよ!」とか「これ、美味しそうじゃない?」と、次々に私を誘ってくれた。お化け屋敷では、本気で怖がる私を見て楽しそうに笑い、射的では見事な腕前を披露して小さな景品を取ってくれた。彼が買ってきた焼きそばやクレープを、「半分こしよう」と言って分けてくれる。彼が屈託なく笑うのを見ていると、私の心も自然と軽やかに弾んでいくのを感じた。いつもは遠い世界のことのように感じていた喧騒が、今日は心地よいBGMのように聞こえた。彼が隣にいるだけで、世界はこんなにも色鮮やかに見えるのかと、驚いていた。

 

あっという間に時間は過ぎ、夕暮れが近づき、文化祭の喧騒も少しずつ落ち着き始めていた。私たちは、校門を出て、家路についた。二人並んで歩く帰り道。西の空が、燃えるようなオレンジ色から、深い紫へと刻一刻と色を変えていく。長く伸びた私たちの影が、アスファルトの上で揺れていた。秋の少し冷たい風が、心地よかった。

「今日、すごく楽しかったね」と、彼が少し名残惜しそうな声で言った。

「うん、本当に。誘ってくれて、ありがとう」と、私も素直な気持ちを伝えた。

しばらく、心地よい沈黙が続いた。靴音だけが、静かな住宅街に響く。やがて、彼が少し照れたように、そして意を決したように口を開いた。

「あのさ、菊池さん……もし、よかったら、なんだけど……また、どこか一緒に行かない?」

私は、彼の言葉に息を呑んだ。また、どこかへ? 私と? まるで、夢を見ているような気分だった。心臓が、期待と不安で大きく波打つ。

「……うん、いいよ」

そう答えるのが、精一杯だった。彼は「本当? よかった!」と、心底嬉しそうな顔で笑った。その笑顔が、夕陽に照らされて、私の胸に焼き付いた。

 

その日から、私たちは少しずつ、けれど確実に、一緒に過ごす時間を増やしていった。放課後、学校の近くにある市立図書館の隅の席で、隣り合って静かに勉強する時間。分からない問題を教え合ったり、休憩時間に他愛のない話をしたり。時には、近くの公園まで足を延ばし、夕暮れの空を眺めながら、ゆっくりと散歩することもあった。ベンチに座って、学校のこと、家族のこと、好きな音楽や本のこと。とりとめもなく話した。彼といると、不思議と私は素の自分でいられるような気がした。中学時代、いつも周りの目を気にして、自分を偽っていた私が、彼の前では、嘘偽りのない、ありのままの自分でいられた。彼もまた、私に心を開いてくれているように感じられた。それは、温かく、穏やかで、かけがえのない時間だった。

 

冬休みに入り、しばらく彼と会えない日々が続いた。クリスマス、年末年始。家族と過ごす時間はそれなりに楽しかったけれど、ふとした瞬間に、彼のことを考えている自分がいた。彼の笑顔、優しい声、一緒に歩いた帰り道の風景。思い出すたびに、胸の奥が少しだけ、きゅっと締め付けられるような、甘酸っぱいような、寂しいような気持ちになった。これが、恋というものなのだろうか。そう思い至った時、自分の変化に少し戸惑った。

 

年が明け、短い冬休みが終わり、3学期が始まった。久しぶりに訪れた教室のドアを開けると、いつもの席に座っていた彼が、私に気づいて笑顔で小さく手を振ってくれた。彼の顔を見た瞬間、胸の奥からじんわりと温かいものが込み上げてくるのを感じた。寂しかった気持ちが、一瞬で吹き飛んでいった。

 

一月も半ばを過ぎ、センター試験を終えた3年生たちが、どこか解放されたような、それでいて緊張感を漂わせているような、そんな空気が学校全体を包んでいた頃。ある日の放課後、帰り支度をしている私に、彼はいつもとは少し違う、真剣な顔つきで話しかけてきた。

「菊池さん、あのさ……ちょっと、君に話しておきたいことがあるんだ」

彼のいつもと違う、改まったような雰囲気に、私の心臓は予感めいたものでドキドキと大きく音を立て始めた。一体、何の話だろう。もしかして、何か良くないことだろうか。不安が胸をよぎる。

彼は少し躊躇うように視線を落とした後、ゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。「あのさ……僕、実は、小学校の時、フランスに住んでたことがあるんだ」

フランス? 彼の口から、思いがけない言葉が飛び出してきて、私は一瞬、その意味をうまく理解できなかった。

「パリの、日本人学校にね。少しだけ通ってたんだ。二年くらいだったかな」

彼の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、バラバラになっていた古い記憶の断片が、突然、カチリと音を立てて繋がった気がした。パリ。日本人学校。彼――大地。まさか。そんな偶然があるだろうか。

「……もしかして……」私は、自分でも信じられないような思いで、震える声で尋ねた。「もしかして、……大地くん……って、あの…え?」

彼は、私の言葉をまるで予想していたかのような顔だ。何かを確信した目で、私を見つめている。

「だよね。なんか聞いたことあると思っていたら!」

「私も、小学校の時、パリに住んでたの! 四歳から八歳まで! 日本人学校に、通ってた!」

堰を切ったように言葉が溢れ出す。彼と私は、顔を見合わせたまま、言葉を失った。信じられないような偶然。まるで、アニメか小説の中の出来事のようだ。体育館の隅で名前を見た時から、心のどこかで感じていた、微かな既視感のようなものの正体が、今、はっきりと分かった気がした。

「まさか……本当だったなんて。菊池さんが……そうか」彼が、まだ信じられないといった表情で言った。「僕、佳音っていう名前の女の子が、同じクラスにいたのを覚えてる。秋生まれで、すごく大人しくて、物静かな子だった。でも、時々、ふっと面白いことを言う、不思議な子だった……」

私の心臓は、早鐘のように激しく脈打っていた。彼の言葉は、間違いなく私のことを指していた。誕生日も、性格も、一致している。七年という長い時を経て、私たちはこんな形で再会を果たしたのだ。あの頃、お互いを何と呼び合っていたのか、どんな話をしたのか、具体的な記憶は曖昧だ。けれど、確かに、私たちは同じ時間を、同じ場所で過ごしていたのだ。

 

その日から、私たち二人の関係は、まるで失われたパズルの最後のピースがぴたりと嵌まったかのように、急速に、そして深く、親密になっていった。フランスでの朧げな思い出を、互いに持ち寄って語り合った。彼が覚えていた些細なエピソード、私が微かに記憶していた風景。それらを繋ぎ合わせる作業は、まるで宝探しのように、エキサイティングで、そしてどこか切ないものだった。彼が、あの頃、校庭の隅で一人で本を読んでいた私に、時々声をかけてくれた男の子だったこと。私が、彼の描いた絵を褒めたことがあったこと。そんな小さな記憶の欠片たちが、私たちの間に新たな、そして特別な絆を紡いでいった。彼こそが、私が心のどこかでずっと探し続けていた、遠い日の温かい記憶の持ち主だったのだと、確信した。

 

2月に入り、街が少しずつ浮き足立ち始める頃。バレンタインデーが近づいてきた。私は、彼にチョコレートを渡したい、と強く思った。生まれて初めての経験だった。どんなチョコレートがいいだろうか。手作りか、それともお店で買うか。何日も悩み、デパートのチョコレート売り場を何度も見て回り、ようやく、小さな、でも心を込めて選んだチョコレートを用意した。当日、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張しながら、放課後の教室で、二人きりになったタイミングを見計らって、彼にそれを差し出した。

「あの、これ……よかったら……」

彼は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに顔を輝かせ、とても嬉しそうに受け取ってくれた。「ありがとう、菊池さん! すごく嬉しい!」

その屈託のない笑顔を見た時、私は、自分が柏木大地という人間を、どうしようもなく好きになってしまったのだと、はっきりと、そして改めて気づいた。胸の中に、温かくて、甘くて、少しだけ切ない感情が、いっぱいに広がっていった。

 

けれど、そんな風に色づき始めたばかりの幸せな時間は、長くは続かなかった。

 

3月に入り、卒業式が終わり、先輩たちが学び舎を巣立っていくと、学校は少しだけ寂しい雰囲気に包まれた。そして、すぐに春休みが始まった。高校2年生に進級すれば、クラスも離れてしまうかもしれない。そんな一抹の不安を感じながらも、また彼と会えなくなる春休みを、少しだけ寂しく思っていた。

 

春休みに入ってしばらく経った、よく晴れた、穏やかな日の午後だった。家のリビングで、窓から差し込む柔らかな日差しを浴びながら本を読んでいると、携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示されたのは、「柏木大地」の名前。胸が小さくときめいた。けれど、電話に出た瞬間、聞こえてきた彼の声は、いつもの明るいトーンではなく、どこか沈んでいて、張り詰めているように感じられた。

「……菊池さん、あのさ……急な話で、本当に申し訳ないんだけど……」

彼の言葉の端々に、言い難そうな響きが滲んでいた。嫌な予感が、私の背筋を冷たくした。

「……実は、俺……引っ越すことになったんだ」

彼の言葉が、私の耳に、そして心に、鈍い痛みとともに突き刺さった。引っ越す? どこへ? どうして?

「父さんの仕事の関係で、本当に急に決まって……。来週には、もうこっちにはいないんだ」

頭の中が、一瞬で真っ白になった。嘘だと言ってほしい。冗談だよ、と笑ってほしい。彼がいない学校生活なんて、彼がいない毎日なんて、もう考えられない。

「……どこ、へ行くの?」

私の声は、自分でも分かるほど震えていた。涙が、視界を滲ませ始めていた。

「……うん、それが……結構、遠いところなんだ。だから、たぶん、もう、しばらくは会えないと思う」

電話の向こうで、彼の声が、かすかに震えたように聞こえた。私も、次の言葉が出てこなかった。ただ、受話器を握りしめる手に、力がこもる。さよならを言うには、あまりにも突然すぎた。

 

それから数日後、彼は本当に、私の前からいなくなってしまった。あっけないほど、静かに。最後に少しだけ話したけれど、何を話したのか、よく覚えていない。ただ、彼の困ったような、悲しそうな笑顔だけが、目に焼き付いている。

 

春休みが明け、高校2年生としての新しい日々が始まった。新しいクラス、新しいクラスメイト。けれど、私の心は、まだ春休みの、あの電話の瞬間に取り残されたままだった。彼のいなくなった教室は、やけに広く、がらんとして感じられた。彼の座っていた席――私の隣の席――は、今は別の生徒が座っている。けれど、私の目には、そこだけがぽっかりと空いた、空虚なスペースのように映った。ただ、冷たい空気が、その場所を漂っているだけのように。

 

私は、来る日も来る日も、彼のことを考えた。楽しかった文化祭のこと。一緒に笑ったこと、少しだけ触れた指先の温かさ。一緒に勉強した図書館の、静かな空気と古い本の匂い。二人で並んで歩いた、夕焼けに染まる帰り道。彼の優しい声、はにかんだような笑顔、時折見せる真剣な眼差し。それらは全て、遠い日の幻のように、私の心の中で繰り返し再生された。けれど、時が経つにつれて、その記憶の輪郭は少しずつぼやけていき、鮮やかだったはずの色も、セピア色へと褪せていくような気がした。それが、たまらなく寂しかった。

 

春が過ぎ、蝉の声が喧しい夏が過ぎ、そして、また秋が来た。私は十六歳になった。ちょうど一年前の秋に、私たちは初めて言葉を交わし、文化祭で距離を縮めた。そして、また同じ季節が巡ってきた今、彼はもう、私の隣にはいない。空の高さと、舞い散る落ち葉が、彼の不在を一層際立たせた。

 

高校二年生になり、新しいクラスにも少しずつ慣れてはきた。けれど、彼のことを忘れることは、一日たりともできなかった。授業中、ふとした瞬間に彼の面影を探してしまう。昼休み、一人でパンを齧りながら、彼と一緒に過ごした短い時間を思い出しては、胸が締め付けられるような、鈍い痛みに襲われた。新しい友人を作ろうという気力も湧かず、私は再び、自分の殻に閉じこもるようになっていった。

 

やがて冬が来て、街はクリスマスイルミネーションで煌びやかに飾られた。楽しそうなカップルや家族連れで賑わう街の喧騒の中、私は一人、部屋の窓から冷たい夜空を見上げた。星が瞬く、遠い空の下で、彼は今、何をしているのだろうか。私のことを、少しでも思い出してくれたりするのだろうか。そんな叶わぬ問いかけだけが、虚しく宙に響いた。

 

年が明け、また新しい年が始まった。気がつけば、私は高校3年生になっていた。大学受験を控え、周囲は一気に受験モードに突入し、毎日が模試と参考書との戦いだ。私も、目の前の課題をこなすことに必死だった。忙しさが、少しだけ彼のことを考える時間を減らしてくれたかもしれない。それでも、心の奥底にある、彼への想いが完全に消え去ることはなかった。それは、癒えることのない傷跡のように、私の内に残り続けていた。

 

そして、卒業式の日がやってきた。3年間通った学び舎との別れの日。体育館で歌う校歌は、入学式の時とは違う、感傷的な響きを帯びていた。式が終わり、クラスでの最後のホームルームを終え、私は一人、校門を出た。空は、まるで私の心を映し出すかのように、重く、冷たい鉛色に曇っていた。友人たちと別れの挨拶を交わすこともせず、足早に家路についた。

 

自分の部屋に戻り、制服のままベッドに倒れ込むと、ずっと堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。もう二度と、彼に会うことはないのかもしれない。あの時、彼ともっとたくさんの言葉を交わしておけばよかった。自分の気持ちを、ちゃんと伝えておけばよかった。もっと、彼のことを知っておけばよかった。後悔ばかりが、波のように押し寄せてきて、私の心を締め付ける。彼のいない未来を、どう生きていけばいいのか分からなかった。

 

涙で濡れた枕に顔を埋めていると、ふと、本棚の隅に置かれたままになっていた、中学時代に使っていたクイズ研究会のノートが目に入った。埃を被ったそのノートを、何気なく手に取って開いてみる。そこには、色褪せたインクで、様々なクイズの問題や解答、部室で先輩が話していた雑学、そして、いくつかの格言のようなものが書き込まれていた。その中に、以前、授業か何かで知って、特に意味も考えずに書き写したであろう、フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルの言葉が記されていた。

 

「On n'aime bien qu'une fois, c'est la première.」

(人はただ一度だけ、本当に愛することができる。それは、最初の愛である。)

 

かつて、この言葉の意味を深く考えたことはなかった。数ある格言の一つとして、ただノートの片隅に書き留めただけだった。

でも、今なら。柏木大地と出会い、彼を想い、そして失った今なら、この言葉の意味が、痛いほどよく分かる。

 

私たちは、人生でただ一度だけ、純粋に、全身全霊で、誰かを本当に愛することができるのかもしれない。それは、汚れを知らない、最初の恋。初めて誰かを好きになった時の、あの胸を高鳴らせるような甘美な感覚、相手のことを考えるだけで世界が輝いて見えるような、あの抗えないほどの強い引力。それは、人生で一度しか経験できない、二度とは戻らない、特別な感情なのだ。

 

私にとって、柏木大地が、その「最初の人」だったのだ。彼と出会い、共に過ごした時間は、短かったけれど、私の灰色だった世界に、鮮やかな色彩を与えてくれた。私の人生の中で、最も輝いていた時間だった。彼の優しさ、彼の明るさ、彼の笑顔。それらは全て、私の心の一番深い場所に、消えない陽だまりのように、温かく刻まれている。

 

きっと、もう二度と、彼のような人を好きになることはないだろう。あの時感じた、胸が張り裂けそうなほどの喜びも、切なさも、愛しさも。あの感情の全ては、私にとって、最初で、そしておそらく、最後のものだったのだから。

 

窓の外の鉛色の空を見上げながら、私は、静かに涙を流し続けた。私の心は、永遠に、あの短い春の日の、彼との出会いと別れの記憶の中に、閉じ込められてしまったのだ。まるで時間が止まってしまったかのように。そして、これからもずっと、あの遠い日の残響を胸に抱きながら、生きていくのだろう。

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Memoria 椿谷零 @tubakiyarei155

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