第22話 またね

 現在時刻は、午前十時半。


 ついに、ひーちゃんがホテルへ戻る時間が来てしまった。

 長いようで、でも振り返ってみればあっという間で――それでいて、濃密なひとときだった。


 ひーちゃんはコートに袖を通し、玄関先で靴を履く。


 帰りは、彼女のマネージャーさんが車で迎えに来てくれるらしい。

 昨日、ひーちゃんがここへ来たのはすでに日も沈んだ後で、人目を気にする必要はほとんどなかったけれど、今はもう明るい時間帯だ。

 彼女の立場を思えば、車での移動がいちばん安全だろう。


 「それじゃあ……また、しばらくお別れだね」


 「うん。でも、ひーちゃんと久しぶりに一緒に過ごせて、本当に嬉しかったよ」


 「私も。たけくんと一緒にいられて、すごく楽しかった。特に、あのだし巻き卵。久しぶりに食べたけど、感動ものだったよ。たけくんの手料理、またしばらくはお預けか〜」


 「次会うときまでに、もっと腕を上げておくから。期待しててね」


 「うん、楽しみにしてる! あっ、でもね……料理だけじゃなくて、ゲームの腕も上げといて?」


 「ハハ、それも精進しておきます……」


 さっきまでふたりでやっていたゲーム――昨日に引き続き対戦形式のものだったけど、僕は一度も勝てなかった。

 善戦はするのに、最後の最後でひーちゃんにうまく逃げ切られてしまうのだ。


 次に会うときには、せめて五戦中二勝くらいはできるようになっていたいものである。

 そう思っていたそのとき――


 ピロン、と通知音が鳴った。


 ひーちゃんがスマホを取り出して画面を確認する。


 「……あ、マネージャーだ。もう着いてるみたい。マンションの前で待ってるって。すぐに出られる状態だってさ」


 「そっか……」


 このお別れを最後に、次にひーちゃんに会えるのは――三年後。

 恋人として、ようやく一歩を踏み出したばかりなのに、また長い時間を隔てることになる。


 当然寂しい気持ちはある。

 でも、それを表情や言葉にして伝えて、しめったい空気にはしたくなかった。

 だから、僕は寂しさを飲み込んで笑って見送る。


 ついでにいうなら、しめったい空気を出してお別れをしておきながら、後日、普通にビデオ電話で会話をするのは恥ずかしいという気持ちもあった。


 「三年後にまた一緒に過ごせる日、楽しみにしているよ」


 「うん、私も。離れてる間に浮気したらダメだよ?」


 「勿論しないよ。それをいうならひーちゃんこそ、向こうでスペックの高い俳優と演じてるうちに、本当に恋に落ちたとかやめてね?」


 「そんなベタベタな展開はおきないよ。私の恋人はたけくんだけ。これは絶対」


 「僕も。ひーちゃん以外を好きになることはないよ」


 最後に冗談を交えながら、お互いの気持ちを再確認する。

 ひーちゃんは僕の言葉に満足そうに頷き、そのまま玄関のドアへと向かう。

 ひーちゃんは玄関のドアに手をかける。

 しかし、そこでぴたりと手が止まった。

 そして、何かを思い出したようにくるりと僕の方へと戻ってきて――


 「ん」


 「……!」


 不意に、僕の唇にそっとキスを落とす。


 「ひーちゃん……今のは……?」


 「ん、最後に、ね。……しばらく会えなくなるから」


 彼女は少しだけ照れくさそうに微笑んで、くるりと背を向けた。

 そして、


 「それじゃあね。バイバイ。たけくん」


 「う、うん。またね。ひーちゃん」


 ひーちゃんは背を向けたまま、僕に手を振って次こそ玄関を出ていったのだった。



 ――静かになった。


 ひーちゃんが帰っていった。

 つまり、いつもの日常が戻ってきたということだ。


 だけど、玄関のドアを閉めてリビングに戻った僕を迎えたのは、どこか空っぽになったような空気だった。


 ほんの一日――それだけの短い時間だったのに、ひーちゃんと過ごした時間は、あまりにも濃密で、あたたかくて。


 その分だけ、いつもの日常が急に色あせて見えてしまう。


 誰もいないリビング。

 さっきまで並んで座っていたソファ。

 洗い物のないキッチン。

 テレビ前に置かれているゲームのコントローラー。


 一人暮らしを始めて半年。

 過ごし慣れた筈の空間に、これまで感じたことのなかったぽっかりとした孤独が広がっていた。


 「ハァ。こうして一人になるとやっぱり寂しいなぁ。」


 誰もいない部屋で僕はそうポツリと呟く。


 僕は寂しさを埋めるためにすぐにでもひーちゃんにスマホで連絡を取りたい衝動に駆られたが、サヨナラをして、まだ5分となってもいないのに、もう連絡したとあっては、流石にドンびかれるだろう。

 それに、


 「こんな情けない感傷に浸ってるってひーちゃんに知られたくないしなー」


 別れた途端、急に寂しくなったなんて、恥ずかしくてとてもひーちゃんに言えるものではない。


 なのでここは連絡を取るのを我慢する。


 「……ひーちゃんは今どんな気持ちを何だろう。」


 現在、僕自身は虚無感と孤独感に苛まれてしまっている。

 故に、ひーちゃんの方は現在どう思っているのかがふと気になった。


 思い出すのはつい先ほどのひーちゃんの様子

 玄関での別れ際、ひーちゃんは特段何か変わった様子はなくいつも通りの明るいひーちゃんであった。


 僕はひーちゃんは毅然としていて、多少のことでは揺らがない凄く強い心を持っている反面、精神面で脆く、弱い部分もあるのを知っている。


 現在、ひーちゃんは、寂しさを抱えながらも、すでに気持ちを切り替えて、女優として前を向いているかもしれない。

 あるいは、僕と同じように――今ごろ、ひとりになって寂しさに耐えているのかもしれない。


 結局のところ、彼女の今の気持ちなんて、想像するしかできない。


 ……でも、もしもひーちゃんがすでに前を向いているのだとしたら、僕ばかりが沈んでいるわけにはいかない。


 「……落ち込んでても仕方ないか。こんなときこそ、掃除でもして気分を切り替えよう」


 寂しくはあるが、だからといっていつまでも気持ちを沈めていてもなにも好転はしないのだ。

 だったら、今出来ることをして過ごし、この寂しはを紛らわせた方がいいに決まっている。


 僕はそう思い、部屋の掃除に取り掛かるのであった。



 ――ブゥゥン。


 一方その頃。


 マネージャーが運転する車の助手席。

 そこに光は座っていた。


 武は、光が既に前を向いているかもしれないし、あるいは、自分と同じように寂しさを抱えているかもしれないと両方の可能性を考えていた。


 その答えは、静かな車内に響いたひとつの音で、明らかになる。


 「……ぐすん……」


 小さな、でも確かなすすり泣き。

 その声が、彼女の本音を物語っていた。


 そう。

 玄関先でのあの明るい笑顔は、武を安心させるための演技だったのだ。


 本当は――寂しくて、悲しくて、たまらなかったのである。


 「……離れたくないよぉ……。寂しいよぉ……。ヒック……たけくんのとこに戻りたいよぉ……」


 押し込めていた感情が、堰を切ったようにこぼれ出す。


 キスをして、背を向けたあの瞬間、すでに彼女の目には涙が溜まっていた。

 けれど武に気づかせるわけにはいかなかった。

 泣けば、武を困らせてしまうと思ったから。


 だから彼女は、最後まで笑顔でいつも通りの光を演じ切ったのだ。


 「……はぁ」


 助手席から漏れるすすり泣きを横目に、ハンドルを握る女性がひとり。

 あきれたようなため息をつきながら、口を開いた。


 「……いつまで泣いてるのよ。ほら、しゃんとしなさい」


 それは光の専属マネージャー、リリィ・スミス。

 光が現在の芸能事務所に入ったときからずっと傍にいる、海外でただ一人、「素の光」を見せる事ができる人物である。


 「だって……無理だよぉ……。たけくんのいない日常なんて、もう戻れないよぉ……」


 気を張る必要のない相手だからこそ、光は今、弱音を隠さない。

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、どうしようもない気持ちを吐き出す。


 そんな光の様子に、リリィは肩をすくめて言った。


 「後生の別れってわけじゃないでしょ。連絡くらい、スマホで取れるんだし」


 「それじゃ足りないのっ! スマホじゃ、埋まらないの……っ! そういうの、いっぱいあるの!」


 「たとえば?」


 「……一緒にご飯食べたり……お出かけしたり……ゲームしたり……」


 「一緒にお風呂入ったり、一緒に寝たり?」


 「そういうのも……って、なに言ってるのよリリィ!」


 顔を真っ赤にして、光はぷるぷる震えながら、運転席のリリィの肩を軽くぽかぽか叩いた。


 「こらこら。運転の邪魔しないで。タダでさえ、日本の右ハンドル、慣れてないんだから」


 「それはリリィが変なこと言うからでしょっ! 全くもうっ。」


 むすっとした顔で頬を膨らませながら、光は助手席にあったお茶のペットボトルを手に取り、口に運ぶ。


 だが、その直後――不意打ちのひと言が飛んできた。


 「そういえば、告白はうまくいったのよね? で、昨日は早速もうそのたけくんと“シた”の?」


 「ぶっ!! けほっ、こほっ!!」


 光は勢いよくお茶を吹き出し、思わずむせた。肩を上下させながら何度も咳き込み、目を見開いてリリィを睨む。


 「な、なに言ってるのよリリィ!? そういうのは、空気を読んで聞かないのがマナーでしょっ!」


 「?アナタこそ何言ってるの?空気は読めないでしょ?」


 「そういう意味じゃないのっ! それは、例えっていうか、比喩っていうか……ああもう!」


 言語の違いに頭を抱えたくなる瞬間であった。


 「一応言っておくけど、これは事務所的に必要な確認よ。恋人との関係がどこまで進んでるか、ちゃんと把握しておかないといけないから。アナタ、うちの看板女優なんだし。ウソはダメよ」


 「……うぅ」


 事務所が持ち出されたら、光も反抗できない。

 光は視線を逸らし、悔しそうに小さく唇を噛んだむと――


 「……ました……」


 「え? 聞こえなかった」


 「……しました……」


 「もっと声を張ってくれない?」


 「しましたって言ったのっ! もう! これで満足でしょ!?」


 完全にヤケになって、光は顔を真っ赤にしながら叫んだ。


 その頬は、羞恥の熱で今にも蒸気を噴き出しそうなほど火照っていた。


 「へぇ~、ヒカル、したんだ。ねぇ、どっちから誘ったの?」


 そんな光にさらに深掘りをするリリィ。


 「それは――って、何でそんな事まで教えないといけないのよ!流石にそこまで事務所に言う必要はないでしょ!?」


 一瞬、言いかけたが、ハッとなって慌てて踏みとどまり、抗議する光

 そんな光に対してリリィは、更に、サラッと爆弾を落とす。


 「事務所ってのはウソよ」


 「……は?」


 思わず固まる光。

 何を言ってるのか分からないと言った様子だ。


 しかし、当然だろう。

 事務所的に恋人との関係の進捗の報告が必要というから羞恥の感情を堪えて答えたのに、それがウソだったというのだから。


 「常識的に考えて、いくら事務所でもそんなセイシティブな所まで聞かないって分かるでしょ。そこに気づかないなんて、メンタル不調で頭が回ってない証拠ね」


 しかし、リリィはそんな呆然とする光に平然とそう言ってのける。


 数秒後、ようやく光は我に帰る


 「え、ち、ちょっと待って。リ、リリィ!いくら何でもやっていい事と悪い事があるよ!?今のは完全に人としてやったらダメなやつだよ!」


 光はリリィが運転中だという事を忘れて、ユサユサと体を強く揺さぶる。


 だがリリィは、特に慌てた様子もなく、

冷静に言い放つ。


 「やめときなさい。これで事故にでもなったら、損するのは私より圧倒的にあなたの方よ。恋人ができた次の日に運転妨害で警察に連行されたいの?たけくんに手錠姿、見せる気?」


 「何マトモなことを言ってるのよ!?倫理観のかけ離れた最低な事をしたクセに!!」


 全く悪気を見せず、真顔で嗜めてくるリリィにさらに頭に血が上るが、確かに運転手の運転の妨害をするのは危ないので、光は仕方なくリリィから手を離す。


 「まあ、ウソをついたのは謝るわ。でも、さっきのどんよりした空気は晴れたでしょ? 少しは元気、出てきたんじゃない?」


 「……なに? 私の元気を出すためにしたって言いたいの?」


 「そうよ。まあ、98%は私の好奇心だけど」


 「私のための部分、2%しかないじゃん!? それって“私のため”って言えるの!?」


 「動機がどうであれ、結果として涙が引っ込んでるんだから、アナタのためになってるのよ。それに、私がいなかったら、寂しさに耐えきれなくなって、即たけくんに電話して“重い”って引かれるルート一直線だったわよ。その未来を回避させてあげたんだから感謝しなさい」


 「あんなウソついといて、よくそんな事言えるよね!?あと、さっきから気になってたんだけど、何ナチュラルに“たけくん”呼びしてるの?」


 「ダメなの?」


 「当たり前だよ! たけくんに“たけくん”って呼んでいいのは、私だけなのっ! リリィは言ったらダメ!」


 「……はぁ。ほんと、めんどくさい子」


 「なによーっ! もうリリィなんて知らないっ!」


 光は頬を膨らませてぷいっと顔を背け、不貞腐れたように窓の外を見つめる。


 リリィはそんな光を横目で見ながらも、特に気にする様子もなく、車をホテルへと走らせた。


 ――たわいもないやりとりであった。


 けれど。


 光の胸の奥にあった寂しさは、確かに、ほんの少しだけ、薄らいでいたのだった。



~~~~~~~~あとがき~~~~~~~~


 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます!


 投稿か遅れてすいません。

 ドラクエXIにメッチャハマってました。

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