第18話 ストラップの意味

 現在の時刻は、深夜0時。


 恋人同士となった僕とひーちゃんは、寄り添うように抱き合ったまま、静かに10分ほどの時間を過ごしていた。


 互いの体温と鼓動を感じながら、ぬくもりを分け合う――そんな、幸せで、どこか夢のようなひととき。


 けれど、10分も経つ頃には、さすがに僕の心も落ち着きを失ってきていた。


 「ひーちゃん……そろそろ、離れてもらってもいいかな?」


 そう切り出すと、ひーちゃんは小さく首を傾げる。


 「え?どうして?」


 「い、いや……その、もう結構長く抱き合ってて……なんか今になって、緊張してきちゃって」


 最初は、ただただ嬉しかった。

 ひーちゃんの気持ちがまっすぐに伝わってきて、僕も自然と腕を回した。

 でも今は――そのぬくもりがあまりにもリアルすぎて、心の中がどんどんざわついていく。


 特に、ひーちゃんの豊かで柔らかな胸元が、ちょうど僕の胸下あたりに触れていて……。

 気を抜いたら、変なことを考えてしまいそうで、心拍数がまるで落ち着かないのだ。


 僕の言葉を聞いたひーちゃんは、ふいに僕の胸元に顔を寄せて、耳をぴたりと当ててきた。


 「ふふっ。……ホントだ。たけくんの心臓、すごいね。ドクンドクン鳴ってる」


 「で、でしょ? だから、お願いだからちょっと距離を――」


 僕が懇願するように言いかけたその瞬間――

 ひーちゃんがニヤリと笑って、いたずらっぽい声を弾ませた。


 「えいっ!」


 ガバッ。


 離れるどころか、さっきよりも強く、勢いよく僕にしがみついてくる。


 「ひ、ひーちゃん!?」


 柔らかな感触が、先ほど以上に濃密に僕を包み込む。

 理性のブレーキが、各所で悲鳴をあげているのがはっきりと分かった。


 「だーめ。せっかく、たけくんの鼓動――つまり、たけくんが私を“異性”として意識してくれてるって証拠が、こんなに近くで伝わってきてるんだもん。もうちょっとだけ、このままでいさせて?」


 「ま、待ってって……! こ、これはさすがに、色々と……色々とまずいって……!」


 僕が慌てて声を上げても、ひーちゃんはまるで気にした様子もなく、にこにこと笑みを浮かべたまま、僕の顔をじっと見つめてくる。


 「ふふっ。たけくんが照れてるの、すっごく可愛い」


 その笑顔は無邪気で、だけど確かに、恋人としての熱を帯びていた。


 そして――ひーちゃんはゆっくりと身体の位置をずらすと、そっと僕の耳元へ顔を寄せてきた。

 そのまま、甘く、囁くように語りかけてくる。


 「一人暮らしには、もう慣れてきたけど……それでもね、私、ずっと“たけくん不足”だったんだよ? せっかく恋人になれたんだもん。もっと……たけくんを感じさせて?」


 囁くような声が、耳元でそっと響く。

 優しく、柔らかくて、まるで心を溶かすみたいな音色だった。


 その吐息がほんのりと肌に触れた瞬間――

 僕の背筋に電流が走ったみたいに、全身がびりびりと痺れた。


 ……ヤバい。


 久しぶりの再会、そして恋人という新しい関係性。

 そのすべてが、ひーちゃんの理性のブレーキを緩ませてしまったのだろう。


 今のひーちゃんは、完全に“攻め”の姿勢だった。


 そして僕もまた、そんな彼女を前に――

 必死に心の中の衝動を押しとどめているけれど、いつまで持ちこたえられるか分からない。


 このままじゃ、冷静さを保てなくなる。


 なんとか頭を冷やさなきゃ……。


 そう思って、僕は意識的に話題を逸らすように、気になっていたことを口にする。


 「そ、そういえば……ひーちゃん。僕たち、恋人になったのはいいけど……このこと、世間にはどうする? 公表するの? それとも、秘密にするの?」


 タイミングとしては、少し空気を壊すような気もしたけれど――、とにかく今は、心を落ち着かせる時間が欲しかったし、実際に、大事な事ではあるので、僕はここで、聞いてみたのだ。


 僕の問いかけに、ひーちゃんは僕に絡めた腕を解くことなく、静かに口を開く。


 「うーん……私はね、たけくんの名前は伏せて、“一般男性と交際中”っていう形で、公表しようと思ってるんだけど、それで、いいかな?」


 「うん、僕は全然構わないよ。けど……それ、大丈夫? ひーちゃん自身が、いろいろと大変なことになったりしない?」


 ――あのとき。

 ひーちゃんが、僕のプロポーズを受け入れてくれた瞬間は、ただただ嬉しくて。

 その先のことなんて、何も考えられなかった。


 けれど今、冷静になって考えてみると――僕は、世界的に大人気な女優と恋人になったのだ。


 流石の僕でも、それがどれほど重大なことなのかは理解している。

 もし、僕たちの関係が世間に知られたら……きっと、大きな騒ぎになる。

 過激なファンが現れるかもしれないし、ひーちゃんに心無い言葉が向けられることだってあるかもしれない。


 そう思うと、胸の奥にじわじわと不安が広がっていった。


 だけど、そんな僕の不安をよそに、ひーちゃんは肩の力を抜いたように、軽やかな声で笑った。


 「大丈夫だよ。確かに、最初は騒がれるかもしれないけど……そういうのって、時間が経てばいずれ落ち着くものだから。それにね、こそこそ隠れて付き合ってて、何かのきっかけでマスコミにバレちゃう方が、よっぽど面倒だもん。

 世間に知られるにしても、“自分の口”から言うのと、“誰かに暴かれる”のとじゃ、世間の受け取り方は全然違うから。だったら、最初から私の言葉で伝えたほうが、誤解も少なくて済むと思うんだ」


 「……なるほど」


 さすが、ひーちゃんだ。

 芸能界の最前線で戦っているだけあって、僕なんかよりずっと、その辺りの事情を心得ている。


 でも――それでもなお、不安の影は胸の奥に残ったままだった。


 「でも……その“最初の騒ぎ”って、きっと相当大きくなるよね? だって、ひーちゃんの人気、物凄いし……」


 確かに、彼女の言う通り、時間が経てば人の関心は薄れるのだろう。

 けれど、その“落ち着くまでの間”に彼女へ向けられる膨大な注目――それが、良い意味であれ悪い意味であれ、彼女を傷つけないかと考えると、どうしても安心しきれなかった。


 しかし、そんな僕の表情を見て、ひーちゃんはくすっと微笑んだ。


 「心配しないで。私、事前にちゃんと布石は打ってあるから」


 「ん? 布石?」


 首を傾げる僕に、ひーちゃんはそっと手を伸ばし、近くに置いてあったスマホを手に取った。

 そして、その背面をこちらに向けて見せてくる。


 「これだよ」


 「……それ、僕があげたストラップだよね?」


 ひーちゃんが見せたのは、あの時――彼女が海外へ旅立つ直前に僕がプレゼントした、ペアルックのストラップだった。


 なぜ今、そのストラップが話に出てくるのか。

 公表の話と、これがどう繋がるのかが見えず、僕の頭には?が浮かんでいた。


 「私ね、このストラップ……女優としてデビューしてからずっと、スマホにつけてるんだ。……なんでだと思う?」


 「え、いや、それは……」


 突然の問いに、僕は戸惑い、答えることができなかった。

 けれど、ひーちゃんは僕の答えを待たず、そのまま話を続けた。


 「ひとつはね、たけくんとの繋がりを、いつも感じていたかったから。

 これがあると、どんなに離れていても、たけくんがすぐ近くにいるような気がして……。たけくんと連絡を取れない日でも、このストラップを見るだけで、私は元気をもらえてたんだ」


 「……!」


 胸が、じんと熱くなる。

 そんな思いで、ずっと持ち続けてくれていたなんて。

 嬉しくて、言葉が出なかった。


 でも、それと同時に僕には、それがどう“布石”に繋がるのか、まだ分からなかった。


 そんな僕の心の動きを見透かしたかのように、ひーちゃんは続けて語る。


 「そして、もう一つ。こっちが布石に掛かってくるやつなんだけどね、実はね、このストラップには、“匂わせ”って意味も込めてたの」


 「匂わせ……?」


 意味がつかめず、思わず聞き返してしまう。

 すると、ひーちゃんはいたずらっぽく笑って、説明してくれた。


 「たとえばね、私が“清楚系で恋愛経験ゼロ”みたいなイメージで売ってたとするでしょ? そんな中で突然“彼氏がいます”なんて公表したら……絶対に大騒ぎになるし、きっと批判もされると思う。

 でもね、私はデビュー当時からこのストラップをずっとつけてきたの。“もしかして、誰か特別な人がいるのかも?”って、ファンの人たちに自然とそう思わせるように。少しずつ、そういう空気を作ってきたんだ。」


 「!」


 「だから、公表したら確かに話題にはなると思う。でもね、“ファンを裏切った”とか“信じてたのに……”なんて、炎上にはあまりならないと思うんだ。むしろ、“やっぱりいたんだ”って、納得してくれる人の方が多いはず。だって、みんな、私に彼氏がいるかもしれないって可能性を含めた上で、応援してくれてるんだから」


 ――だから安心して、

 と、ひーちゃんはそう言った。


 なるほど。

 確かに、そういった準備をしてきていたのなら、ひーちゃんが過剰に批判されるようなことは、起こらないだろう。


 けれど、その安心感とは別に僕は驚きの感情が湧き上がってきていた。

 何故なら、


 「え、でもひーちゃん……今、“デビュー当時から”って言ったよね?ってことは……もしかして、こうなることを、最初から見越してたの?」


 それである。

 たった今、恋人にばかりなのに、ひーちゃんは四年半前から布石を打っていたと言うのだから、どれだけ先も見ているのかと、僕は驚愕したのだ。


 そして、そんな、驚きを隠せない僕に、ひーちゃんは平然と――むしろ、当たり前のように言った。


 「うん、そうだよ? だって、そもそも――たけくんと恋人になるために、私は“たけくんから一度離れる”って選んだんだもん。だったら、何年先かは分からなくても、恋人になった後のことをちゃんと考えておくのは当然でしょ?」


 「……」


 なんというか――もう、さすがとしか言いようがない。


 だって僕は、ひーちゃんにストラップを事前に渡すと伝えていたわけじゃない。

 あれは、渡航直前に、サプライズで渡したものなのだ。

 それなのにひーちゃんは、そのペアルックのストラップに特別な意味を見出して、しかもそれを、長い時間をかけてしっかり“活用”していたというのだ。

 僕は驚きを通り越して、ただただ感心するしかなかった。


 そんな僕にひーちゃんは嬉しそうな声で言う。


 「でも私、嬉しいの。今までは、このストラップを、さっき言った二つの意味――“たけくんとの繋がり”と、“彼氏がいるかもと匂わせるため”っていう意味で持ってたんだけど……。これからは、やっと“本来の意味”で持てるんだから」


 「――あ、確かに。そうだね」


 言われて、気付く。

 ひーちゃんの言う通りである。


 これまでは、“恋人じゃない”からこそ、ひーちゃんはこのストラップを“それっぽく見せるため”に使っていた。

 でも今は違う。


 今、僕たちは本当に恋人になった。


 そして、恋人になったその瞬間、このペアルックのストラップは――やっと、本物の“恋人の証”になったのだ。


 「旅立つ直前に、たけくんがくれたこのストラップが……恋人としての、私たちの最初の証になるんだよ? なんか、ちょっとロマンチックじゃない?」


 ひーちゃんは照れたように微笑みながら、自分のスマホについたストラップをそっと撫でた。


 「うん。ほんとにそうだね。それなら……これからは、少しずつ“恋人としての証”を増やしていかないとね」


 「え?」


 目を丸くするひーちゃんに、僕は少しだけ気恥ずかしさをこらえながら、言葉を続ける。


 「ひーちゃんは、世界中を飛び回ってるし、仕事も忙しいし……正直、恋人として過ごせる時間は、すごく限られてると思う。全然、会えない日も多いよね?」


 それでも――。


 「でも、その少ない時間の中で、たくさん思い出を作っていきたい。恋人らしいことも、いっぱいしたい。……今まで、ひーちゃんの気持ちに気づけなかったぶん、これからは僕の方から、ちゃんと証を積み重ねていきたいんだ」


 言いながら、顔がじんわり熱くなるのを感じた。


 正直、“恋人らしいこと”って何なのか、まだ明確には分かってない。

 でも――そうなりたい、という気持ちは確かだった。


 僕は、そんな気持ちを包み隠さず伝えた。



 ……だけど、それが間違いだった。


 僕の真っ直ぐな告白を聞いたひーちゃんは、一瞬ポカンとして、それから次にはにっこりと微笑んだ。


 そして――


 「じゃあ――さっそく、作ってみよっか。“恋人の証”」


 「……え?」


 次の瞬間、ひーちゃんは僕に絡めていた腕をそっと解き、するりと体勢を変えて――僕の上に、馬乗りになった。


 「え?ちょ、ちょっと待って、ひーちゃん!?」


 僕が慌てて声を上げると、ひーちゃんは顔をぐっと近づけてきて、耳元に甘く囁く。


 「たけくんが悪いんだよ?そんなこと言われたら……我慢なんて、できるわけないじゃん」


 息を吹きかけるような距離、吐息混じりの声、そして――


 その瞳は、いつもの穏やかな優しさとはまるで違っていた。


 ふわりと微笑みながらも、目だけは鋭く光っていて――

 まるで獲物を見つけた肉食動物のように、射抜くような視線を向けてくる。


 ――あ、これヤバいやつだ。


 僕の本能が、一斉に警報を鳴らし始める。


 ストラップの話に感嘆と感動をして、うっかり舞い上がってたけど……そもそも、どうしてこういう話をするに至ったのかを完全に忘れてた。


 馬乗りになったひーちゃんは、頬をほんのり赤く染めながら、ハァ、ハァと小さく肩を上下させて息をしていた。


 呼吸が浅くなっているのがわかる。

 鼓動の速さが、距離の近さを通して伝わってくる。


 僕の胸元に手を置いたまま、彼女はそっと潤んだ瞳を僕を向ける。


 「ねえ、たけくん……私、もう、ダメなんだけど」


 そうだった。

 今のひーちゃんは――


 完全に“攻め”のひーちゃんなんだった。

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