朝の通学電車、前から二両目のロングシート。その中央に座る真秀に、杏がそっと声をかけた。


「真秀先輩、おはようございます」


「舎利倉さん、おはよう」


 彼は顔を上げるとにっこりと笑った。杏はその隣に腰を下ろし、小さな封筒を取り出す。


「さっき、優美から渡されたんです」


 封を開けると、中にはネームプレートと数枚のスナップ写真が入っていた。


「それが、例のワークショップの名札なんだね」


「はい。写真も、リーダーが撮ってくれたものは郵送で頂いたそうで昨日見せてもらったんですけど……これは、優美のお母さんが迎えに来たときに、うちの母も一緒になって。優美ん宅のカメラで四人で撮ってもらったものですね」


 真秀は写真を手に取ると、しばらく黙って見つめていた。


「悪口を言う子ってさ、天性の“えぐり屋”だからね。“上手に”人の気にしてることを突いてくるんだよ」


「……はい。わたしも、そう思います」


 昨夜は胸がぎゅっとなって苦しかったけれど、一晩経ってみれば、楽しかったこと、面白かったことが少しずつ思い出せた。それも、彼に伝えた。


 真秀はふと笑って言った。


「僕は舎利倉さんの小さい頃は知らないけど……このスナップ、いい顔して写ってる。楽しかったんだね。それに……リトル神崎くんの言った事は事実じゃなくて単なる悪口だ。だってこんなに可愛いし」


 不意の「可愛い」に、杏の顔がふわっと熱を帯びる。


―― うれしい。


「すごく慰められました。ちょっと仇とった気分です」



 その朝、初めて音楽の話をまったくしなかった。






 ホームで優美と合流した。


「優美、ありがとね」


「ううん。引き出しにずっと入れっぱなしにしてたからさ。渡せる日が来て、ほんとよかった」


 二人で並んで歩きながら、久しぶりに思い出話に花が咲いた。






 朝の教室。HR前のひととき、いつもの四人で名札とスナップを囲んで談笑していたとき――


「ねえねえ舎利倉さん! ちょっとだけいい?」


 その声と同時に、数人のクラスメイトがずんずんと近寄ってきた。机を囲むように立ってその子たちは次々に話しかけてきた。


「昨日さ、中庭で――」


「――お姫様抱っこされてたのって、杏ちゃんでしょ?」


「写真、まわってきたんだよね。ほらこれ!」


 スマホの画面に映し出されたのは、中庭の一角を遠くから撮った画像。画質は粗いが、確かに彼女が抱え上げられている姿が映っていた。


「てか、あの人でしょ? 二年の……サッカーの……」


「ムーミン先輩だっけ」


「包容力しかないよね、あのフィジカルは」


 わっと盛り上がる女子たちに、杏は机に突っ伏してしまった。恥ずかしさで顔が埋まりそうだった。


 ちょうどそのとき、先生が教室に入ってきてSHRが始まり、とりあえずの騒ぎは収束した。


 ---


 休み時間。教室の隅で話していた仲間内に、さっちゃんがぼそっと言った。


「動画もあるらしいよ、杏」


「もう、既成事実化してるから、いっそ付き合っちゃえば?」


 と愛実。


「だって、事実じゃないもん!」


 珠樹がなだめるように言う。


「そこはムーミン先輩に口裏合わせてもらって、そういうことにしとけば?」


「嘘はイヤ!」


「方便だって。実質、付き合ってるようなもんでしょ?」


「……いいもん。平気だもん。なんともないもん」




 珠樹が苦笑しながら言った。


「それにしても元凶の神崎、我関せずって顔してたね、あんにゃろ」


「まあ、放っておけばいいよ、あれは」


と、優美。






 そのあと、廊下を歩いていた杏は、またしても視線を感じていた。二年生の女子グループが、こちらをちらちら見ながら話している。


「あれじゃない? 粕畠と付き合ってるって噂の子」


「お姫様抱っことか、やりおるな粕畠。動画見たわー」


「でもあの子、実物、けっこうかわいくない? ほっそいし」


「そりゃあんたに比べりゃ皆“ほっそり”だって」


「うっさいな! でもさ、粕畠って、意外とムッツリ系だよね」


「ちょっと! 聞こえるってば!」


 背中越しに笑い声が響いた。杏は無言で顔を伏せ、早足になった。


 隣を歩いていた優美が、静かに呟く。


「要相談案件につき。放課後、先輩と話、しなさいよ」


 ---


 その日の放課後。二人は地元駅までさっさと帰ってきて、駅東のお手頃カフェで向かい合っていた。


 杏は、おずおずと聞く。


「真秀先輩。クラスで“かまわれ”ませんでしたか?」


「うん、かなり」


 真秀は楽しげに笑った。


「笑い事じゃありませんよ、もう……あ、心配して助けていただいたのは、すごくうれしかったんですけど」


「ありがと」


「優美に“既成事実化してるし、付き合ってることにしたら”って言われたんですけど……」


「それで、なんて答えたの?」


「“嘘はイヤです”って言いました」


「そっか。うん、そうだね」


 ふと沈黙が訪れる。少しして、真秀が鞄の中から封筒を取り出した。


「舎利倉さん。これ、読んで」


「は、はい。今、読んでもいいですか?」


「うん」


 杏は手紙を開き、短い文面を目で追った。



 


 舎利倉さん。君と話すのが楽しくて、自然に笑える。

 最初に話しかけられてから、毎日君のことを考えてた。

 

 こんななりだし、自信はないけど、でも本気で好きです。

 

 付き合ってください。

 




 杏は手紙を丁寧に畳んで封筒に戻すと、そっとテーブルに置いた。

 しばらく見つめたあと、また封筒を開いて文を何度も読み返す。


 そして顔を上げると、真秀の真剣な表情が目に入った。


 心がキュッと締めつけられる。胸が痛い。顔が一気に熱くなった。


 口の中がからからになって、杏はアイスティーを一気に飲み干した。


「真秀先輩。わたし、今すごくうれしいです。でも……返事は、いったん持ち帰りしてもいいですか?」


「うん」


 真秀の表情はあまり変わらない。それが、なんだか少しずるい気がした。


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