第22話 存在




 駆け走って、駆け走って、駆け走って。

 琉偉るいの駆け走る速度は留まるところを知らず上昇し続ける。

 スースースースー。

 胸に開いてしまった小さな穴がどんどんどんどん大きくなっていく。

 小さな穴を行き来する乾燥した冷たい風もどんどんどんどん強くなっていく。

 無視をしていたいのに、

 無視をするなと身体が責め立てる。


(こんな時に。紫宙しそらさんが危険な状態なのに。ぼくは何を考えているんだ。ぼくの事なんかどうでもいい。考えるな。考えるな。考えるな! 紫宙さんの事だけを考えるんだ。ふじさんの事だけを考えるんだ。藤さんの元まで無事に辿り着いて藤さんと一緒に紫宙さんの元まで戻る事だけを考えるんだ。それ以外は今は考えるな)


 駆け走って、駆け走って、駆け走って。

 藤の匂いを辿りながら駆け走り続ける琉偉は、未だ藤が勤める病院には程遠いにも拘らず色濃く嗅ぐ事ができた藤の匂いから、近くに居ると分かっては緩む涙腺を一気に引き締め直した。


 藤の顔を見たら涙腺が決壊して、泣き喚きそうだった。

 ただただ、縋りつきたくなりそうだった。

 辛い、悲しい、怖いと。

 そんな事をしている場合ではないのだ。

 そんな情けない姿を見せたくないのだ。


「藤さん助けてください。紫宙さんが狼の姿のぼくの猛毒に侵されて、吸血衝動を必死に抑え込んでいて、もしかしたらアルコール依存症の禁断症状も出ているのかもしれないんです」

「そうか。分かった」

「お願いします」


 身体に力を入れて冷静沈着に発言する事ができた琉偉が一息入れる間もなく、藤を案内する為に、藤に背を向けて駆け走ろうとした時だった。


「藤さん?」

「紫宙がどこに居るのか分かった。おまえはもう休んでいていい」

「でしたらぼくは後からついていきます。下ろしてください」


 不意に身体が浮遊したかと思えば藤の両腕に抱かれていた琉偉はそう言ったのだが、藤は琉偉を下ろそうとはせずに駆け走り始めた。


「藤さん」

「おまえを抱えて走っても、抱えずに走っても速度に変わりはない」

「………はい」


(………何で? 傷つく必要があるんだ。その通りでしょ。ぼくは子ども。だから。藤さんにとって。ぼくは、とても軽い存在で。何の重みもなくて………藤さんにとって、ぼくは、)


 常と変わらず淡々とした物言いの藤の言葉を、受け入れる余裕がなかった琉偉はしかし、藤の両腕から飛び降りそうになる身体を必死に抑え続けた。

 自分の気持ちを優先して飛び降りたとしても、恐らく藤は足を止める事なく走って紫宙の元まで最短で辿り着くはず。

 それはしかし、藤が一人で辿り着く事になるという事であった。

 二人で戻って来る。と約束したのだ。

 藤を連れて来ると、羅騎らきと約束したのだ。

 藤の両腕から下りて、自分の足で、手で駆け走って、藤より遅れて紫宙の元に辿り着く事などあってはならないのだ。


(ぼくを抱えて走った藤さんの方が、ぼくが駆け走るより、速い。から………ぼくは、遅い。なあ。ぼくは、弱いなあ。甘えて。ばっかりだ)


 そうして駆け走る藤の両腕に抱えられたまま紫宙の元へと到着した琉偉が目にしたのが、羅騎を吸血する紫宙の姿であった。












(兄様は紫宙さんを受け入れていた。吸血されて死ぬ事が、堪らなく怖くて。吸血されて死ぬ事が、堪らなく嬉しくて。でも。紫宙さんは自分自身も兄様も受け入れられなくて、)


 石英硝子、ソーダ石灰硝子、ホウケイ酸硝子、クリスタル硝子、結晶化硝子、熱強化硝子、化学強化硝子などなど、多種多様な硝子の生産地でありながら、様々な硝子を用いた建物が観光名所となっている小国『紅鏡こうけい』。

 濃淡様々な紅色のクリスタル硝子と熱強化硝子で創られた居酒屋にて。


 羅騎と共に遅れてやって来た琉偉は紫宙と藤を見つめて、やっぱり特別な関係なんだろうなと思いつつ、藤の質問に流麗に答えた羅騎の全てに胸を熱くさせつつ、羅騎を見上げては、得意満面の微笑を浮かべたのであった。


(やっぱり兄様は、)











(2025.5.3)



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る