8/29 12:02
≫≫仮名昏町、
暑い。容赦のない日差しの強さと風の無さが、脳味噌を煮ようと襲ってくる。こんなんだったらまだ店手伝ってた方が良かったかもしれないなぁとちょっと思った。
「……
「ん、おぉ来たんだ。てっきりもう来ないのかなと。」
「昨日あんな話したのにそれは無いですよ。――これ良かったらどうぞ。」
「?……えっ、なにこれ美味そう。」
「昼ごはんです。食欲無いので代わりに良ければ。」
「わぁっ、ありがとう!頂きます!」
昨日と同じ座席に、同じ服装で、同じ体勢で、
ただまぁ、姉さんは私の事が嫌いだろう。鑑さんが頬張っているサンドイッチを見て思う。お店で出すサンドイッチは、丁寧に耳が切り落とされ、均一で綺麗な焼き目が付いていて、チーズが零れそうなほど入っているのだが、姉さんは私にそういうサンドイッチを作ってくれたことは無い。極端に火が入っていないか焦げている耳付きの食パンに、市販品のハムと溶けていないスライスチーズが挟まっているだけの代物だ。ダイレクトに嫌悪感を感じるから、最近はちゃんと味がしない。
よくこんなの食えるな、と思いながら鑑さんを見ていると、だんだんと食べるスピードが遅くなっていき、私の方を見た。
「……ケチ付けるようで悪いんだけどさ、これどなたが作ったの?」
「……さすがに気づきますよね。」
「へ?」
「何でもないです。それ、作ったのは私の姉です。」
美味しく無いですよね、そう言って笑うと鑑さんは驚いていた。
鑑さんはそこから5分ほどかけて、サンドイッチを動作として咀嚼して全て飲み込み終えた。食べ終えた後、鑑さんの口からは溜め息と共にあの黒い液体みたいなのが霧状になって外に溶けて行った。思わず目を細めた。
「ごちそうさまでした。お腹はいっぱいになったよ、ありがとう。」
「いえこちらこそ。」
流石に連日食べ物を捨てるというのは気疲れする。こちらとしても全然好都合だった。鑑さんは少し疲れた様に笑ってから息を整えて私に向き直った。
「あー……、ちょっと待ってくれる?暑くなってきちゃった。」
「お構いなく。どうぞ。」
そう言うと、鑑さんはまずジャケットを脱いで、ワイシャツの袖を肘の下ぐらいまでたくし上げ、三つ編みをとネクタイ解いて、ワイシャツにショルダーホルスターだけの姿になった。この人物凄く髪が長い。軽く首を振りながら髪を全て下ろした鑑さんの顔は前髪でほとんど表情が伺えなくなったが、直ぐにかき上げてこちらに顔を向けてくれた。少し微笑んでいるその顔は、昨日とは全く違う人に見えて不思議に感じて思わず私も少し笑った。鑑さんは私にヘアゴムを差し出して言う。
「ごめん、髪結んでくれない?」
「良いですけど……、ご自分でやった方が綺麗じゃないですか?」
「いや私、腕攣っちゃうから髪結べないんだよね。さっきの三つ編みもいつも人にやって貰ってるし。」
「えぇ……大丈夫なんですかそれ……。」
とは言いつつ、いつも携帯させられているが使うことの無い折り畳みの櫛を初めて使いながら、高めの位置で1つに括ってみる。
「……髪、長いですね。」
「だよねぇ。鬱陶しいから切りたいんだけどさ。」
鑑さんの髪は、紺色の様な黒色の様な深い色をしていた。手指には柔らかくてさらさらした感覚だけが広がって来る。こんなに状態の良い人の髪を、私は中々見た事が無かった。……顔整いも相まって、手入れの行き届いた人形みたいだ。
「お嬢さんの髪も素敵だよね、色が。」
「……はは、そうですか?」
私は思わず声が震えた。嬉しくも悲しくも無かったのに、声が震えて上手く言葉になっているのか分からなかった。無理に声を出したみたいで、喉がひりつく。
「初めて言われました、そんなこと。」
私は今、泣いていないだろうか。
「――本当に正気じゃないわ、自分の娘にっ……。」
「……仕方ないじゃないか、あんなに愛らしい天使だぞ。」
「ふざけないでよっ!」
姉さんが居なくなった家は随分広くなって、暗くなった。今まであの人が居た事の大事さが、私はようやく分かったみたいだった。でももうあの人がここに帰ってくることは無いのだろう。
私は変な子供だった。生まれた時からずっと、ずっとずっとずーっと変な子供だった。今はもう死んだが、私が生まれて直ぐ、私の母方の祖母は何回か私を殺そうと試みていたらしい。
生まれつき色素が薄い上、背中に痣があった。父さんはよくその痣を指でなぞりながら、これはきっと羽の跡だね、君はきっと天使かなにかの生まれ変わりだよと笑っていた。母さんは私の事が嫌いみたいで、父さんが居ないところでよく引っぱたかれた。
小学3年生の時、姉さんは都会の高校に行くことを決めてあっさりと実家を離れた。私は9歳、姉さんは16歳ぐらいだったはずだ。それからあの6月まで3年あったが、彼女は1度も帰って来なかった。両親はそれについてあまり気にかけていないように見えていたが、母さんはたまに姉さんに縋る様な電話をかけていた。大の大人がぐずついた声で娘に何かを乞うていた。よく鬱陶しがられて電話を直ぐ切られ、それを嘆いていた。
姉さんが上京した年の夏から翌年の春にかけて、私の体はおかしくなった。
髪が真っ白くなった。それに合わせて目の色が栗色から琥珀の様になった。父さんはますます天使の様だねと喜んでいた。母さんはますます私の事が嫌いになったみたいだった。けど合わせて肌も透き通るみたいに白くなってしまったから、殴ったり引っぱたいたりしたことがバレやすくなって、前ほど痛みを感じることは無くなった。
姉さんが上京して2年経ったとき、我が家はとてつもなく暗かった。雰囲気、オーラがという話ではない。物理的に暗くなっていた。
父さんと母さんは目を合わせることも無くなって、家の中はいつも冷たくて静かだった。それから、2人の口からとめどなく黒い液体が流れ出続けて、いつの間にか家の中は真っ暗で光が入って来なくなっていたのだ。
母さんは部屋で寝込むことが増えた。父さんはいつもとおんなじ、変わらない様子でお店に立っていた。その時期は扇崎さんとこ味落ちたなという人の声が結構聞こえたけど、父さんには聞こえていないみたいだった。
あの時は正直、母さんより父さんの方が面倒だった。あの人は、姿が変わった私に対して色欲?肉欲というのかな、そういうのを隠そうとしなかった。私が風呂から上がった時にでも遭遇してしまったら、鼻息荒くこちらに迫って来ては何か言っていた。生理的な恐怖と気持ち悪さを感じてほとんど聞いていなかった。しきりに顔を撫でながら、私の手になにを押し付けて嬉しそうだった。それをされた日には胃酸が空になるぐらい吐いた。2度ほどそのことが母さんにバレて大喧嘩している時間があった記憶がある。2回とも深夜で雨の音が聞こえた。
寝込んでいた母さんの部屋に、父さんが作ったスープを持っていたことがある。6畳の和室の襖を開けた時、凄い勢いで黒い液体が溢れて来て、体をすり抜けてそれが外に流れて行った。母さんは布団の上に座って、昼間なのに暗くてちゃんと見えない外の景色を見ていた。待てど暮らせどこちらを見ないので、私は布団の傍にそのスープを置いて、無言で部屋を後にしようとした。その時だった。
背中に熱さを感じた。ゆっくり振り返ると、スープ皿を掴んだ母さんが鬼の様な形相で私を見ていた。スープ皿は空になっていた。母さんは指先が真っ白になるほどの力を込めてスープ皿を掴んでいたけど、私が驚いて声を出せずにいるとそのスープ皿を私の方に思い切りフルスイングで投げてきた。幸い避けたが。
この人、私の背中に思い切りコンソメスープをかけたらしい。沸いた熱湯を背中に掛けられたと同じぐらいの事だ。直ぐにズキズキと痛みが広がる。
「お前っ……。お前がいるからっ……。この化け物がっ……。」
何一つ理解が追い付かない言いがかりというか、うわ言というか。母さんはふらりと立ち上がって、へたり込む私の髪をめいいっぱい掴んだ。
「……しの……私の娘を返せぇぇぇぇぇっ!」
畳に顔をこすりつけられて頬が切れた。口の中も血の味が酷く広がる。私は何を間違えたのか分からなかった。母さんは私の上に叫びながら馬乗りになった。しまったと思った時には遅かった。彼女の手には――スプーンが逆手で握りしめられていた。
母さんはそれを、私の琥珀色の目玉に向けて思い切り振り下ろした。
「……かはっ。」
はずだった。
私の体の下から、黒い液体で出来た腕の様なものが突然現れ、母さんの体を弾き飛ばしたのだ。どうやら――背中の痣から腕の様な、羽の様な何かが生えているらしい。私はゆっくり立ち上がった。母さんを見下すように。母さんの顔には恐怖しか浮かんでいなかった。
いつの間にか私は本当に特別な存在になっていたらしい。
「……君ってば結構壮絶だね。」
私の支離滅裂な思い出話を聞いた鑑さんは、静かにそれだけ言った。鑑さんは私の髪を櫛で梳きながら何か考えているようだった。低く唸りながら、暫く黙っていた。
鑑さんには黒い腕の話はしなかった。理由は簡単、多分それがバレたら私は殺される。鑑さんは前、あの黒いのを容赦なく撃ち殺した。あれは『ひずみ』と呼ばれていて、人の負の感情?から出来る駄目な物らしい。
――私は、あの黒い液体を好きに操れるみたいなのだ。
背中から黒い腕が生えた時、あの腕は私の意思では動いていなかったけど、確かに私を守る様に動いていた。
父さんと母さんが居なくなったあの金曜日、家の窓は全部あいていて、久しぶりに外の明かりが家の中まで入ってくるような明るさがあった。雨が強くて、開け放たれた窓からは雨がざぁざぁ吹き込んでいた。
6畳の畳敷きの和室。そこに2人は居た。けどもう、駄目だった。
あの2人が居なくなってから、私は長い時間動くことが出来なかった。だから馬鹿なフリをした。2人が旅行にでも行ったと思った、そう言って誤魔化した。
――あの時、体中に黒い液体が入り込んできた感覚が今でも皮膚に張り付いている。体がずん、と重くなって丸1日動けなくなった、あの心地よくも気持ち悪い感覚。私の両親だった、両親の形を乗っとったあの液体は今でも私の体の中で生きている。ぐるぐると渦を巻いて、私の体の中で生きている。
「――謡ちゃん。」
鑑さんの落ち着いた声が、少し遠くから聞こえた。私はそっと顔を上げる。それから、今まで感じたことの無い何かに体の奥の方が包まれる気がした。鑑さんは物凄く優しげな眼をしていた。優しく、暖かい目をしていた。
「偉かったね。」
私はその時初めて、目から涙が溢れて止まらないという感覚をしった。悲しくも苦しくもなんともないのに、ずっと泣いていた。
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