雪解けの本能、鉄鋼榴雨
「おかわり!」
「おお……なんだなんだ?」
「十朗がこんなに元気なの久しぶり……お兄ちゃんは何か知ってる?」
「あーんーまあ。なんとなく察しはついてるけどな。まあまあ、良い事じゃねえかよ、弟が辛気臭えままだと飯もまずいしな」
「華弥子ちゃんと進展があったのか?」
「キスとか!?」
「ちっちっち。遅れてんねえお二人さん。十朗は俺の弟だ、新たな恋に向かって進んだんだよ」
何やら勝手に兄ちゃんが俺の青春を話しているが、今はさっぱり気にならない。何とでも言えばいい、なんとでも言って笑えばいい。勝手に話のタネにして盛り上がればいい。全ては些事だ。どうでもよくなった。
―――まだ、あの柔らかさの残滓が掌に残っている。
様子がおかしいというなら家に帰って自分のベッドでのたうち回り、何度も床に落下してはそこらじゅうを走り回った奇行を見られた時から気にしていない。
「御馳走様!」
家族団欒をしたくない訳ではなかったが、それよりもこの興奮をまずは抑え込まないといけない。自分の部屋に逃げるように飛び込むと、犬のぬいぐるみに抱き着いて、今の自分の気持ちを一気に爆発させた。
「んふふ~んんふふふふっふふっふっふ~ んー!」
顔を埋めて足をばたつかせる。そうだ、俺は恋人が出来たらこんな事をしてみたかった! これで誰かに文句を言われようと知った事じゃない。綺麗ぶって彼女のお願いを全部聞いて、我慢して、綺麗ぶって、我慢して…………親しき仲にも礼儀ありとも言うが、そんなのは礼儀ではなく、お互いを尊重出来ないだけだ。
「あー…………おーい。十朗。十朗君やい。おーい」
「兄ちゃん。どうしたの?」
「うわあ急に落ち着くなよ。昔からお前の感情は分かりやすいとは思ってたが、今日はいつにも増してとびきりだ。あの子と進展あったのか?」
「……うん」
兄ちゃんは鍵を後ろ手で閉めると、景気の良さそうな顔で壁に沿ったソファに腰掛ける。
「ほう。流石は俺の弟だな! しっかしお前の変わりぶりを見てると前の彼女とは、全然上手く行かなかったんだな。あんなに喜んでたし、入れ込んでたし、もっと上手くやれてるもんだと思ってたよ」
「デートが終わったら毎回楽しかったって言ってたもんな。まあ、嘘じゃなかったんだよ。あの時は本当に楽しいと思ってたんだ」
そう、まるで自分に言い聞かせるようだった。悪い夢を見ていたのだ。それは良い夢だったと言い聞かせて、悪夢に魘されていた自分を認めたくなくて。後から振り返ってみればやっぱり辛いだけだったというのに。
「早い話が深夜テンションみたいなもんだな。気持ちは分かるぜ。俺も三個前の彼女と付き合った時はそんな気持ちになってたよ。してる時は楽しいんだ。でも終わると、疲れる。楽しかったよりも前に疲れるが先に来るんだ」
「…………下世話な話だからあんまり聞きたくなかったんだけどさ。兄ちゃんは彼女さんと恋人っぽい事した? してる? 今も」
兄ちゃんが、目を丸くして俺の方を二度見した。わざわざ首を横に振って見逃さないでほしい。わざとやったのがバレている。
「―――お前からそんな話が出るとはな。もしかしてもう……そういう感じか?」
「か、身体は……さ、触っていいって言うから、触った。結構。凄く。うん」
「身体、触った? …………あー、悪い悪い。俺が先走ってた。お前の前の彼女、華弥子だっけ。流石にお高くとまりすぎじゃないか。彼氏に身体すら触らせないのか? 結構長い事付き合ってたよな。Bじゃないなら、ハグとかキスは?」
「ないよ。機嫌を損ねそうだから俺も求めなかった」
「かー! お前、そりゃ…………なんだ。普段受け身な癖によく振ったなって感じだ。俺はお前の判断を尊重するぞ。結果、今の彼女と知り合ったんだもんな」
うんうんと一人で頷く兄ちゃん。慌てて俺の質問を思い出し、取り繕うように息継ぎなしで話しだす。
「ああはいはい。いや、忘れてねえぜ。あんまり言うのはちょっと恥ずかしいんだが、今もしてるぞ。俺らさ、なんだかんだこういう発言を表立ってするのが恥ずかしいような教育を受けてきたじゃんか。だからあんま言及はしたくねえけど、そういうのは恋人とのコミュニケーションだ。今のお前に言うのも変だけど、恋人にするなら自分の汚いと思う部分も受け入れてくれるような人にするべきだぞ。どうせ今回も本気なんだろ?」
「あー。んー。えー」
恋人という設定で、今は華弥子に復讐をする為に協力関係を築いているだけという話を兄ちゃんにして何の意味があるというのだろう。勘違いは深まっていくが暫くこのままにしておいた方が良い。十中八九話はややこしくなる。
「兄ちゃんさ。華弥子を見て俺とは似合わないみたいな事言ったり、やけに洞察力に自信ある感じでしょ。透子の事も当ててみてよ。どういうタイプなのか」
「俺は超人じゃねえっての。家にお前を迎えに来ただけの一瞬で分かる訳ないだろ。ただまあ、お前の事が大好きってのは伝わった」
「何で?」
「玄関であの子はお前の声を聴いた時、目が笑ったんだよ。本当に一瞬だけど、お前が透子って呼ぶだけで嬉しそうにしてた。それくらいだな」
透子から貰った携帯を手に、布団の中で悩んでいる。風呂にも入って就寝準備も追えて後は寝るだけなのに、電話をしたい欲求がふつふつと湧き上がっていた。
―――本当にいつでも出てくれるのかな。
流石に迷惑だと思うからしないけど。でもしたい。そうやって何度も無意味な寝返りを打っていると、突然携帯が鳴りだして飛び上がってしまった。慌てて音のする方向を掴むと、そっちは俺の携帯だった。真司からの電話だ。
時刻は夜の十二時。いい迷惑である。
「…………こんなクソみたいな時間に電話してくるバカはお前くらいだ」
『おいおい。俺は空気読めないという設定でやらせてもらってるがお前にこんな事をしたくてしてる訳ないだろ? くく、お前の困り顔を見たいなら直接顔が見える所でやるさ。誰が顔の見えねえ電話越しに……いやそれもありか。想像の余地があるよな』
「用件を言わないと切るぞ。二度とかけてくるな」
『あー待て待て。そりゃ困る。お前、華弥子との個人グループをブロックしたろ。話したい事があるのに話せないって俺に泣きついてきてさあ! いやあモテる男は違うねえ、友達の好きだった子に頼られちゃうなんて』
「……お前の態度もよっぽどだと思うけど、何で当てにされるんだ?」
『そりゃ俺は面白い方の味方だからな! 後は単なる野次馬代表だからってか。それでお前はどっちがいい? ブロックを解除するのか、俺から伝言を受け取るのか』
…………ちょっと前の俺なら、華弥子と二人で話すのは拒んだだろう。多分、透子もやめた方がいいと言っていた。二人で話したらそれだけで絆されて手を抜くからと。俺も今ならそう考える。
けどもう、違う。華弥子のしてくれなかった事を彼女はさせてくれた。それだけ。たったそれだけでも、錆の様にこびりついていた未練が離れていくようだ。
「……じゃあ面白い事をしてやるよ真司。お前、今からグループ作って俺と華弥子を招待してくれ。そこで話す。お前はミュートで、絶対にしゃしゃり出て来るな。見届けるだけだ」
『おお!? その発想はなかったな。よしよし、牧師は任せろ。今から新郎新婦をお招きしてやるさ』
電話を切るや、招待が直ぐに来た。受けるも受けないも俺の自由で、少しだけ自由に使える時間はあるだろう。遅れた理由を咎められたら心の準備とか何とか言っておけばいい。
反対側の携帯で透子に電話を掛けた。迷惑だと承知の上で―――背中を押してほしくて。
ワンコールの終わらない内に、接続。
『夏目君?』
『…………水の音。シャワーでも浴びてるのか?』
『……似たようなものだけど、違うわね。シャワーを浴びていてほしかったの?』
『そ、そうじゃないけど。その。俺の力だけでも復讐を進めてみるよ。そういう機会がやってきたんだ。今なら上手くやれる気がする。応援しててくれ』
『―――私の作戦が上手くハマったなら、こんなに嬉しい事はないわ。君の心を剥がす為なら何でもするから、これからも遠慮しないで。それじゃ―――また明日』
『また明日』
心の準備は、完了した。もう片方の携帯から正体を受け、グループで通話を開始する。
「華弥子――――――俺みたいな最低のストーカーに、何か用か?」
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